中原中也に捧ぐ(1) | C'est ma vie

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毎日平凡でいられることの、非凡さを求めています。

 

今、私の手元には、一冊の本があります。

 

『兄中原中也と祖先たち』という題名が付いています。

 

この本はもう3回読みました。

 

実は、この本は、父親が2009年に亡くなり、父親の書棚から見つけたものです。

 

著者は、中原思郎さんで、詩人中原中也の弟で、四男です。

 

思郎さんから、父親に送られてきたのです。

 

1970年7月刊行です。

 

私、その時、Fランク大学に通いながら、いや完全に放棄していました。

 

すでに2浪していましたので、これ以上は浪人もできず、しかし、もう一度受験しようか、迷っていました。

 

自宅に居るのも辛く、とにかく手あたり次第に歩いていました。

 

そんな、私に父親は、中原中也の世界は理解できないし、興味も沸かないと思っていたはずです。

 

父親と中原思郎さんとは、旧知の中でした。

 

父親は、1930年代山口に住んでいました。

 

父親の父親(私の祖父)が、旧制山口高等学校の教授をしていたので、一家で瑠璃光寺の傍に住んでいたのです。

 

そして、父親は旧制山口中学に進学しました。

 

そして、同級生に中也の末弟、拾郎さんがいたのです。

 

当時、思郎さんは、旧制山口高等学校に通っており、祖父の教え子でもありました。

 

中也は、旧制山口中学を落第し、京都立命館中学を経て、東京外語専修科(仏語)に通っていました。

 

中原家は代々地元で医院を開業していました。

 

かなり、裕福でした。

 

しかし、中原家の重鎮であり、医師の父親が1928年に亡くなっていました。

 

私の父親と、拾郎さんが知り合った時は、中原家は衰退に向かっていました。

 

拾郎さんは、旧制山口中学卒業後、早稲田大学に進学されました。

 

私の父親は、法政大学に進学しました。

 

思郎さんは、京都帝大から大企業に進学されていました。

 

私の父親は、思郎「しろう」さんではなく、あだ名の「おもろうさん」と呼んでいました。

 

拾郎さんは、会社勤めしながら、ハーモニカの演奏者としても有名でした。

 

私も、テレビで拝見したことがあります。

 

私の父親は、長く、思郎さん、拾郎さんと年賀状の交換をしていました。

 

生前、父親はそのことを大変自慢していました。

 

 

『兄中原中也と祖先たち』は、中也亡き後に、当時は中原家の大黒柱であった思郎さんいより上述されました。

 

上の兄は全員他界したのです。

 

内容は、本当に肉親でしか分からない、分かりあえない、心に迫るものです。

 

 

私の父親は、おそらく中也の告別式に線香をあげに行ったはずです。

 

 

しかし、我が父親は、文学、詩歌には完全に門外漢でした。

 

いや、中原家全員が門外漢でした。

 

 

誰一人中也を理解していませんでした。

 

 

中原中也についてご紹介します。

 

明治40年(1907年)

4月29日 山口県吉敷郡(現在の湯田温泉)に、父謙助(30歳)、母福(27歳)の長男として生まれる

父は医師であり、旅順に駐屯していた。中也も母と共に旅順に赴く

 

明治41年(1908年)

山口の自宅に帰る

 

明治42年(1909年)

広島に住む

 

明治43年(1910年)

弟亜郎誕生

 

明治44年(1911年)

広島女学院付属幼稚園に入る

弟恰三誕生

 

明治45年・大正元年(1912年)

金沢市に住む

 

大正2年(1913年)

北陸幼稚園に入る

弟思郎誕生

 

大正3年(1914年)

父朝鮮竜山に赴任、中也、母、他の兄弟と共に、山口に帰る

 

大正4年(1915年)

弟亜郎死去

 

大正5年(1916年)

弟呉郎誕生

 

大正6年(1917年)

父、山口で医院を継ぐ

 

大正7年(1918年)

弟拾郎誕生(私の父の同級生で、盟友です)

 

大正9年(1919年)

旧制山口中学に入学

中也、7月頃から学業を怠る。短歌で入選する

 

大正10年(1921年)

旧制山口高等学校生が、中也の家庭教師となる

しかし、成績は下がる一方である

 

大正12年(1923年)

旧制山口中学落第、立命館中学に編入する

女優長谷川泰子と知り合い、同棲を始める

 

大正14年(1925年)

泰子と共に、東京新宿に移る、大学は受験せず

この頃、小林秀雄を知る

 

大正15年・昭和元年(1927年)

日本大学予科文科に入学する、しかし9月に家に無断で退学する

中野区に在住、このころアテネ・フランセで仏語を学び始める

(おそらく、小林秀雄の影響)

ランボー、ヴェルレーヌに傾倒する

 

 

今回は取り敢えず、ここまでの中也の歴史紹介とさせていただきます。

 

この頃までに、中也の波乱万丈の人生の下地ができていたような気がします。

 

 

PS:第29回中原中也賞が、本日の朝刊に、2月17日に決定との報道がありました。

   また、湯田温泉の中也生家跡にある「中原中也記念館」が開館したのは、1994年2月18日です。

  偶然か必然かは分かりません。

  尚、このブログは2月18日にアップしました。