3月20日、春分の朝日を拝む。
設立者、杉本博司氏の活動分野は写真、彫刻、建築、造園など多岐にわたる。
彼のアートは歴史と存在の一過性をテーマとしている。
アートの起源は古代人が天空のうちにある自身の場を確認する作業だった。
時を立ち戻り、冬至、夏至、春分、秋分に測候し、未来への糸口を探る。
日の出前の相模湾。
夜明け前の明月門(室町時代)。
鎌倉の明月院の正門だった。
塀は半割りの竹を縦に並べて壁面を構成する「木賊張り」が施されている。桂離宮や伊勢神宮茶室なども同様。
夏至光遥拝100mギャラリー。
春分光遥拝をどこでするか場所を探す。光学硝子舞台越しに空が染まり始める。
天気に左右されるので前日から気をもんだが、雲が多いながらも遥拝できそうな気配。
茶室前の散策路でその時を迎えた。
石造鳥居。
正面は日の出の軸線上にあたるため立ち入れないエリア。
それでも鳥居の中を日の光が射す様子が拝めた。
茶室の躙口から陽光が日の出とともに床に差し込む。躙口が軸線上に設計されている。
遥拝後、敷地内を回る。
円形石舞台。
中央は大名屋敷の大灯籠を据えていた伽藍石、周囲の放射状の石は京都市電の敷石、
周りの巨石は江戸城の石垣のために切り出されたもの。
冬至光遥拝隧道。
円形石舞台の左端が入口。
死と再生の節目として世界各地の古代文明で祀られてきた冬至。
冬至の朝、昇る陽光はこの70mの隧道を貫き、対面に置かれた巨石を照らし出す。
隧道の中にある光井戸(江戸時代)。
雨天時、雨粒の一滴一滴が降り注ぐのが目視できるらしい。
中に光学硝子破片が敷き詰められている。
隧道の先端。
相模湾から昇った春分の朝日。
この日は強風のため、止め石が置かれ、先へは行けない。
相模湾。
隧道の上からの眺め。風が強くなければ海に突き出た先端まで行ける。
光学硝子舞台。
春分の陽光が舞台の上に輝く。
檜の懸造り。京都の清水寺の舞台や鳥取の三徳山文殊堂などと同様。
光学硝子が敷き詰められた舞台。
古代ローマ円形劇場遺跡を実測して再現された観客席。
光学硝子舞台と石舞台をつなぐ石の路。
石舞台に続く石段。
石段から続く石舞台への橋掛かりには23トンの巨石が並ぶ。
石橋の軸線は春分秋分の朝日が昇る軸線に合わせて設定されている。
能舞台の寸法を基本として計画された石舞台。
演能は夜明け前の薄闇に曙が差すころ始まり、後ジテが冥界に帰る頃にその背に朝日を受けるという構想で設計されている。
東大寺七重塔礎石(天平時代)。
高さ100mを超えていたと言われる東塔の礎石と思われる。
礎石としては我が国最大級のもの。
石舞台の橋掛かりからの枯山水。
枯山水の向こうに三角塚。
三角塚。
三角塚の舞台の頂点は春分秋分時の正午の太陽の方角を指している。この時太陽は子午線を通過する。子午線とは南極と北極を結ぶ大円で子の方角(北)から午(南)に伸びる線を指す。
三角塚から見える東大寺七重塔礎石と橋掛かり。
三角塚。
石室。
夏至光遥拝100mギャラリーの大谷石の構造壁と根府川石の浮橋。
根府川石の浮橋。
平滑面を持つのが特徴的な根府川石の自然石を踏石として地表から僅かに浮かせて設置してある。
亀石。北東の方角に向いて泳いでいるように設置されている。北東は鬼門の方角にあたり、その先には首都圏があって、文明が滅びたあと古に栄えた都があった方角を指し示す。
手前から元興寺礎石(天平時代)、法隆寺 若草伽藍礎石、京都五条大橋礎石。
冬至光遥拝隧道の光井戸。
海抜100m地点に立つ夏至光遥拝100mギャラリー。
大谷石の自然剝離肌に覆われた構造壁。
夏至光遥拝100mギャラリー内。
夏至の朝、海から昇る太陽光はこの空間を数分間にわたって駆け抜ける。
小松石の石組と三角形の苔庭。
ギャラリー先端部12mは海に向かって持ち出しとなっている。
展望スペース。
大谷石。
壁の対面は柱の支えなしに自立している硝子板。
ギャラリーから見えた円形石舞台。