ring.73 似姿 | 魔人の記

ring.73 似姿

ring.73 似姿


牛が草を食べている。
長い首を地面に向かって伸ばし、長い舌や歯を用いて牧草をむしり取る。

むしり取った後は顔を上げ、ゆったりとした動きで何度も噛む。
その様子は穏やかで牧歌的といえた。

ただそれは人間の目で見た場合の話である。
視点を、人間以外のものに変えた場合はどうか。

たとえば、牛に食われるばかりの牧草からすると、牧歌的な光景はどう変わるのだろう。

(このにおいは!)

1株の牧草が異常に気づく。
それは、牛に体の上部分をむしり取られた牧草が発するにおいだった。

(仲間が食われた…ついにヤツが来たんだな)

『ヤツ』とは牧草にとっての仇敵、牛である。
周囲に生える同族たちも、この緊急事態に色めき立った。

”ヤツが来た!”

ある者は、恐怖を意味するにおいを発して仲間に感情を伝える。

”仲間を食べるなんて許せない!”

またある者は、怒りのにおいを発した。
牧草たちはさまざまな臭気を使い、まるで言葉で会話するかのように情報を伝達し合う。

”もう終わりだ、私たちも食われる”

”いいや、まだ手はあるッ!”

ひときわ威勢のいい個体が、仲間たちを鼓舞する。

”我々は必殺の武器を持っている! それをヤツにぶつけるんだ!”

”そうか! あのにおいを放てば、いかにヤツといえども”

”そのとおりだ! さあみんな呼吸を合わせていくぞ! 今こそ仲間の無念を晴らす時!”

牧草たちは一致団結し、牛へ向けてあるにおいを放つ。
牛もこれに気づき、牧草たちの方を見た。

”や、ヤツが気づいたぞ!”

”効いている証拠だ! さあもっとにおいを!”

「…ンモッ」

牛は短く鳴いてから、近くの牧草に食いつく。
舌と歯でやわらかな葉の部分をむしり取った。

”ぎゃああああああッ!”

”な、なにィイッ!? 効いてないだとッ?”

”ひるむな! このにおいさえ効けば、ヤツなんぞひとたまりも…ぐおああッ!”

牧草たちは次々に食われる。
彼らが放った『必殺のにおい』とは、皮肉にも牛の食欲を増進させる『いいにおい』でしかなかった。

(ああ…みんな、やられてしまう…)

いち早く異常に気づいた1株も、仲間とともににおいを放っていた。
だがそれが無駄だと知り、においの放出をやめる。

牛は手当たり次第に牧草を食い荒らし、いよいよこの1株にも狙いをつけた。
長い舌を巻きつけ、歯でかじり取ろうとする。

1株はたまらず声なき声をあげた。

”や、やめてくれ! 俺が何をしたっていうんだ! 食われたくな……ぎゃああああああ──”


「──あああああああッ!?」

正文は目を覚ました。
叫びながら体を起こしたらしく、彼は床の上に座る自分自身に気づく。

(……えっ?)

一体何が起こったのか。
それを知るため、正文は周囲を見回した。

彼が目覚めた場所は球体状の部屋である。
大階段やその先の玉座も変わらず存在している。

(草が…ない。仲間がいない)

続いて正文は顔を下げ、両手を見た。

(…俺は草じゃ…ない)

そうしていると、背後からプロフェッサーの声が聞こえてきた。

「自然とは何か」

「!」

正文はビクリと体を震わせる。
座っていることもあり、すぐには振り返れない。

代わりに両目を右方向に移動させることで、背後の気配と声に意識を向けた。
そこへプロフェッサーの問いが続く。

「考えたことはあるかね?」

「……植物や動物がそこにある風景、みたいな…」

正文はほとんど口ごもりつつも、どうにか返答する。
これにプロフェッサーは「なるほど」と感心してみせた。

「それもまたひとつの答えといえるだろう。だが、私が今見せた夢に関連するものではないな」

「……」

「手足を切ったことで怖がらせてしまったかね? 安心したまえ、もうくっつけてある」

「…!」

正文の両目が、右から下へ向く。
プロフェッサーに言われてようやく、彼は四肢が元に戻っていることに気づく。

思わず安堵の声を漏らそうとしたところへ、プロフェッサーがこう言った。

「自然とは、『強者が弱者を食う殺戮の場』だ」

「…!」

「自然の風景を見ると、人間は心が休まる。だがそれは自分が襲われる側ではないからだ。自分が食われるなどとは思ってもみないからだ。だが実際のところは、弱者は常に虐げられている」

「牧草が…牛に食べられるように…か……?」

「そういうことだ。そしてそれこそが、私の求めた解答だ」

プロフェッサーはそこで一度話を区切り、靴底を鳴らして歩き出す。
正文の背後から正面へと移動すると、立ち止まってこんなことを言い始めた。

「チェインドとは、言うなれば牧草なのだ」

「!」

「そしてアンチェインドとは、言うなれば牛」

「なっ…?」

正文は勢いよく顔を上げた。
プロフェッサーの言葉がどういった結論を生み出すのか、予測できたからである。

そして予測通りの結論が、正文の鼓膜を震わせた。

「キルメーカーとは、自然の似姿なのだよ」

「…なに…言ってるんだ……!」

「牧草は牛に食われ続ける。チェインドはアンチェインドに殺され続ける。とてもよく似ているじゃないか」

「そんなの……!」

キルメーカーを、殺人ギャンブルを、そしてそれを主催する自分を正当化しようとしているだけだ。
そう言おうとして、正文は何も言えなくなる。

やっと元に戻った手足を、再び切り落とされてはたまらないと思ったのだ。

「ふふっ」

それがわからないプロフェッサーではない。
彼は楽しげに笑った。

「お前が口を閉じたのも『自然なこと』なのだぞ、阿久津 正文。お前は強者たる私の力を恐れ、弱者たる自身の意見を飲み込んだ」

「…くっ…」

「悔しいと思うのなら成長しろ。私を驚かせるほど…いや、私を追い抜くほどにな」

「……」

正文は何も言えない。
その間に、プロフェッサーは話を変えた。

「すでに説明した通り、私の行動原理とは『この星を罰すること』だ。だが何をするにも金が必要になる。キルメーカーは自然の似姿であると同時に、私にとって重要な収入源だ。つまり」

彼はニヤリと笑い、靴底で床を踏みにじる。
それはこの星への侮蔑を意味する。

「この星は、自ら作り出したルールを私に利用されている。自身を罰しようとする私を生きながらえさせるだけでなく、私が望む罰の実現に手を貸しているのだよ。笑える話だとは思わんかね?」

問いかけられても、正文には相手が何を言っているのかよくわからない。
プロフェッサーは機嫌よくさらに続けた。

「それもこれも、この星は『ある欲望』から逃れられないためだ。人類が生み出されたのは、この欲望に駆られてのこと…だからこそこの星は、私に罰せられることから逃れられない」

(…欲望…?)

星の欲望とはなんだろう、と正文はぼんやり考える。
それはほどなく、彼に驚きを与えた。

「『変化』だよ」

「!」

正文は目を見開く。
この反応に、プロフェッサーはさらに上機嫌になった。

「いい顔だ。そうだ、わかっただろう? この星が抱く欲望こそ『変化』なのだ。個体差が服を着て歩く人類などという種を生み出したのも、『変化』という欲望があればこそ。そしてそれは私の能力でもある」

(キルメーカーが自然の似姿…だとすれば、この男は…)

「つまり私こそが『この星の似姿』。そしてこの星は、『変化を望むが故に罰から逃れられない』。この星はこれまで一度として、人間に罰せられたことなどないのだからな」

プロフェッサーはそう言い終えると、両手を腰に当てて高らかに笑う。
その笑い声を聞きながら、正文は胸中に何やら薄ら寒いものを感じていた。

(この星は『変化』を望んでいる…だからこそ罰からは逃れられない、この男を止められない……じゃあもうどうしようもないじゃないか)

この星は『変化』を求めており、それを実現させるために人類を生み出した。
プロフェッサーもまた『変化』という能力を持つ。

自分の目の前で高笑いするこの男は、星の意志を体現した存在ということになる。
そんなものに戦いを挑むも何もない。

(い、いや…)

正文は、自分が余計なことを考えていると気づいた。

(そもそも俺にはこの男と戦う理由がない。俺はただ必死に生きてるだけだ。あのタワマンでの戦いも終わったし、α7に報告して取引を終わらせたいだけ…)

”本当にそうか?”

胸の中、あるいは腹の底からだろうか。
もうひとりの正文が問いかけてきた。

”お前はコケにされたんだぞ。あのタワマンでの戦いを。必死に戦ったあの時間を。戦う理由なら十分にあるじゃないか”

(理由があったって、勝ち目がないんじゃどうしようもないだろ!)

正文はもうひとりの自分に反論する。

(さっき俺は何をされた? 蛇を出す間もなく手足を切られたんだぞ! アンチェインドやエージェント連中とはマジで強さの次元が違う! こうして生きてるだけでも奇跡みたいなもんだ!)

”じゃあ、お前は弱者のままでいるつもりか? 牧草のまま生き続けるのか? 体をかじり取られても『生きているだけで奇跡だ』なんてありがたがるつもりなのか?”

(…ブチ切れてなんとかなるなら、俺だってそうしたいよ! でも)

”牧草だって、突然変異が起これば…毒草になるかもしれないのにな”

(じゃあその方法を教えてくれよ! なんにも思いつかないクセに、言いたい放題言わないでくれ!)

悔しさはある。
自分で自分をごまかしているのはわかっている。

だが『この星の似姿』たるプロフェッサーを前に、正文はどこまでも弱者だった。
相手の高笑いをまるで自分に向けられた嘲笑のように感じながら、彼はただじっとうつむいていた。


→ring.74へ続く

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