野口雨情巡礼① | C'est ma vie

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野口雨情巡礼①

 

何回かに分けて、日本を代表する童謡詩人の一人である、野口雨情について語りたいと思います。

 

(野口雨情の若い頃の写真です。結構二枚目です)

 

なぜに、私が雨情に入れ込んだかというのは、実はお墓がわが家の墓の近くだからです。

 

距離にして、10メートル位でしょうか、歩いて30秒です。

 

 

我が家の墓は、1965年に建てました。

 

場所は、東京都小平霊園です。

 

 

雨情は1945年に宇都宮で亡くなり、生まれ故郷の磯原の実家の墓に納骨されました。

 

 

当時雨情は前妻ヒロさんと離婚し、東京で後妻つるさん、ご子息存彌さん、前妻との子ども二人と暮らしていました。

 

宇都宮は戦時中で疎開先でした。

 

 

妻であった、つるさんは、後妻であるゆえに、雨情のお墓詣りは躊躇いもあったことと察しられます。

 

それもあり、つるさんの一人息子野口存彌さんが、1961年8月、当時住んでいた吉祥寺からも近い小平霊園に墓を建て、磯原から雨情の骨を分骨しました。

 

 

雨情のお墓が、我が家の墓の近くにあることは、実は今から15年位前に判明しました。

 

 

本当に驚きました。

 

(野口雨情のお墓です。2013年11月撮影)

 

 

墓石は本名の英吉と刻まれています。妻のつるさんのお名前もあります。

 

 

現在、ご子息の野口存彌さんも、2015年に亡くなり、三人仲良くこのお墓に入っていると思います。

 

存彌さんは生涯独身だったようです。

 

 

お墓の手入れ等は、地元の小平の有志の方が、定期的に行っています。

 

 

ちなみに、野口存彌さんは後妻つるさんとの間に1934年に生まれたご子息です。

 

早稲田大学仏文科卒の、文芸評論家でした。

 

 

野口雨情のことを一番知っている方です。

 

生まれて14年間一つ屋根の下で寝食を共にしていました。

 

 

前妻との間に生まれた長男雅夫さん(存彌さんの25歳年上)とは、雨情はおそらく雅夫さん5歳から8歳の間、磯原で同居してたと思われます。

 

存彌さんの方が、雨情の記憶が鮮明だったと思います。

 

 

存彌さんは雨情からすると三男です。

 

ただし、つるさんからすると長男になります。

 

 

この件で、私、今から4年前に、雨情生家を訪れた際に、当時館長でした、野口不二子さんから大叱責をいただきました。

 

ご案内していただいた不二子さんに、私、存彌さんを長男と言ってしまったのです。

 

野口不二子さんは長男雅夫さんの長女です、雨情の孫です。

 

存彌さんが生まれた時は、雨情と後妻となるつるさんは、入籍していませんでした。

 

入籍したのは1935年です。

 

ゆえに、三男が正しいのです。

 

 

不二子さんが怒られた、このあたりの心情はもっともなことでした。

 

 

これから、私の雨情巡礼の旅が始まります。