ring.76 不思議の始まり
ring.76 不思議の始まり
昔はなぜ、これほどまでに奇妙なものが流行っていたのか。
今の感覚からすると、そんなふうに首をかしげたくなることがよくある。
幼い正文が過ごした時代もそのひとつだ。
この時代はオカルトやホラーといったものが、サブカルチャーではなく文化の中心にあった。
硬派を売りにしている報道番組ですら、怪異の存在を無視できなかったのである。
集団下校や警察が出動するほどの騒ぎになったことも、一度や二度ではない。
老若男女問わず誰もが、口では否定しつつも、心の底では恐怖の大王が本当に降ってくるのではないかとほんのり恐れていた。
こういった時代の影響は、小学校の放課後に子どもをあずかる学童保育の場にも色濃く現れた。
施設の本棚には児童書だけでなく、オカルトやホラー関連の書籍が数多く並んだ。
幼い正文自身も、文字通り怖いもの見たさでそれらを読み、夜眠ると悪夢を見た。
彼だけがそうだったわけではなく、ほとんどの子どもが似たような経験を何度も繰り返した。
つまりそれが『この時代の普通』だったわけである。
そのため、幼い正文は予想だにしなかった。
「こ、こわい。こわいよぉ」
今や少女と化した少年が、夜の一坂小学校を前に動けなくなるなど完全に想定外だった。
幼い正文は大いに戸惑い、不思議そうに声をかける。
「なんだよおまえ…うごけないのか?」
「う、うぅ。なんでこんなとこが『いいとこ』なの……ぼくもうかえりたい」
「なにいってんだよ、きたばっかじゃねーか」
「だってこわいんだもぉん。うぇえ」
「…ええー…? ちょっとまてよ、なくなって」
幼い正文は、少女と化した少年をなだめる。
それから学校の裏手にある茂みに、ふたりして隠れた。
少女と化した少年が、幼い正文に尋ねる。
「なあにここ?」
「しっ、だまってろ。おとなにみつかる」
「あ、うん…まだかえらないの?」
「ちょっとまってろ、どうするかかんがえるから」
幼い正文はそう言うと、腕組みして思案した。
「どーすっかな…」
彼は、少女と化した少年を楽しませるつもりだった。
オカルトやホラーといった、世間で猛威を振るう流行を体験するのは楽しいに決まっている。
そんな認識が幼い正文の中にあった。
だからこそ、少女と化した少年を夜の一坂小学校に連れてきたのだ。
幼い正文としては遊園地にでも連れてきたつもりでいた。
しかし、相手はそれを求めていなかった。
少女と化した少年は流行に関係なく、怖いものを嫌った。
これでは楽しませるどころではない。
方針の変更を余儀なくされ、幼い正文は必死に考える。
「…うん」
そして答えが出た。
彼は、少女と化した少年に話しかける。
「まだこわいか?」
「うん…でも、まぁくんいるからちょっとへいき」
「よし、じゃあがっこうのなかにはいるぞ」
「えっ! いやだよ、こわいよぅ」
「てぇつないでてやるからがんばれ。きょうしかないんだよ、よるでられるの」
「なんでよるなの? にちようのひるじゃだめなの?」
「あいつらはよるしかでてこないんだ。さあ、いくぞ」
幼い正文は、少女と化した少年の手をつかんで立ち上がる。
「あっ?」
手を引っ張られては、少女と化した少年も立つしかない。
半ば無理やりに、一坂小学校のすぐそばへと連れていかれた。
当時は、学校に危険人物が侵入するなどといったことがほとんどなかった。
そのため、必ずしも厳重な管理を必要としなかった。
一坂小学校の校舎裏には学童保育用の建物がある。
その建物裏のブロック塀は、一部が壊れたままになっていた。
壊れた箇所は穴になっている。
直径は決して大きくないが、子どもなら入れそうだ。
「こっからなかにはいるぞ」
幼い正文はそう言うと、少女と化した少年の手をつかんだまま、器用にしゃがんで穴を通り抜けた。
抜けた先で立ち止まったりはせず、そのままの勢いで進む。
「わ」
少女と化した少年は再び手を引っ張られて思わず小さな声を漏らしたが、幼い正文に逆らうことなく後に続いた。
こうしてふたりは夜の一坂小学校に侵入した。
「ね、ねえ、まぁくん」
少女と化した少年が尋ねる。
「『あいつら』、ってだれ?」
「このがっこうにはな、ななふしぎが『いる』んだよ」
幼い正文は、『七不思議がある』のではなく『いる』という言い方をした。
少女と化した少年は七不思議の概念自体を知らないため、当然ながら彼に問い返す。
「ななふしぎ?」
「ああ。あいつらはよるしかでてこない。あえるのはきょうだけなんだ。そいつらにあわせてやる」
「ぼ、ボク、べつにあいたくないけど…」
「おれがあいたいんだよ。いっしょにあそべば、きっとたのしいぞ」
「う、うん」
少女と化した少年は明らかに乗り気ではなかったが、幼い正文にうなずいてみせた。
その後で、彼とつながっている手を見る。
「ふふっ」
にっこりと微笑んだ。
幼い正文はそれを不思議に思って「どうした?」と尋ねたが、少女と化した少年は「なんでもない」とごまかした。
その後、ふたりは校舎2階にあるトイレにやってきた。
幼い正文は、少女と化した少年とつないでいない右手で、女子トイレを指差す。
「ひとりめはここにいる」
「…? トイレ? だれがいるの?」
「えーっとなあ…はなこ……いや」
「はなこ?」
「ちがう、『こはな』だ。ここにはななふしぎのひとり、『こはな』がいる」
”!?”
現在の正文は、幼い自身の言葉に驚愕した。
”『こはな』……『小花』だって!?”
彼は思い出す。
今もミカガミ内の一坂小学校で、他の仲間と遊んでいるであろう小花を。
そしてその想起は、現在の正文にさらなる気づきを与える。
しかし、彼がそれを言葉として認識する前に場面が動いた。
「おまえ、なかにはいってよんでこい」
幼い正文が、少女と化した少年にそう指示したのである。
だが少年は首を横に振った。
「いやだよ、はいりたくない」
「なんでだよ。おまえ、なんかおんなみたいだしはいれるだろ」
「こわいもん…」
「ええー? おまえがはいらないとさくせんが」
「さくせん?」
「な、なんでもない! しょーがねーな、おれもいっしょにはいって…あ」
幼い正文は、女子トイレの前で立ち止まる。
ふたりとも上靴をはいていないことに気づいたのだ。
当時の公衆トイレはお世辞にも衛生的とはいえず、それは学校に設置されたものも例外ではなかった。
21世紀の現在ですら裸足で入るのはためらわれるというのに、抗菌という概念すらない時代の公衆トイレに裸足で入るなど正気の沙汰ではない。
「く、くそ…」
幼い正文は非常に困惑した。
彼は、少女と化した少年に女子トイレの個室へ向かわせ、『小花』を呼び出させたところで自分がその『小花』になりすますつもりだった。
ちなみに最初のプランでは、『トイレの花子さん』について少年に話してやり、女子トイレで呼び出す儀式をして驚かせてやるつもりだった。
しかし少年があまりに怖がるため、『トイレの花子さん』ではなく『小花』という新たな存在を、急ごしらえで作り出したのだ。
『花子さんを呼び出す儀式』を『小花へのなりすまし』にごっそり入れ替えることで、幼い正文は新たなプランを完成させたつもりでいた。
それが見事に頓挫してしまったのである。
結局、彼は少年と一緒に女子トイレ前で『小花』を呼んでみたが、何の成果も得られなかった。
「…ご、ごめん…」
幼い正文は、少女と化した少年に謝る。
だが、少年は笑顔でこう返した。
「ううん、なんかおもしろかったから、いい」
「ほんとか?」
幼い正文の顔に、元気が戻る。
彼は少年の手を引いて歩き出した。
「じゃあつぎいくぞ、つぎ!」
「う、うん」
少女と化した少年は、すでに前を向いて歩き出した幼い正文の後頭部を見ながらうなずいた。
この頃から、少年は「こわい」という言葉を口にしなくなった。
校内を歩き回る間、ふたりが互いの手を離すことはほとんどなかった。
七不思議をめぐる旅は、少女と化した少年にとって、幼い正文のぬくもりを感じ続ける一大イベントとなった。
音楽室に侵入した時などは、七不思議を紹介する側であるはずの幼い正文が、夜闇に浮かび上がる音楽家の肖像画に驚いて思わず少年に抱きついたりした。
「あ、あああアレな、あれはな、ベントーベンっつって…」
「ベートーベン…じゃないの?」
幼い正文に抱きつかれたままの状態で、少年は彼に訊く。
不思議そうなその顔は頬が少し赤らんでいるだけで、恐怖の色は全くない。
一方、幼い正文は相手の気持ちなどつゆ知らず、新たな七不思議のデータを思いつくままに口走った。
「それは、ほ、ほんもののほうだろ。ななふしぎのヤツはベントーベンっていうんだ。こいつはラップでしゃべるんだぜ」
「ラップ? おさらにかぶせるアレ?」
「そっちじゃなくてうたのほうな。ほら、『れつ・ごうぞう』の『オレはきょうとへいくんだぜ』みたいな」
「え、なにそれ」
「『れつ・ごうぞう』しらねーの!?」
幼い正文は飛び上がる勢いで、少女と化した少年から離れた。
しかしすぐに思い出す。
「あ、そーいやおまえんち…テレビないんだったな」
「うん。おとうさんがね、『そんなテイゾクなものはひつようない』って。なんかいかおねがいしたんだけど、やっぱりダメだって……」
「テイゾク、ってなんだ?」
「わかんない。よくないことだろうとはおもうんだけど」
「そっかー」
幼い正文はつまらなそうに、少女と化した少年とつないだ手を左右にぶらぶらと振る。
と、そこへ光が投げかけられた。
直後に怒声が轟く。
「こらー!」
誰かが通報したのだろう。
懐中電灯を手にした警官に見つかってしまった。
「にげるぞ!」
幼い正文は、少女と化した少年の手を引いて脱兎のごとく逃げ出した。
ふたりは警官に捕まることなく、一坂小学校を脱出した。
だがその翌日から、少女と化した少年に会えなくなった。
幼い正文が洋館を訪ねても、誰も出てこない。
このままでは会えないまま引っ越すことになる。
「…やるっきゃねえ!」
幼い正文は最後の手段に出た。
隙間という隙間を利用して外壁を登り、洋館の敷地内に入り込むのだった。
→ring.77へ続く
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昔はなぜ、これほどまでに奇妙なものが流行っていたのか。
今の感覚からすると、そんなふうに首をかしげたくなることがよくある。
幼い正文が過ごした時代もそのひとつだ。
この時代はオカルトやホラーといったものが、サブカルチャーではなく文化の中心にあった。
硬派を売りにしている報道番組ですら、怪異の存在を無視できなかったのである。
集団下校や警察が出動するほどの騒ぎになったことも、一度や二度ではない。
老若男女問わず誰もが、口では否定しつつも、心の底では恐怖の大王が本当に降ってくるのではないかとほんのり恐れていた。
こういった時代の影響は、小学校の放課後に子どもをあずかる学童保育の場にも色濃く現れた。
施設の本棚には児童書だけでなく、オカルトやホラー関連の書籍が数多く並んだ。
幼い正文自身も、文字通り怖いもの見たさでそれらを読み、夜眠ると悪夢を見た。
彼だけがそうだったわけではなく、ほとんどの子どもが似たような経験を何度も繰り返した。
つまりそれが『この時代の普通』だったわけである。
そのため、幼い正文は予想だにしなかった。
「こ、こわい。こわいよぉ」
今や少女と化した少年が、夜の一坂小学校を前に動けなくなるなど完全に想定外だった。
幼い正文は大いに戸惑い、不思議そうに声をかける。
「なんだよおまえ…うごけないのか?」
「う、うぅ。なんでこんなとこが『いいとこ』なの……ぼくもうかえりたい」
「なにいってんだよ、きたばっかじゃねーか」
「だってこわいんだもぉん。うぇえ」
「…ええー…? ちょっとまてよ、なくなって」
幼い正文は、少女と化した少年をなだめる。
それから学校の裏手にある茂みに、ふたりして隠れた。
少女と化した少年が、幼い正文に尋ねる。
「なあにここ?」
「しっ、だまってろ。おとなにみつかる」
「あ、うん…まだかえらないの?」
「ちょっとまってろ、どうするかかんがえるから」
幼い正文はそう言うと、腕組みして思案した。
「どーすっかな…」
彼は、少女と化した少年を楽しませるつもりだった。
オカルトやホラーといった、世間で猛威を振るう流行を体験するのは楽しいに決まっている。
そんな認識が幼い正文の中にあった。
だからこそ、少女と化した少年を夜の一坂小学校に連れてきたのだ。
幼い正文としては遊園地にでも連れてきたつもりでいた。
しかし、相手はそれを求めていなかった。
少女と化した少年は流行に関係なく、怖いものを嫌った。
これでは楽しませるどころではない。
方針の変更を余儀なくされ、幼い正文は必死に考える。
「…うん」
そして答えが出た。
彼は、少女と化した少年に話しかける。
「まだこわいか?」
「うん…でも、まぁくんいるからちょっとへいき」
「よし、じゃあがっこうのなかにはいるぞ」
「えっ! いやだよ、こわいよぅ」
「てぇつないでてやるからがんばれ。きょうしかないんだよ、よるでられるの」
「なんでよるなの? にちようのひるじゃだめなの?」
「あいつらはよるしかでてこないんだ。さあ、いくぞ」
幼い正文は、少女と化した少年の手をつかんで立ち上がる。
「あっ?」
手を引っ張られては、少女と化した少年も立つしかない。
半ば無理やりに、一坂小学校のすぐそばへと連れていかれた。
当時は、学校に危険人物が侵入するなどといったことがほとんどなかった。
そのため、必ずしも厳重な管理を必要としなかった。
一坂小学校の校舎裏には学童保育用の建物がある。
その建物裏のブロック塀は、一部が壊れたままになっていた。
壊れた箇所は穴になっている。
直径は決して大きくないが、子どもなら入れそうだ。
「こっからなかにはいるぞ」
幼い正文はそう言うと、少女と化した少年の手をつかんだまま、器用にしゃがんで穴を通り抜けた。
抜けた先で立ち止まったりはせず、そのままの勢いで進む。
「わ」
少女と化した少年は再び手を引っ張られて思わず小さな声を漏らしたが、幼い正文に逆らうことなく後に続いた。
こうしてふたりは夜の一坂小学校に侵入した。
「ね、ねえ、まぁくん」
少女と化した少年が尋ねる。
「『あいつら』、ってだれ?」
「このがっこうにはな、ななふしぎが『いる』んだよ」
幼い正文は、『七不思議がある』のではなく『いる』という言い方をした。
少女と化した少年は七不思議の概念自体を知らないため、当然ながら彼に問い返す。
「ななふしぎ?」
「ああ。あいつらはよるしかでてこない。あえるのはきょうだけなんだ。そいつらにあわせてやる」
「ぼ、ボク、べつにあいたくないけど…」
「おれがあいたいんだよ。いっしょにあそべば、きっとたのしいぞ」
「う、うん」
少女と化した少年は明らかに乗り気ではなかったが、幼い正文にうなずいてみせた。
その後で、彼とつながっている手を見る。
「ふふっ」
にっこりと微笑んだ。
幼い正文はそれを不思議に思って「どうした?」と尋ねたが、少女と化した少年は「なんでもない」とごまかした。
その後、ふたりは校舎2階にあるトイレにやってきた。
幼い正文は、少女と化した少年とつないでいない右手で、女子トイレを指差す。
「ひとりめはここにいる」
「…? トイレ? だれがいるの?」
「えーっとなあ…はなこ……いや」
「はなこ?」
「ちがう、『こはな』だ。ここにはななふしぎのひとり、『こはな』がいる」
”!?”
現在の正文は、幼い自身の言葉に驚愕した。
”『こはな』……『小花』だって!?”
彼は思い出す。
今もミカガミ内の一坂小学校で、他の仲間と遊んでいるであろう小花を。
そしてその想起は、現在の正文にさらなる気づきを与える。
しかし、彼がそれを言葉として認識する前に場面が動いた。
「おまえ、なかにはいってよんでこい」
幼い正文が、少女と化した少年にそう指示したのである。
だが少年は首を横に振った。
「いやだよ、はいりたくない」
「なんでだよ。おまえ、なんかおんなみたいだしはいれるだろ」
「こわいもん…」
「ええー? おまえがはいらないとさくせんが」
「さくせん?」
「な、なんでもない! しょーがねーな、おれもいっしょにはいって…あ」
幼い正文は、女子トイレの前で立ち止まる。
ふたりとも上靴をはいていないことに気づいたのだ。
当時の公衆トイレはお世辞にも衛生的とはいえず、それは学校に設置されたものも例外ではなかった。
21世紀の現在ですら裸足で入るのはためらわれるというのに、抗菌という概念すらない時代の公衆トイレに裸足で入るなど正気の沙汰ではない。
「く、くそ…」
幼い正文は非常に困惑した。
彼は、少女と化した少年に女子トイレの個室へ向かわせ、『小花』を呼び出させたところで自分がその『小花』になりすますつもりだった。
ちなみに最初のプランでは、『トイレの花子さん』について少年に話してやり、女子トイレで呼び出す儀式をして驚かせてやるつもりだった。
しかし少年があまりに怖がるため、『トイレの花子さん』ではなく『小花』という新たな存在を、急ごしらえで作り出したのだ。
『花子さんを呼び出す儀式』を『小花へのなりすまし』にごっそり入れ替えることで、幼い正文は新たなプランを完成させたつもりでいた。
それが見事に頓挫してしまったのである。
結局、彼は少年と一緒に女子トイレ前で『小花』を呼んでみたが、何の成果も得られなかった。
「…ご、ごめん…」
幼い正文は、少女と化した少年に謝る。
だが、少年は笑顔でこう返した。
「ううん、なんかおもしろかったから、いい」
「ほんとか?」
幼い正文の顔に、元気が戻る。
彼は少年の手を引いて歩き出した。
「じゃあつぎいくぞ、つぎ!」
「う、うん」
少女と化した少年は、すでに前を向いて歩き出した幼い正文の後頭部を見ながらうなずいた。
この頃から、少年は「こわい」という言葉を口にしなくなった。
校内を歩き回る間、ふたりが互いの手を離すことはほとんどなかった。
七不思議をめぐる旅は、少女と化した少年にとって、幼い正文のぬくもりを感じ続ける一大イベントとなった。
音楽室に侵入した時などは、七不思議を紹介する側であるはずの幼い正文が、夜闇に浮かび上がる音楽家の肖像画に驚いて思わず少年に抱きついたりした。
「あ、あああアレな、あれはな、ベントーベンっつって…」
「ベートーベン…じゃないの?」
幼い正文に抱きつかれたままの状態で、少年は彼に訊く。
不思議そうなその顔は頬が少し赤らんでいるだけで、恐怖の色は全くない。
一方、幼い正文は相手の気持ちなどつゆ知らず、新たな七不思議のデータを思いつくままに口走った。
「それは、ほ、ほんもののほうだろ。ななふしぎのヤツはベントーベンっていうんだ。こいつはラップでしゃべるんだぜ」
「ラップ? おさらにかぶせるアレ?」
「そっちじゃなくてうたのほうな。ほら、『れつ・ごうぞう』の『オレはきょうとへいくんだぜ』みたいな」
「え、なにそれ」
「『れつ・ごうぞう』しらねーの!?」
幼い正文は飛び上がる勢いで、少女と化した少年から離れた。
しかしすぐに思い出す。
「あ、そーいやおまえんち…テレビないんだったな」
「うん。おとうさんがね、『そんなテイゾクなものはひつようない』って。なんかいかおねがいしたんだけど、やっぱりダメだって……」
「テイゾク、ってなんだ?」
「わかんない。よくないことだろうとはおもうんだけど」
「そっかー」
幼い正文はつまらなそうに、少女と化した少年とつないだ手を左右にぶらぶらと振る。
と、そこへ光が投げかけられた。
直後に怒声が轟く。
「こらー!」
誰かが通報したのだろう。
懐中電灯を手にした警官に見つかってしまった。
「にげるぞ!」
幼い正文は、少女と化した少年の手を引いて脱兎のごとく逃げ出した。
ふたりは警官に捕まることなく、一坂小学校を脱出した。
だがその翌日から、少女と化した少年に会えなくなった。
幼い正文が洋館を訪ねても、誰も出てこない。
このままでは会えないまま引っ越すことになる。
「…やるっきゃねえ!」
幼い正文は最後の手段に出た。
隙間という隙間を利用して外壁を登り、洋館の敷地内に入り込むのだった。
→ring.77へ続く
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