日本と赤い蛮国の関係悪化の原因、その所在について。
言うまでも無く、赤い蛮国にあることは、
誰も疑いの余地は無いであろう。
しかし、それを適時発信できない日本の外交力の無さ、
外交手段とロジックの貧困さ。
これこそが日本の未だ治らぬ病というのか、
大変大きな大きな問題のひとつであり、
今後への致命的な損害を及ぼす元凶のひとつである。
この 「 日本の外交力 」 を早急に、
今と比較にならない位にまで引き上げないことには、日本国民は、
相変わらず暗澹とした思いで、日本の政治外交を見続けることになるでしょう。
「 表現下手・外交下手な日本 」 というレッテルを早く返上しないことには、
”日本の本来の国益”の保護には中々至らないでしょう。
民主党・枝野氏が、先日の赤い蛮国のドタキャン事件について
コメントを出していた。
「 こじれている理由はひとえに■国サイドにある。
「 日本側の事情なら打開の努力をするが、
こちらが関係修復のために何かすべきだとは思わない。 」
まったくその通りである。
赤い蛮国のお家芸のひとつであるこのような醜悪なやり方によって、
まんまとやられてしまった日本、その悪化させられしまった関係を、
またもわざわざ日本側がせっせと、
修復に向けて今後も動き続けていくのだろうけれど、
日本の政治家・官僚たちは、どうしてそこまで無策であり続けるのか。
いわゆる”お人好し外交”と揶揄されている状況から脱却したくて
たまらない者が多いのも事実であるが、実のところ未だに
どう立ち回ればいいのか、結局のところ分からないのである。
赤い蛮国や北の廃国に対して何兆円もの拠出をし、
お返しに唾を吐かれ恫喝されている場合ではない。
まず日本も自国の、
外交・交渉のプロを雇い学習するべきだろう。
ところで、
日本の事実認識については、どこか卑屈な印象が残る。
「 赤い蛮国は、日本との関係修復を全く望んではいない 」
ということを、政府やその関係者はどれほど理解しているのだろうか。
正しく理解しているようには見えない。
相手が関係修復を望んではいないという事実から目をそらし、
呪文のように関係修復、友好と唱えながら次の一手を考え続ける
日本外交は、赤の蛮国から見たら大変滑稽な様子に映っているのかもしれない。
日本の民族性をうまく突かれているかたちである。
関係構築は、いつでもかつでも 「 友好 」 ありきの日本。
まず友好という”赤絨毯”を敷かなくては、”相手に失礼”ということだろう。
”友好の赤絨毯”が無いと、何も先に進めることができない日本。
つまりそういうことである。
それはまるで、
朝ご飯は、必ず白ゴハンと納豆におしんこに、
熱いしじみの味噌汁が出されるまで、
朝ご飯を一切食べようとしない、頑固親父そのものではないのか。
友好というカードからいつでもスタートして自分たちの意とする結果が
誰からでも引き出せると思っていること自体、平和ボケの典型である。
だから共産圏の国に、とくにナメられてしまうのである。
友好というカードから始める外交のリスクの大きさ、
失うものの多さ、非効率さについて早く認識するとともに、
他の外交手段、違う関係構築の手段を
早急に日本は身に着ける必要が、大いにある。
登山で登頂を目指す際に、10本も20本も登山道がありながら、
常にそのうちの1本しか登ることが出来ない登山者では、
いつまでたってもプロの登山家には遠く及ばないのと、正に同じである。
外交は自己満足で終わってはならない。
日本人の価値観として、日本人からみれば、
友好関係の構築から物事を始めようとすることは、
そのような考え方、そのような行動は、
至極ごもっともな対応のひとつであると、無論百も承知である。
しかしそれはある意味、
日本人の価値観の押し付けであると、他国民からは言われるかもしれない。
日本人の価値観が最高でも最良でもなんでもない。
日本という世界の中にあるひとつの国の、
あるひとつの価値観であるという、ただそれだけのことである。
それ以上でもそれ以下でも無い。
他国の目線、感性、文化、行動を
日本は今後も真摯に学習する必要がある。
日本は相手国のことを、ただ知った気になっていて、
本当は表面的な理解すら出来ていないという印象である。
赤い蛮国のように、価値観やその価値観が出来た背景などが
まるで違う国の、筋金入りの狡猾な蛮族からからみれば、
日本の言論など、まるで意味不明で貧弱な
訳の分からないハナシに過ぎないのかもしれない。
日本人の常識が、赤の蛮国以外のアジア諸国、
あるいは日本の裏側でも常に賛同されるような
普遍的なものであるなんてことはむしろあり得ない訳で、
これから先、それらのことを前提に
外交を組み立てていくことが経済的・合理的なやり方であろう。
従って、友好関係を前提にした関係修復というものは、
ある意味、”日本人の驕り”に他ならないのでは無いか。