野口雨情巡礼②
今回は、野口雨情の簡単な略歴をご紹介します。
野口雨情(本命英吉)
1882年(明治15年)
廻船問屋を営む名家の長男として茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)に生まれる。
1901年(明治34年)
東京専門学校(現・早稲田大学)文学部中退。この頃から詩作活動を始める。
1904年(明治37年)
父親の事業失敗と死により、故郷(磯原)に戻り家督を継ぐ。
栃木の資産家の娘、同い年の高塩ヒロと政略結婚をする。
雨情にとっては、気の進まない結婚であった。
詩作にも打ち込み「雨情」の号を名乗る。
1905年(明治38年)
処女詩集「枯草」を水戸から自費出版するも反響はなかった。
(おそらく、この時に後妻となる中里つるさんと知り合ったのでないかと、私的には思っています)
1906年(明治39年)
長男雅夫さん生まれる。
雨情、窮屈な家庭を飛び出し、樺太に渡る、その後東京へ居を構える。
妻ヒロさん、東京へ出向き、雨情を連れ戻そうとする、しかし雨情は拒否する。
(雨情は、ひろさんと同居するのが、苦痛だったのでしょう)
~1909年(明治41年)
雨情、北海道に渡り新聞社に入るも、首となる。六の新聞社を転々とする。
1907年(明治40年)
長女みどりさんが生まれる、しかし一週間で亡くなる。
この時の思いが、後「シャボン玉」の詩に繋がったという説が生まれる。
(しかし、私的にはこの説は間違っていると思っています。私の解釈は次回述べたいと思っています)
1909年(明治41年)
いったん帰郷するも、すぐに上京する。
1911年(明治44年)
実母の死により、郷里に戻る。
1914年(大正3年)
痔の湯治のために、いわき湯本温泉を訪れる。
湯本の入山礦業所(後・常磐炭鉱)で事務員の職に就く。
いわき錦町(植田)の祖母宅から、湯本まで通う。
この頃、芸者置屋「柏屋」の女将明村まちとねんごろになり、結局「柏屋」で3年半過ごす。
1915年(大正4年)
夫人との協議離婚が成立、雨情、子どもの内、二児を引き取り、三人で「柏屋」で過ごす。
*このいわき湯本時代が、雨情の人生にとって、大変重要な役割をもっていたと思います。
この時代が、もしかして、雨情にとって人生最高に幸せな時だったかもしれません。
引きとった子は二人とも女の子だと思います。
しかし、雨情にはまだ、子どもがおり、おそらく磯原の実家には男児二人が残されたと思います。
雨情は野口家の長男であるがゆえに、男児二人は、実家で、親族に引き取られたのではないでしょうか。家督を引き継ぐためです。
この時、長男雅夫さんはまだ9歳でした。次男の方の情報はありませんでした。
男児二人の母親ヒロさんの、その後は不明です。すでに野口姓の人間ではありません。
母親と男児二人が分かれるのは、大変辛く寂しいことであったはずです。
しかし、野口家に住まわせるのはできなかったかもしれません。
母親の郷里、栃木に戻られたのかもしれません、または、野口家の一部屋を与えられて、男児二人と暮らしたかもしれません。
そして、1943年にヒロさんは、野口家に復籍するのです。
母親ヒロさんは、死後、もちろん実家の裏にある野口家のお墓に埋葬されたました。
いわき湯本は私の妻の郷里です。両親亡き後、義弟が一人家を守り、個人スポーツ店を経営しています。
私も、結婚後これまで50~60回は訪れています。
小平のお墓といい、雨情とは、何か不思議な縁を感じてしまうのです。
1918年(大正7年)
雨情、水戸の中里つるさんと駆け落ち。
つるさん、雨情が引き取った二児と四人で上京、1924年からは吉祥寺に居を構える。
1931年(昭和6年)
つるさんとの間に長男存彌さん誕生。
(雨情以外、二児の子供、雨情の孫も全て女性だったのではないでしょうか、そのため、男子を望んでいたのではないでしょうか、ちなみに長男存彌さん誕生時、雨情は49歳、つるさんは29歳でした。)
1935年(昭和10年)
雨情とつるさん入籍、真の夫婦となる。
1943年(昭和18年)
雨情、軽い脳出血で療養に専念。
1945年(昭和20年)
疎開先の宇都宮鶴田町で死去、享年62歳。
地元鶴田町で地味に葬儀が行われ、骨は実家磯原の先祖代々の墓に納骨される。
(宇都宮鶴田の家です、現在も地元のご尽力により保存されています)
以上が雨情の年表です。
それにしても、雨情と私との何か目に見えない縁を感じてしまうのです。
次回は、2019年に私ひとりで行った雨情探訪の様子をご紹介します。
その時に、前回にも触れた、雨情生家資料館の館長、野口不二子さん(長男雅夫さんの長女、雨情の孫)にも再度触れたいと思っています。
私の自責の念も込めて。