今回は、中也の弟四男の中原思郎さんが上述された本を参考にしてご紹介します。
これは『兄中原中也と祖先たち』(審美社・1970年初版・中原思郎著)です。
内容は、兄中也に関する、幼少期から亡くなるまでの軌跡、思い出等です。
後半は中原家の家系、祖先について書かれています。
もちろん、この書はほとんどが、思郎さんが生まれてからの、兄中也との思い出の書です。
思郎さんは、1913年生まれ、中也は1907年生まれですので、中也より6歳年下です。
主に、思郎さんが物心ついてからの回想録になります。
中也との最初の記憶は、津和野にありました。
当時思郎さんは4歳、中也は10歳でした。
父親が、二人を津和野に連れて行き、乙女峠(キリシタン信徒35名が殉教した史跡があります。)や森鴎外の旧宅を訪れます。
兄弟は6人で、全員男でした。
中也はその長男です。思郎さんは四男です。
その下に2人いて、末弟の拾郎さんは、私の父の旧制山口中学の同級生で、盟友でもあります。
尚、次男は亜郎さん(1910年生まれ)、三男は拾三さん(1911年生まれ)、五男は呉郎さん(1916年生まれ)です。
中也たち6人の兄弟に対する、父親の躾は相当厳しかったようです。
もしかして、この頃から中也は父親に反発を感じていたのかもしれません。
父親は中也に長男教育をしていたようです。
中也は、小学生時代から成績は優秀で、習字も群を抜いていたようです。
中原家は地元湯田温泉で開業医をしていました。
家族を含め、15人の集団で生活をしていました。
中也は旧制山口中学(私の父親と同じです)に優秀な成績で入ります。
そして、弁論部に入ります。
その後の中也の口喧嘩ナンバーワンの才能は、おそらくこの時代に磨かれたのでしょう。
中也は、山口中学を落第し、立命館中学に編入します。
そして、中也一人京都に移住するこのなります。
もちろん、思郎さん他の兄弟とも別れです。
中也は、それからの人生を大きく左右する体験を。この京都時代に形作ったようです。
中也は、その後、東京の日大予科に入学しますが、中退しています。
中也のほとんどの学費、生活費等は実家から送られたものです。
中也は京都時代から身なりが、相当奇抜になったそうです。
サングラスをかけていたり、服装も奇抜だったとのことです。
そして、山口には度々帰郷していたとのことです。
しかし、父親の葬儀には出席しませんでした。
中也死後、山口の井上公園内に設置された中也記念碑には、中也の「帰郷」の詩が刻まれています。
そして、昭和8年(1933年)中也は、遠縁にあたる上野孝子さんと結婚します。
この当時の中也は地元では「変人」「ドラ息子」という評判だったそうです。
二人は東京に新居を構え、翌年に長男文也が誕生します。
しかし、昭和11年(1936年)、文也は亡くなります。
この時の中也の悲しみは尋常ではなかったようです。
冷たくなった長男と添い寝をしたそうです。
また、出棺の時も、泣き叫び、お棺を離さなかったのです。
そして、12月には次男愛雅(よしまさ)が誕生します。
この頃から中也の神経衰弱は昂じてきます。
昭和12年(1937年)元旦の朝、思郎さんは東京の中也宅を訪ねます。
中也が心配で様子を見に来たのです。
前日の大晦日に母親は先着していました。
中也は2階にいました。
母親と孝子さんは一緒には上がってきませんでした。
中也の精神状態は相当悪化していたのです。
中也の前には白い布をかぶせた小さな机があり、その上に真新しい文也の位牌がおいてあったのです。
中也はその前でただ座り続けるだけでした。
思郎さんは、中也を何とかして、外に連れ出しました。
中也は空気銃を取り出し、撃ち始めました。
(私的には、この時の中也の心情は痛い程わかる気がします)
そして、思郎さんは中也が当時住んでいた、鎌倉へ赴きます。
中也が重い病気に罹患し、鎌倉の病院に入院して、病状が悪化しており、急遽訪ねたのです。
母親は先着していました。
母親は思郎さんと、中也の病室に入りました。
中也に声をかけても、全く反応はありませんでした。
布団の中の中也は、身体はますます小さくなり、顔も表情も全くありませんでした。
10月中旬でした。
夜は冷えました。
深夜、控室にいた思郎さんを看護婦さんが呼びに来たのです。
中也の傍らには、母親と孝子さんがついていました。
中也の体に少し動きがあるというのです。
中也は口を少し動かしています。
そして、中也の指が、母親の指をタバコを吸うかのように、2本の指で挟んだのです。
そして、「おかあさん」と小さな声でもう一度「おかあさん」と呼んだのです。
奇跡です。
そして、中也は、
「僕は本当は孝行者だったんですよ」
「今に分かるときが来ますよ」
と言ったのです。
最後の声はしっかりしていたそうです。
そして、
中也の指は母親の手から離れて落ちたそうです。
昭和12年10月22日、午前0時20分でした。
この時の思郎さんの脳裏には、悲しみとともに、
中原家から「聖なる無頼」が消えた感慨が沸いたそうです。
私、この場面は何度となく読む度、胸にこみ上げるものがあります。
そして、中也の葬儀になります。
通夜は、お酒の通夜と化したそうです。
皆、酔いに任せて、議論爛漫だったそうです。
その中には、小林秀雄、大岡昇平、河上徹太郎等そうそうたる顔が揃っていたのです。
そして、告別式の日、
最後のお別れで、大岡昇平さんが、もう目を覚まさない中也に向かって、号泣されていたのが思郎さんの印象に強く残ったそうです。
そして、その式で、思郎さんが初めて、兄中也の偉大さに気づいたそうです。
そうです。
地元の人々、そして親族全員が、中也に対して理解、評価をしていなかったのです。
中也死後、遺族は鎌倉に約1か月住んでいました。
その間に、中也の遺品の整理をしていたそうです。
そして、孝子さんと次男愛雅は、家財道具一式をもって、山口の中也の実家に持って帰ったそうです。
孝子さんは次男愛雅とともに、中原家で家族の一員として過ごすことになったのです。
しかし、次男愛雅は翌年亡くなります。
孝子さんは、孤独感と寂寞感に襲われたのです。
その孝子さんを救ったのは、中也等の母親フクさんでした。
フクさんは、孝子さんに数々の習い事をしてもらいました。
孝子さんは、40歳の時に、再婚します。
野村恭雄さんです。
恭雄さんは、当時東京で参謀本部に勤めていて、先妻を亡くしていました。
二人の子供も抱えていました。
恭雄さんは、東大理学部出で、秀才でした。
そして、孝子さんは、恭雄さんの元へと東京へと旅立ちました。
フクさんは、子ども全員が男だったので、女の子が欲しかったのでしょう。
孝子さんが、その代わりをしてくれていたのでしょう。
東京へ嫁いだ後のフクさんの心情は、大変察しがつきます。
フクさんは、中也の死後44年生き抜き、1981年、101歳の天寿を全うされました。
思郎さんは、その母親の死を見届けるかのように、翌年亡くなりました。
享年69歳でした。
思郎さんは、中也亡き後、中原家の家長として、私事粉塵されてきました。
山口を訪れる中也愛好家のために、案内をされたり、時には一緒に酒を酌み交わしたりしていました。
思郎さんは、一生涯を通じて、兄中也に対する、不義理、未理解等に自責の念を感じておられました。
そんなことは、全くありません。
1965年に中原家生家の近くの公園に中也の詩碑が建ちました。
(私、2019年に山口を訪れた時に撮影したものです)
小林秀雄さんと、大岡昇平さんが中心となって建てられたものです。
子ども好きだった中也をモチーフに、子どもが遊べるような形でした。
その碑には、小林秀雄さんによる一文と、大岡昇平さんによる碑文と、中也の詩「帰郷」が刻まれています。
思郎さんら、中原家の親族は、しばらく詩碑に近づけなかったそうです。
中也を理解してあげられなかった、懺悔の気持ちからなのです。
私は、そんな気持ちを持つ必要はないと思っています。
中原家の親族の皆さん、故郷の存在があったからこそ、中也は無頼の人生を送れたのです。
中也にとっては、中原家親族、故郷が一生心の支えになっていたはずです。
中原家、故郷があって、中也があったのです。
そのことは、おそらく、中也の友人たちも感じていたはずです。
長くなりました。
私的に、中也に捧げる意味もあり、我が祖父、父に捧げるために、このブログをアップしました。
最後に、中也詩碑に刻まれている、中也の「帰郷」の詩をご紹介します。
「帰郷」(山羊の歌より)
柱も庭も乾いている
今日は好(よ)い天気だ
椽(えん)の下では蜘蛛の巣が
心細そうに揺れている
山では枯木も息を吐(つ)く
ああ今日は好い天気だ
路傍(みちばた)の草影が
あどけない愁(かなし)みをする
これが私の故里(ふるさと)だ
さやかに風も吹いている
心置(こころおき)なく泣かれよと
年増婦(としま)の低い声もする
ああ おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云(
柱も庭も乾いている
今日は好(よ)い天気だ
椽(えん)の下では蜘蛛の巣が
心細そうに揺れている
山では枯木も息を吐(つ)く
ああ今日は好い天気だ
路傍(みちばた)の草影が
あどけない愁(かなし)みをする
これが私の故里(ふるさと)だ
さやかに風も吹いている
心置(こころおき)なく泣かれよと
年増婦(としま)の低い声もする
ああ おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云(い)う