ring.75 砂つきキャンディーの思い出 | 魔人の記

ring.75 砂つきキャンディーの思い出

ring.75 砂つきキャンディーの思い出


幼い頃の自分と、当時一緒に遊んでいた少年が出会った。
これを現在の正文が認識して数秒後、風景に変化が起こる。

まず、幼い正文と少年の動きがピタリと止まった。
それから小さな彼らふたりを中心に、空間が歪み始める。

「な、なんだ!?」

現在の正文はわけがわからず周囲を見回すが、歪曲する空間に対して打てる手など何もない。
気がつけば彼自身の体も歪んで、幼い正文の体に吸い込まれる。

「うわぁああああーっ!」

現在の正文があげる悲鳴までも歪んで、最後の方はまるでホラー映画に出てくる化物の咆哮を思わせる低音へと変わる。
そして彼の大きく太い体は、幼い自分の中へと完全に入り込んだ。

歪曲は洋館や背の高い草にも及び、少年ふたりを取り巻く景色は短い時間の中で劇的な変化を遂げる。
その動きが止まった時、現在の正文は幼い自分の中でこんな言葉を口にした。

”ここは…昔住んでた家の近く……あっ?”

口にしたつもりだったが声は出ない。
空気を震わせる『音』にならない。

”なんだこれ……俺はどうなったんだ?”

現在の正文が疑問に思っていると、幼い正文と少年が動き始めた。

「ピンポンでイタズラしてるの、キミだよね」

少年が、幼い正文をとがめる。
幼い正文は、まさか住人が出てくるとは思わなかったのだろう、ひるんだ様子で弱々しく言い返した。

「な、なんだよおまえ」

「もうイタズラしないで」

「…うっ、うるせー!」

幼い正文が声を張る。
その直後に駆け出した。

彼はしばらく走った先で立ち止まると振り返り、少年に向かって叫ぶ。

「バーカバーカ! おまえんちおばけやしき!」

「!」

「くやしかったらこっちまできてみ…えっ!?」

幼い正文はこっちまで来てみろ、と言うつもりだったのだが、その言葉が途切れる。
少年が、あまりにも意外な反応を見せたのだ。

「…う…」

イタズラをとがめた気の強さはどこへやら、少年は悔しげに顔をくしゃくしゃにする。

「うぅ……うぇえ」

彼は両手を自身の目元にあてがったかと思うと、涙をぽろぽろと流し始めた。
これには幼い正文も大いに戸惑う。

「えっ? ええっ!?」

「うえええええええん」

「ちょ、ちょっ…」

幼い正文はあわてた様子で少年のそばに戻る。
気まずさに満ちた表情で、そっと謝った。

「ごめん」

「うえええええ」

「ごめんー」

「おばけやしきじゃないもぉおん。ちがうもぉん」

「…ごめん…」

「えええええええん」

少年は泣き止まない。
幼い正文は困惑しつつも、どうしたものか考える。

と、彼は何かを思い出した。
自身の半ズボンに顔を向けると、右のポケットに手を突っ込む。

そこから個包装の丸いキャンディーを取り出した。
幼い正文は3秒ほどそれをじっと見つめていたが、やがて意を決した様子で少年に差し出す。

「な、なあ。これやるからもうなくな」

「うええええん」

少年は変わらず泣き続け、受け取ろうとしない。
幼い正文はさらに考え、キャンディーの包装を少しだけ開けてから再び差し出した。

「…ほら…」

「うぇええええん!」

少年は感情の収まりがつかないのか、右手でキャンディーを乱暴に払いのける。
この拍子に、包装の隙間からキャンディー本体が出てしまった。

丸いキャンディーは地面をわずかに転がって、その身に砂をまとう。
これではもう食べられない。

今度は幼い正文の顔がくしゃくしゃになった。

「お、おかあさんがかってくれたあめ…」

小さな胸の中に母親の笑顔が浮かぶ。
それが悲しげな表情へと変わった。

母親が、幼い正文のためにと買ってくれたキャンディー。
それを他人にあげようとしたばかりか、地面に落として食べられなくしてしまった。

「…おかあさん……ごめんなさ…」

幼い正文は、申し訳なさに胸をしめつけられる。
まだ10歳にも満たない彼にとってその苦しさはあまりにも強烈であり、とても耐えられるものではなかった。

「うええええええええん!」

幼い正文は、少年よりも大きな声で泣き出した。

「…?」

少年は何が起こったのかと驚き、思わず泣き止む。
最初に幼い正文を見て、その次に地面に落ちたキャンディーを見た。

キャンディーには、早くもアリが接近している。

「あっ」

少年は、自分が何をしたのかここでようやく理解した。
アリよりも先にキャンディーを拾い上げると、幼い正文に謝る。

「ご、ごめんねっ! アメくれたのに、ごめんねっ!」

「うええええぇん!」

「えっと…あの…」

「おかあさぁん、ごめんなさぁああい!」

幼い正文は、母親への申し訳なさから周りが見えていない。
少年の声も聞こえていなかった。

「……」

少年は、幼い正文への声がけを断念する。
砂がついたままのキャンディーを見つめた。

しばらくそのままでいたが、やがて意を決したように幼い正文へ顔を向ける。

「ねえ!」

少年は少し強めに、幼い正文の肩を叩く。
幼い正文が振り向いた。

その直後。

「あむっ」

少年は、砂がついたままのキャンディーを口に入れる。
これに幼い正文は驚き、泣き止んだ。

彼は目を丸くして少年に尋ねる。

「あめ…」

「おいしいよ、ありがとう」

「…うん…!」

幼い正文は笑顔でうなずく。
少年も笑顔を返した。

とはいえ、キャンディーについた砂を飲み込むわけにもいかない。
ふたりはそろって公園へ行き、そこの水道で少年は口をゆすぎキャンディーも洗った。

そして少年が再びキャンディーを食べる頃には、ふたりはもう自分たちが泣いた理由を忘れていた。
彼らは日が暮れるまで、公園で目いっぱい遊んだ。

”あの子との出会い…こんな感じだったのか”

現在の正文が、幼い正文の中で驚く。

彼の驚きは幼い自分に何の影響も与えない。
少年たちは今も、目の前で元気に遊んでいる。

現在の正文がどういう状態なのかというと、幼い正文に乗り移っている、という言い方が一番しっくりくるだろう。
そのおかげで、彼は一部始終を間近で見ることができた。

”そういえば昔…母親、いやあの女に言われたな”

出会いの記憶に刺激されたのか、現在の正文はさらに詳細な記憶を思い出す。

”家の近くにある大きな洋館…あそこには近づいちゃいけないって。なんで? って訊いたらオバケが出るからって言われた。だから俺はあの洋館をお化け屋敷だと思ってた。あの子はそこに住んでた…でも”

彼は不思議に思う。

”なんで俺はこのことを忘れてたんだ? こんなに印象的なら、忘れるわけないと思うんだけど”

疑問は他にもあった。

”それにあの子…なんか、雰囲気がちがうような……エロ本を一緒に読んだ時とか、俺が木から落ちた時よりも、なんというか…中性的だ”

それがどのような意味を持つのか、現在の正文にはわからない。
わからないことを嘆くつもりもなかった。

”なんとなくだけど、いずれは全部わかるような気がする。とにかく今はいちいちうろたえないで、感じられるもの全てを感じ取ってみよう”

現在の正文はそう考え、公園を観察する。
大きな木と古い公衆トイレが印象的なその場所の名を、彼は難なく思い出した。

”ここは…あそこだ、小窪公園だ。大きな木と、死んだ赤ん坊が発見されたトイレ…間違いない”

現在の正文がこのことに気づいてから数秒後、少年ふたりを中心にまたもや空間が歪み始める。
どうやら、現在の正文が理解を進めるごとに場面が変わっていくようだ。

歪曲が止まるごとに、少年ふたりがさまざまな場所で遊んだ記憶が現れる。
やがては川原で大人の本を見つけたり、幼い正文が木から落ちたりと、彼にとって馴染み深い記憶も現れた。

”やっぱり雰囲気が違う”

現在の正文は、少年の変化に関して手応えを感じる。

”気のせいじゃないぞ…俺と遊び始めて、あの子は少しだけ男の子らしくなった。成長したってことなのか? それだけ長く一緒にいたってことなんだろうか?”

そして次の場面で、彼はこれまでとは真逆の変化を目の当たりにする。

「えっ…? まぁくん、おひっこしするの?」

”あれ?”

「なんで? なんでおひっこしするの? もういっしょにあそべないの?」

”男の子じゃないぞ。これは……”

「あえなくなるの、いやだよ。ボクもいっしょにいく」

”…女の子だ…”

男の子らしく成長していたはずの少年が、女性らしい雰囲気をまとっていた。
幼い正文が、母親の事情で一坂を離れることになったと少年に告げた時のことである。

”小さい頃は男の子だと思ってたのに、大きくなったら女の子だった…っていうのとは、なんか違う…どう違うのかはうまく説明できない。でも、違う…!”

現在の正文は、困惑しながら事の次第を見守る。
困惑しているのは幼い正文も同じだったようで、少年にある提案をした。

「な、なくなよ。こんど、いいとこつれてってやるから。な?」

ここで空間の歪曲が発生する。
歪曲が収まった時、幼い正文の言った『いいとこ』がどこなのか判明した。

それは──

”学校…!?”

夜の、一坂小学校だった。


→ring.76へ続く

・目次へ