ring.74 誇示が紡ぐ道
ring.74 誇示が紡ぐ道
プロフェッサーはひとしきり笑い続けた後、正文へ目を向ける。
まだうつむいたままでいる彼にこう言った。
「今のお前は、ほら穴で嵐がすぎるのを待つ古代人のようだ」
「…えっ?」
正文は思わず顔を上げる。
プロフェッサーのたとえが、あまりに突拍子もなかったためだ。
「ほら穴? 嵐…? 何の話だ?」
「宗教の始まりを見ているようだ、と言っているのだよ」
「…宗教…?」
「この星が生体活動を行うたびに、表層世界つまり地上は天変地異に見舞われた。文明を持たない頃の人類はそれに巻き込まれて死に、あるいはほら穴などに避難して天災がおさまるのを待った」
天災は、一度起これば二度と起こらないといった類のものではない。
何度となく発生する災害に対して、人類はどのような考えを持つに至ったか。
「人類は、自分たちを襲う災害を意味あるものとして考えるようになった。災害は自分たちよりも上位の存在が引き起こしたもの…すなわち神の怒りであり、正しく生きればきっと苦しみから逃れられるはずだと結論づけた」
「……それが、宗教の始まり…だと?」
「ふふふっ」
プロフェッサーは鼻で笑う。
「正しく生きるとはなんだろうな、阿久津 正文。お前はこの世界に、正義などというものがあると思うかね?」
「…そりゃあ、まあ…」
「そんなものは存在しない」
プロフェッサーは即座に否定する。
その後で、顔を正文に近づけ解答を告げた。
「存在するのは善悪ではなく、損得だ」
「…! いや、でも」
「そう。お前の疑問は正しい」
プロフェッサーは正文から顔を離す。
それから彼に背を向け、両手を自身の腰の後ろに回して右手で左手首を握った。
「損得だけで片づくなら、世界はもっと単純なはずなのだ。だが実際はそこまで単純ではない…ということは、別の何かが混ざっていることになる。それは何か」
プロフェッサーは顔を左に向ける。
今度は正文の返答を待たず、左肩越しにこう言った。
「衝動だよ」
「衝動…!」
「損得を超越した衝動。そういったものに、誰もが心身を突き動かされる。それは爆弾に似ていて、自身だけでなく他人にも影響を与えることがある。予期せぬ効果も生む」
ここで、プロフェッサーの前に地図が現れる。
それは宙に浮いた立体映像なのだが、地図ということもあって立体感は薄い。
青い線で四角く区切った枠の中に、同じく青い線で7つの大陸と小さな島々が描かれている。
いわゆるメルカトル図法による地図であり、この国を中心とした世界の形は正文も見慣れたものだった。
プロフェッサーの顔が正文から地図に向くと、大陸や島の色が変化する。
小気味よい音とともに変化は全体に広がり、最終的にほぼすべての土地が黄色で染まった。
「黄色は、キルメーカーの顧客が所属する国を表している」
「!?」
正文は驚愕する。
それを見越していたかのように、プロフェッサーがニヤリと笑いながら振り返った。
「なかなかのものだろう?」
「…も、もしかして…顧客っていうのは」
「その通り。М国財務次官をはじめとする、『国を動かす者たち』だ。もし彼らが同時に全員死ぬようなことがあれば、現代文明は確実に崩壊する」
「……」
「つまり、表層世界はもはや私の手中にあるも同然なのだよ」
「でも…そんなの、ニュースじゃ何も……」
正文は苦し紛れに反論する。
これにプロフェッサーは大声で笑ってみせた。
「ハッハッハッ! ニュースとはテレビか? 新聞か? それともラジオやネットか? ジャーナリズムなるものに期待しすぎではないかね、阿久津 正文!」
「え…」
「マスコミに所属する者にも生活があるのだ、あまり重責を背負わせてやるな。クククッ」
プロフェッサーは軽い嘲笑で自らの言葉を締めると、地図を見る。
これに合わせて地図が拡大を開始した。
今度はこの国を枠いっぱいに表示するのだろうか。
そんな正文の思いをよそに、拡大はさらに続く。
その動きが止まったところで、正文の口からこんな単語が漏れる。
「一坂…!」
「その通り。キルメーカーの舞台であり、我々が買い取った場所だ」
「…買い取っ…!?」
正文はプロフェッサーを見ずにはいられなかった。
いくらキルメーカー運営に金があるといっても、ひとつの地域を買い取るなど不可能ではないのか。
彼の強い疑問に対して、プロフェッサーは地図から目を離しもせずに回答する。
「一坂を擁する県が、IRの誘致に失敗した。県は莫大な借金を抱え、首長も辞任を迫られた。そこへ我々が助け舟を出してやったというわけだ」
「いやでも、それじゃ…」
「もちろん表立ってのことではない。殺人ギャンブルを運営する集団に借金を肩代わりしてもらったなど、政治史に燦然と輝く汚職事件になるからな。そこらへんはうまくやったさ。その見返りとして、我々は一坂を手に入れた」
「……」
これが何度目の絶句になるのだろう。
正文にはわからなかった。
世界各国の実務者をキルメーカーの顧客とし、現代文明の命運を握った。
かと思えば、決して開発レベルの高くない一坂郡を県から買い取り、キルメーカーの舞台とした。
話のスケールと内容にギャップがありすぎて、正文の理解が追いつかない。
しかもこの『理解が追いつかないという現象』は、今回が初めてではないのだ。
(なんなんだ…マジでなんなんだよ……!)
会話の中でこういった話が出ただけならまだいい。
正文も、わざわざ感情を動かさずに聞き流すことができる。
だがМ国の人々に起こった『変化』を目の当たりにし、自身も『変化』を体験した後では、聞き流すことなどできるわけがなかった。
「一体誰が想像する?」
プロフェッサーが出し抜けに言う。
「まさか一坂のような田舎に、世界を動かすほどの実力者たちが集められているなど。そして彼らが、自身の暗い衝動に屈したせいで自由を奪われたなど」
言い終えた後で、彼は軽く笑う。
それに合わせて地図が消えた。
プロフェッサーは正文の方へ向き直ると、相手の顔をじっと見つめる。
「我々がどうやって彼らを籠絡したか、その方法についても事細かに話してやりたいが…」
憐れむように苦笑した。
「お前の頭にはもう何も入らんようだな」
「……?」
「いいだろう」
プロフェッサーは一度うなずくと、両手を広げてみせる。
「脳内での情報処理が停滞した今こそが好機。私はお前に語ろう。お前が失ったままでいる、幼い頃の記憶を──」
気がつくと、正文は球体状の部屋とは全く別の場所に立っていた。
(…あの草だ)
牧草ではない。
進むのか止まるのかの最終選択を迫られた時に見た、背の高い草である。
(そういえば…!)
正文は周囲を見回す。
気がついた時の正面から見て4時の方向に、求めるものを発見する。
それは石造りの洋館だった。
(あの家だ)
正文は深くうなずく。
両手で背の高い草をかき分け、草むらから抜け出た。
(進むって決める直前だったかな、あの家が見えて…)
彼は土の上を歩き始める。
石造りの洋館までは土の道が続いている。
往来者に何度も踏まれてきたせいか、この道には草が生えていない。
両脇にごく短いものが生えるに留まっている。
(誰が住んでるのか知りたいってより、草以外のものを初めて見たから…とにかく近くに行ってみたかったんだ)
一刻も早く好奇心を満たすため、正文は歩を速める。
呼吸が荒れ始めた頃、彼は洋館の門扉前に到着した。
黒光りする門扉の左右には、立派な石の柱が立っている。
そのうち右側の柱にインターホンが取りつけられていた。
(えっと…)
どうしたものかと正文は立ち尽くす。
まさかボタンを押して住人を呼び出すわけにもいかない。
そう思っていると、何かがすぐそばで素早く動いた。
「!」
小さな人影が飛び上がり、インターホンのボタンを押したのだ。
しかし住人に用はないらしく、小さな人影はすぐに駆け出した。
「あ、こら!」
正文が軽く叱ると、小さな人影はしばらく走った先で振り返る。
その顔を見て彼は仰天した。
(俺!?)
小さな人影とは、幼い正文だった。
つまり幼い正文は、インターホンのボタンを用もなく押して逃げる、いわゆるピンポンダッシュというイタズラをしたのである。
(ピンポンダッシュ…そうだ。そういえば小さい頃、そんなことをやった気がする…!)
正文は当時のことをおぼろげに思い出す。
やがて、幼い正文はふわりと消えた。
ただこれで終わりというわけではない。
しばらくすると、幼い正文が再び現れた。
彼は土の道を走って洋館にたどり着くと、インターホンを押してすぐさま逃げる。
そして少し走った先で消えた。
これらの光景は一連の出来事として、現在の正文の前で何度となく繰り返される。
(…クソガキすぎる…)
現在の正文は大いに呆れ、右手を顔に当てた。
(俺ってこんなにイタズラっ子だったのか? 全然憶えてな…)
「やめて!」
思考に誰かの声が割り込んだ。
現在の正文は顔から手を下ろし、そちらを見る。
門扉の隙間から見える向こう側に、もうひとりの子どもがいた。
(あの子は!)
見覚えのある顔に、現在の正文は目を見開く。
もうひとりの子どもとは、彼が幼い頃に遊んだ少年だった。
→ring.75へ続く
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プロフェッサーはひとしきり笑い続けた後、正文へ目を向ける。
まだうつむいたままでいる彼にこう言った。
「今のお前は、ほら穴で嵐がすぎるのを待つ古代人のようだ」
「…えっ?」
正文は思わず顔を上げる。
プロフェッサーのたとえが、あまりに突拍子もなかったためだ。
「ほら穴? 嵐…? 何の話だ?」
「宗教の始まりを見ているようだ、と言っているのだよ」
「…宗教…?」
「この星が生体活動を行うたびに、表層世界つまり地上は天変地異に見舞われた。文明を持たない頃の人類はそれに巻き込まれて死に、あるいはほら穴などに避難して天災がおさまるのを待った」
天災は、一度起これば二度と起こらないといった類のものではない。
何度となく発生する災害に対して、人類はどのような考えを持つに至ったか。
「人類は、自分たちを襲う災害を意味あるものとして考えるようになった。災害は自分たちよりも上位の存在が引き起こしたもの…すなわち神の怒りであり、正しく生きればきっと苦しみから逃れられるはずだと結論づけた」
「……それが、宗教の始まり…だと?」
「ふふふっ」
プロフェッサーは鼻で笑う。
「正しく生きるとはなんだろうな、阿久津 正文。お前はこの世界に、正義などというものがあると思うかね?」
「…そりゃあ、まあ…」
「そんなものは存在しない」
プロフェッサーは即座に否定する。
その後で、顔を正文に近づけ解答を告げた。
「存在するのは善悪ではなく、損得だ」
「…! いや、でも」
「そう。お前の疑問は正しい」
プロフェッサーは正文から顔を離す。
それから彼に背を向け、両手を自身の腰の後ろに回して右手で左手首を握った。
「損得だけで片づくなら、世界はもっと単純なはずなのだ。だが実際はそこまで単純ではない…ということは、別の何かが混ざっていることになる。それは何か」
プロフェッサーは顔を左に向ける。
今度は正文の返答を待たず、左肩越しにこう言った。
「衝動だよ」
「衝動…!」
「損得を超越した衝動。そういったものに、誰もが心身を突き動かされる。それは爆弾に似ていて、自身だけでなく他人にも影響を与えることがある。予期せぬ効果も生む」
ここで、プロフェッサーの前に地図が現れる。
それは宙に浮いた立体映像なのだが、地図ということもあって立体感は薄い。
青い線で四角く区切った枠の中に、同じく青い線で7つの大陸と小さな島々が描かれている。
いわゆるメルカトル図法による地図であり、この国を中心とした世界の形は正文も見慣れたものだった。
プロフェッサーの顔が正文から地図に向くと、大陸や島の色が変化する。
小気味よい音とともに変化は全体に広がり、最終的にほぼすべての土地が黄色で染まった。
「黄色は、キルメーカーの顧客が所属する国を表している」
「!?」
正文は驚愕する。
それを見越していたかのように、プロフェッサーがニヤリと笑いながら振り返った。
「なかなかのものだろう?」
「…も、もしかして…顧客っていうのは」
「その通り。М国財務次官をはじめとする、『国を動かす者たち』だ。もし彼らが同時に全員死ぬようなことがあれば、現代文明は確実に崩壊する」
「……」
「つまり、表層世界はもはや私の手中にあるも同然なのだよ」
「でも…そんなの、ニュースじゃ何も……」
正文は苦し紛れに反論する。
これにプロフェッサーは大声で笑ってみせた。
「ハッハッハッ! ニュースとはテレビか? 新聞か? それともラジオやネットか? ジャーナリズムなるものに期待しすぎではないかね、阿久津 正文!」
「え…」
「マスコミに所属する者にも生活があるのだ、あまり重責を背負わせてやるな。クククッ」
プロフェッサーは軽い嘲笑で自らの言葉を締めると、地図を見る。
これに合わせて地図が拡大を開始した。
今度はこの国を枠いっぱいに表示するのだろうか。
そんな正文の思いをよそに、拡大はさらに続く。
その動きが止まったところで、正文の口からこんな単語が漏れる。
「一坂…!」
「その通り。キルメーカーの舞台であり、我々が買い取った場所だ」
「…買い取っ…!?」
正文はプロフェッサーを見ずにはいられなかった。
いくらキルメーカー運営に金があるといっても、ひとつの地域を買い取るなど不可能ではないのか。
彼の強い疑問に対して、プロフェッサーは地図から目を離しもせずに回答する。
「一坂を擁する県が、IRの誘致に失敗した。県は莫大な借金を抱え、首長も辞任を迫られた。そこへ我々が助け舟を出してやったというわけだ」
「いやでも、それじゃ…」
「もちろん表立ってのことではない。殺人ギャンブルを運営する集団に借金を肩代わりしてもらったなど、政治史に燦然と輝く汚職事件になるからな。そこらへんはうまくやったさ。その見返りとして、我々は一坂を手に入れた」
「……」
これが何度目の絶句になるのだろう。
正文にはわからなかった。
世界各国の実務者をキルメーカーの顧客とし、現代文明の命運を握った。
かと思えば、決して開発レベルの高くない一坂郡を県から買い取り、キルメーカーの舞台とした。
話のスケールと内容にギャップがありすぎて、正文の理解が追いつかない。
しかもこの『理解が追いつかないという現象』は、今回が初めてではないのだ。
(なんなんだ…マジでなんなんだよ……!)
会話の中でこういった話が出ただけならまだいい。
正文も、わざわざ感情を動かさずに聞き流すことができる。
だがМ国の人々に起こった『変化』を目の当たりにし、自身も『変化』を体験した後では、聞き流すことなどできるわけがなかった。
「一体誰が想像する?」
プロフェッサーが出し抜けに言う。
「まさか一坂のような田舎に、世界を動かすほどの実力者たちが集められているなど。そして彼らが、自身の暗い衝動に屈したせいで自由を奪われたなど」
言い終えた後で、彼は軽く笑う。
それに合わせて地図が消えた。
プロフェッサーは正文の方へ向き直ると、相手の顔をじっと見つめる。
「我々がどうやって彼らを籠絡したか、その方法についても事細かに話してやりたいが…」
憐れむように苦笑した。
「お前の頭にはもう何も入らんようだな」
「……?」
「いいだろう」
プロフェッサーは一度うなずくと、両手を広げてみせる。
「脳内での情報処理が停滞した今こそが好機。私はお前に語ろう。お前が失ったままでいる、幼い頃の記憶を──」
気がつくと、正文は球体状の部屋とは全く別の場所に立っていた。
(…あの草だ)
牧草ではない。
進むのか止まるのかの最終選択を迫られた時に見た、背の高い草である。
(そういえば…!)
正文は周囲を見回す。
気がついた時の正面から見て4時の方向に、求めるものを発見する。
それは石造りの洋館だった。
(あの家だ)
正文は深くうなずく。
両手で背の高い草をかき分け、草むらから抜け出た。
(進むって決める直前だったかな、あの家が見えて…)
彼は土の上を歩き始める。
石造りの洋館までは土の道が続いている。
往来者に何度も踏まれてきたせいか、この道には草が生えていない。
両脇にごく短いものが生えるに留まっている。
(誰が住んでるのか知りたいってより、草以外のものを初めて見たから…とにかく近くに行ってみたかったんだ)
一刻も早く好奇心を満たすため、正文は歩を速める。
呼吸が荒れ始めた頃、彼は洋館の門扉前に到着した。
黒光りする門扉の左右には、立派な石の柱が立っている。
そのうち右側の柱にインターホンが取りつけられていた。
(えっと…)
どうしたものかと正文は立ち尽くす。
まさかボタンを押して住人を呼び出すわけにもいかない。
そう思っていると、何かがすぐそばで素早く動いた。
「!」
小さな人影が飛び上がり、インターホンのボタンを押したのだ。
しかし住人に用はないらしく、小さな人影はすぐに駆け出した。
「あ、こら!」
正文が軽く叱ると、小さな人影はしばらく走った先で振り返る。
その顔を見て彼は仰天した。
(俺!?)
小さな人影とは、幼い正文だった。
つまり幼い正文は、インターホンのボタンを用もなく押して逃げる、いわゆるピンポンダッシュというイタズラをしたのである。
(ピンポンダッシュ…そうだ。そういえば小さい頃、そんなことをやった気がする…!)
正文は当時のことをおぼろげに思い出す。
やがて、幼い正文はふわりと消えた。
ただこれで終わりというわけではない。
しばらくすると、幼い正文が再び現れた。
彼は土の道を走って洋館にたどり着くと、インターホンを押してすぐさま逃げる。
そして少し走った先で消えた。
これらの光景は一連の出来事として、現在の正文の前で何度となく繰り返される。
(…クソガキすぎる…)
現在の正文は大いに呆れ、右手を顔に当てた。
(俺ってこんなにイタズラっ子だったのか? 全然憶えてな…)
「やめて!」
思考に誰かの声が割り込んだ。
現在の正文は顔から手を下ろし、そちらを見る。
門扉の隙間から見える向こう側に、もうひとりの子どもがいた。
(あの子は!)
見覚えのある顔に、現在の正文は目を見開く。
もうひとりの子どもとは、彼が幼い頃に遊んだ少年だった。
→ring.75へ続く
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