中原中也に捧ぐ(2) | C'est ma vie

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毎日平凡でいられることの、非凡さを求めています。

 

 

前回の中也の年譜について、一部追加修正します。

 

中也がフランスに興味を持ったのは、小林秀雄と書きましたが、実際は富永太郎でした。

 

中也は京都時代に、彼より6歳年上の富永太郎と知り合います。

 

太郎は中也にフランス象徴派の存在を教えたのです。

 

大正13年(1924年)の頃です。

 

その富永も24歳の若さで亡くなります。

 

中也の心の傷はそうとう深いものがありました。

 

また、富永の紹介で知った、小林秀雄の元に、泰子が去ります。

 

小林秀雄は当時東大仏文科の学生で大変二枚目でした。

 

富永の死と、泰子との別れは、中也には相当の痛手でした。

 

 

年譜の続きです。

 

昭和2年(1927年)

上京、中野区に住む

 

昭和3年(1928年)

父謙助死去、中也葬儀には出席せず、高井戸に転居

 

昭和4年(1929年)

代々木富ヶ谷に転居

同人誌「白痴群」創刊、大岡昇平を知る

 

昭和5年(1930年)

東京外国語学校入学資格を得るため、中央大学予科に編入学

長谷川泰子が長男を出産(小林秀雄とは別れています)、中也、名付け親となる

 

昭和6年(1931年)

詩集「山羊の歌」を制作(刊行ではありません、資金不足でした)

東京外語専修科入学

千駄ヶ谷に転居

 

昭和8年(1933年)

東京外語専修科修了

上野孝子と郷里山口で結婚、東京四谷に新居を構える

 

昭和9年(1934年)

「汚れちまった悲しみに」発表

草野新平を知る

長男文也誕生

 

昭和11年(1936年)

文也死去(享年2歳)

次男愛雅誕生

中也の精神状態悪化

 

昭和12年(1937年)

神経衰弱治療のため、1月に千葉寺療養所に入院、2月に退院

10月5日結核性脳膜炎発病、6日鎌倉養生院に入院

22日午前零時10分永眠(享年30歳)

24日鎌倉寿福寺で告別式

郷里山口市吉敷にある「中原家累代之墓」に葬られる

 

昭和13年(1938年)

愛雅、山口で死去(享年2歳)

「在りし日の歌」創元社から刊行

中原中也賞が制定、第1回受賞者は立原道造

彼は、当時死の床にありました

 

 

とにかく30年という短い人生を駆け抜けた中也です。

 

 

しかし、彼の30年は大変波乱万丈で、中身の濃い人生でした。

 

 

次回は、中也の弟四男の思郎さんが執筆された「兄中原中也と祖先たち」(審美社)からご紹介します。

 

 

肉親でしか、知り得ない、分かり合えない、心の交流等、胸に響くものがあります。