ring.51 チッイス
ring.51 チッイス
正文は、21階の非常階段付近にやってきた。
通路突き当たりのドアを開ければ、フロアを抜けて非常階段に出られる。
しかし彼は突き当たりではなく、その手前にあるドアで立ち止まった。
(ここだ、ここのはずだ)
正文が狙いをつけたドアは、居室に通じるものとは明らかにデザインが異なる。
全くもって飾り気がない。
その方向性は、非常階段へ続くドアとすこぶる似通っていた。
(ここに換気扇のスイッチが…)
正文は、レバー式のドアノブに右手を伸ばす。
ドアノブに包丁を添わせるように置き、それらふたつともを強引に握り込んだ。
その後でドアノブを押し下げ、引っ張る。
ドアは重く、右手にかかる負荷も小さくはなかったものの、問題なく開いた。
(…よし!)
ドアノブが丸かったならこうはいかない。
正文は、小さいながらも満足げな笑みを浮かべつつ、部屋の中に入った。
飾り気のないドアの向こうには、見たこともない機械がいくつも並んでいる。
(換気扇のスイッチはどれなんだ…?)
正文はあちこちを見回し、目的のものを探した。
だが天井までうず高く積み上げられた機械を見ていると、なんだか自分がとても的はずれなことをしているような気になる。
(…なんか、『換気扇』とか…そういうちっさいもののスイッチが、ひとつだけありそうな感じじゃない……もっと複雑なシステムのスイッチしかなさそうな感じだぞ)
視点を変える必要があるのではないか。
そう考えた彼は、機械に近寄るのではなく離れて、塊ごとに見るようにする。
これが功を奏した。
(…あった!)
機械をいっぱいに載せた、金属製の棚の裏。
そこの壁に『換気システム』と書かれたシールが貼ってある。
シールのすぐ上にはスイッチがあった。
現在はオフになっている。
(こんな見つけにくいところに……まあ、簡単に押されちゃ困るからってことなんだろうけど)
正文はスイッチを押すための準備に入る。
さすがに包丁を握ったまま、というわけにはいかなかった。
なにしろ換気システムのスイッチ周辺には、よくわからない機械がたくさんある。
包丁を当てて棚を倒そうものなら、何が起こるかわかったものではない。
(イレギュラーはできるだけ避けないとな)
正文は、右手に握っている包丁の刃部分を左の脇で挟む。
そうして自由になった右手を、スイッチに向けて伸ばした。
「く…」
スイッチがある壁と機械が載った金属棚の間、あまり広くない空間に太い腕を差し込んでいく。
やがて指先がスイッチに触れた。
(オン!)
心で号令をかけるとともに、正文はスイッチを押す。
すると遠くで、機械が動き出す音がした。
(よしっ!)
正文はうまくいったことを喜ぶ。
それから慎重に右腕を壁と棚の間から抜き出し、再び包丁を握った。
(これでこの階はいけるはずだ)
期待を胸に、彼は部屋を出る。
果たして効果はいかほどであったか。
残念ながら、21階フロア内にはまだ血の臭いが充満していた。
ただほんの少しだけ、それが薄まったような気がする。
(動き出したばかりだし、こんなもんか…)
期待外れの結果に、正文は苦笑を浮かべる。
それから非常階段へのドアを開けた。
無地のコンクリートでできた殺風景が、彼を出迎える。
上り階段とその周辺に、障害物らしきものはない。
(まあよく見つけたよ、俺。あとは非常階段で上がるだけだから、がんばる必要はなかったかもしれないけど…また戻ってこないとも限らないからな)
正文は自分で自分を労いつつ、非常階段で22階へ上がっていった。
22階に到達するとすぐ、正文の視野に家具の残骸が映り込む。
彼がそちらに目をやると、破壊された家具が上り階段に隙間なく押し込まれていた。
(相変わらず、すんなりとは上がらせてくれないな…)
何度となく見た光景なので、正文も今さら驚きはしない。
彼はフロア内へ続くドアに向き直り、左目を覆う簡易眼帯を外した。
それを右目にあてがい、一時的に視覚を遮断する。
(さて、この階に白猫はいるのか…? 敵がいるかも見ておこう)
彼は左目で調査を行った。
22階においても、濃い血の臭いは健在らしい。
フロア内の通路は真紅の濃霧に包まれて全く見通せない。
ただし、左目は臭いだけでなく熱も感知できる。
正文が簡易眼帯を外したのは、こちらの感覚を期待してのことだった。
(…どっちもいないな)
それだけでなく、近くにあるものなら濃霧を無視して存在を確かめられる。
(今回はスイッチが近いぞ)
左目が作り出す疑似視界は、フロア内に入ってすぐのところに部屋があることをはっきりと示していた。
21階でスイッチを入れた部屋のちょうど真上である。
機械が常に熱を放っているせいか、スイッチの詳細な位置まではわからない。
(部屋の場所が同じなんだ、『スイッチだけどっか別のとこにある』なんてことはないだろ)
正文は調査と確認を終える。
簡易眼帯で再び左目を覆う。
右目つまり視覚だけで、周囲を見る状態にした。
(よし、行くか)
正文はドアを開けて22階フロア内に入る。
濃い血の臭いが鼻を刺激して、思わず「うっ」と声が出る。
(今回は先にスイッチを押してから、搬入用エレベーターに向かう…23階に上がる前に、臭いがなくなってくれるといいんだけどな)
鼻は左目ほど鋭敏ではないが、それでも濃い血の臭いを吸い込むのはあまり気分のいいものではない。
彼は淡い期待を抱きながら、スイッチのある部屋を目指そうとする。
しかし。
(…あれ?)
部屋のドアがあるべき場所には、血みどろの壁しかなかった。
(おかしいな、スイッチ部屋はここのはず…)
念のため左右も見てみるが、あるのは壁ばかりである。
無骨なデザインのドアは、正文が入ってきたばかりの非常階段へ続くドアしかない。
(待て…まてまてまて)
正文は何かに気づき、非常階段まで戻る。
それからもう一度、左目の簡易眼帯を外して熱感知を試みた。
疑似視界には、入ってすぐの場所に部屋が映っている。
先ほどと全く同じ結果である。
その上で左目を簡易眼帯で覆い、右目で見る状態にしてからその場所へ行った。
「ちょっと待て…!」
正文はいらだちの声をあげる。
彼の右目に映るのは、血みどろの壁だけだった。
(おい、ふざけるなよ)
正文は、21階でスイッチを押した時のように、左の脇で包丁の刃をはさむ。
そうして自由になった右手で、血みどろの壁に触れた。
絨毯に触れた時と同じような感覚が、右手から伝わってくる。
濡れた冷涼感を覚えはするものの、手のひらは濡れていない。
それは、無骨なドアに触れた感覚とは全く異なるものだった。
「催眠術…!」
認識を操られている。
正文はそのことを指して、催眠術と口にした。
(部屋はここにある。ちゃんとある! でもここにいる俺には、『それがわからない』! ドアに触っているはずなのに壁の感触しかない……)
彼は試しに、ドアノブがあるはずの場所へ右手を伸ばしてみる。
ドアノブがある分通路側へ出っ張っているはずなのだが、右手はその出っ張りを感じ取れない。
壁の前で空気を混ぜるだけだった。
(手がドアノブに当たってる感じがしない。当たって痛いっていうこともない…! こんな状態じゃドアを開けられないし、開けたところであんなせまい隙間にあるスイッチを押すなんて無理だ!)
ただ見えないというのではない。
何もかもが定かではなかった。
正文が右手で壁を触ったことも、同じ手で空気を混ぜたことも、現実では起こっていない可能性がある。
しかも本人にはそれがわからない。
この場で見る目を右目から左目に切り替えたとしても、本当に切り替わっているかどうかすらわからないのだ。
(また非常階段まで戻って、通路に入る前から左目だけで見るようにすればなんとかなるか…? いや、だめだ! 俺がスイッチ部屋のドアを開けた途端に、通路から霧が入り込んで何も見えなくなる)
部屋が真紅の濃霧に包まれれば、あとは熱感知に頼るしかない。
だが先ほど確認した時、スイッチの詳細な位置はわからなかった。
機械が常に熱を放っていたからである。
スイッチがさらなる高温になるならすぐに見つけられただろうが、そうなると今度は換気システムが正常に動作するのかという疑問が出てくる。
(それに)
正文は天井を見上げた。
(見えない中で無理やりスイッチを押そうとすれば、スプリンクラーやら防火扉やらを誤作動させるかもしれない。それはまずい…! 白猫や御堂を助けられなくなる。甲03がここに来る可能性だってある……)
特に、白猫を見つける前に甲03と遭遇するのは避けたかった。
相手の特別な能力『フィスト』に対抗できるすべを、正文はまだ発見できていない。
「くそっ!」
彼はいらだちを吐き出すと、壁の前から離れた。
非常階段側へは戻らず、フロアの奥へと進む。
(下野の狙いは大体わかった! 今はそれに乗るしかない!)
濃い血の臭いを吸い込みすぎないよう、早足で歩く。
通路は破壊された家具でところどころがふさがれ、遠回りを余儀なくされる。
それでも壁の前であれこれ考えているよりはいいと、正文は考えた。
やがて彼の足は、ある場所の前で止まる。
(やっぱり…!)
ある場所とはスタッフルームだった。
入ってすぐの壁に、換気システムのスイッチがある。
21階では見つけられなかったものが、ここ22階には存在していた。
その意味を、正文はここにきてようやく理解する。
(スイッチは『どっちにもある』んだ…! ここと非常階段近くの部屋、『どっちにもある』! でも視覚ではわからないようにされてるんだ、下野の催眠術で!)
彼は悔しげな表情を浮かべつつスイッチを押す。
換気システムが動き出す音を聞いてから、搬入用エレベーターに向かった。
(21階だって同じとこにスイッチがあった。このあたりは臭いの影響がほとんどない。俺が左目を使ってさえいれば、すぐにでも押せたんだ…! でもあの時の俺はそこまで頭が回らなかった。それだけあせってたんだ)
搬入用エレベーターの近くに来ると、正文はパネルにあるボタンを押す。
扉はすぐに開き、彼を迎え入れた。
(で、多分……)
正文は搬入用エレベーターに乗り、上階へのボタンを押す。
複数個押してみたが、点灯したのは23階のみだった。
23階に到着した彼は、スタッフルームへ向かおうとする。
しかし、それは破壊された家具によって阻まれた。
「やっぱりか!」
正文は声に出してそう言った。
言わずにはいられなかった。
21階では非常階段近くの部屋、22階ではスタッフルームに換気システムのスイッチがあった。
これらどちらにも、付近に上階への移動手段がある。
つまり破壊された家具で遠回りさせておいて、ようやっと濃い血の臭いをどうにかできると思ったら、もうその階は探索する必要がないというわけだ。
下野にとって、自分から御堂を奪おうとする者は許しがたい敵である。
正文が考える彼の狙いとは、そういった者たちを全力でもてあそぶことだった。
(思った以上に抜け目がない…バカにしやがって……!)
正文は強く歯噛みする。
手のひらの上で転がされるのがどれほど悔しいことか、いやというほど思い知った。
とはいえ、これでやるべきことが明確になったのも事実である。
(遠回りだろうが蛇行しようが、上には行けるんだ! だったら急いで行けばいい!)
急いで行く前に、正文は左目で熱感知を行う。
白猫と敵がいないのを確認すると、今度は小走りで通路を進んでいった。
23階では非常階段近くの部屋、24階ではスタッフルーム、さらに25階では再び非常階段近くの部屋で、正文は換気システムのスイッチを入れる。
(いつまで続くんだ、これ…)
彼の顔には疲労が濃く出ていた。
下野へのいらだちよりも、同じ作業が続くことに対してうんざりする気持ちの方が大きくなっていた。
(ちょっと前までは臭いがキツいって思ってたけど、もう鼻がバカになったからそこそこどうでもいい…無理して左目で見てたら、こうはいかなかったかもしれないが)
人間の嗅覚は、他の生物に比べて鈍い。
さらに、強い臭いにさらされ続けると体の方が勝手にシャットアウトする。
五感が人並みになった正文にも、シャットアウトの機能は働いていた。
そのため、今は血の臭いがあまり気にならない。
気になるのはやはり、あまりにも変化のない現状だった。
(このまま最上階まで続くなんてことは……)
望まぬ未来を描きながら、26階への階段を上りきる。
その時だった。
「…クシュッ!」
小さなくしゃみの音が聞こえた。
正文はその音にひかれ、灰色のコンクリートで作られた部屋のすみを見る。
そこには、見慣れた姿があった。
「白猫!」
正文は、自分でも思いがけず大きな声を出す。
これに白猫はビクリと驚いた。
一瞬逃げ出そうとしたが、相手が正文だとわかると急に威嚇し始める。
「フーッ!」
「あっ…ご、ごめん」
正文はあわてて謝る。
気持ちが通じたのか、白猫は威嚇をやめた。
これに正文はホッとする。
しかしすぐに、安堵している場合ではないことを思い出した。
「お、おい…! 大丈夫なのか? 結構長いこと、血のあとが落ちてたけど……!」
今度は驚かさないよう、彼はできるだけ声を抑えて白猫に尋ねる。
これに対して、白猫は特に返事をしない。
コンクリート床の上に座ったまま、腹のあたりを上から下へなめ始める。
正文がそこに注目すると、かすかに赤くなっていた。
(あ…!)
どうやら腹をケガしたようだが、今はもう治っているらしい。
それがわかると、正文の体から一気に力が抜けた。
「よかった……!」
彼はその場に座り込む。
それを見て白猫はぎょっとするものの、何事もなかったようにまた自身の腹をなめ始めるのだった。
→ring.52へ続く
・目次へ
正文は、21階の非常階段付近にやってきた。
通路突き当たりのドアを開ければ、フロアを抜けて非常階段に出られる。
しかし彼は突き当たりではなく、その手前にあるドアで立ち止まった。
(ここだ、ここのはずだ)
正文が狙いをつけたドアは、居室に通じるものとは明らかにデザインが異なる。
全くもって飾り気がない。
その方向性は、非常階段へ続くドアとすこぶる似通っていた。
(ここに換気扇のスイッチが…)
正文は、レバー式のドアノブに右手を伸ばす。
ドアノブに包丁を添わせるように置き、それらふたつともを強引に握り込んだ。
その後でドアノブを押し下げ、引っ張る。
ドアは重く、右手にかかる負荷も小さくはなかったものの、問題なく開いた。
(…よし!)
ドアノブが丸かったならこうはいかない。
正文は、小さいながらも満足げな笑みを浮かべつつ、部屋の中に入った。
飾り気のないドアの向こうには、見たこともない機械がいくつも並んでいる。
(換気扇のスイッチはどれなんだ…?)
正文はあちこちを見回し、目的のものを探した。
だが天井までうず高く積み上げられた機械を見ていると、なんだか自分がとても的はずれなことをしているような気になる。
(…なんか、『換気扇』とか…そういうちっさいもののスイッチが、ひとつだけありそうな感じじゃない……もっと複雑なシステムのスイッチしかなさそうな感じだぞ)
視点を変える必要があるのではないか。
そう考えた彼は、機械に近寄るのではなく離れて、塊ごとに見るようにする。
これが功を奏した。
(…あった!)
機械をいっぱいに載せた、金属製の棚の裏。
そこの壁に『換気システム』と書かれたシールが貼ってある。
シールのすぐ上にはスイッチがあった。
現在はオフになっている。
(こんな見つけにくいところに……まあ、簡単に押されちゃ困るからってことなんだろうけど)
正文はスイッチを押すための準備に入る。
さすがに包丁を握ったまま、というわけにはいかなかった。
なにしろ換気システムのスイッチ周辺には、よくわからない機械がたくさんある。
包丁を当てて棚を倒そうものなら、何が起こるかわかったものではない。
(イレギュラーはできるだけ避けないとな)
正文は、右手に握っている包丁の刃部分を左の脇で挟む。
そうして自由になった右手を、スイッチに向けて伸ばした。
「く…」
スイッチがある壁と機械が載った金属棚の間、あまり広くない空間に太い腕を差し込んでいく。
やがて指先がスイッチに触れた。
(オン!)
心で号令をかけるとともに、正文はスイッチを押す。
すると遠くで、機械が動き出す音がした。
(よしっ!)
正文はうまくいったことを喜ぶ。
それから慎重に右腕を壁と棚の間から抜き出し、再び包丁を握った。
(これでこの階はいけるはずだ)
期待を胸に、彼は部屋を出る。
果たして効果はいかほどであったか。
残念ながら、21階フロア内にはまだ血の臭いが充満していた。
ただほんの少しだけ、それが薄まったような気がする。
(動き出したばかりだし、こんなもんか…)
期待外れの結果に、正文は苦笑を浮かべる。
それから非常階段へのドアを開けた。
無地のコンクリートでできた殺風景が、彼を出迎える。
上り階段とその周辺に、障害物らしきものはない。
(まあよく見つけたよ、俺。あとは非常階段で上がるだけだから、がんばる必要はなかったかもしれないけど…また戻ってこないとも限らないからな)
正文は自分で自分を労いつつ、非常階段で22階へ上がっていった。
22階に到達するとすぐ、正文の視野に家具の残骸が映り込む。
彼がそちらに目をやると、破壊された家具が上り階段に隙間なく押し込まれていた。
(相変わらず、すんなりとは上がらせてくれないな…)
何度となく見た光景なので、正文も今さら驚きはしない。
彼はフロア内へ続くドアに向き直り、左目を覆う簡易眼帯を外した。
それを右目にあてがい、一時的に視覚を遮断する。
(さて、この階に白猫はいるのか…? 敵がいるかも見ておこう)
彼は左目で調査を行った。
22階においても、濃い血の臭いは健在らしい。
フロア内の通路は真紅の濃霧に包まれて全く見通せない。
ただし、左目は臭いだけでなく熱も感知できる。
正文が簡易眼帯を外したのは、こちらの感覚を期待してのことだった。
(…どっちもいないな)
それだけでなく、近くにあるものなら濃霧を無視して存在を確かめられる。
(今回はスイッチが近いぞ)
左目が作り出す疑似視界は、フロア内に入ってすぐのところに部屋があることをはっきりと示していた。
21階でスイッチを入れた部屋のちょうど真上である。
機械が常に熱を放っているせいか、スイッチの詳細な位置まではわからない。
(部屋の場所が同じなんだ、『スイッチだけどっか別のとこにある』なんてことはないだろ)
正文は調査と確認を終える。
簡易眼帯で再び左目を覆う。
右目つまり視覚だけで、周囲を見る状態にした。
(よし、行くか)
正文はドアを開けて22階フロア内に入る。
濃い血の臭いが鼻を刺激して、思わず「うっ」と声が出る。
(今回は先にスイッチを押してから、搬入用エレベーターに向かう…23階に上がる前に、臭いがなくなってくれるといいんだけどな)
鼻は左目ほど鋭敏ではないが、それでも濃い血の臭いを吸い込むのはあまり気分のいいものではない。
彼は淡い期待を抱きながら、スイッチのある部屋を目指そうとする。
しかし。
(…あれ?)
部屋のドアがあるべき場所には、血みどろの壁しかなかった。
(おかしいな、スイッチ部屋はここのはず…)
念のため左右も見てみるが、あるのは壁ばかりである。
無骨なデザインのドアは、正文が入ってきたばかりの非常階段へ続くドアしかない。
(待て…まてまてまて)
正文は何かに気づき、非常階段まで戻る。
それからもう一度、左目の簡易眼帯を外して熱感知を試みた。
疑似視界には、入ってすぐの場所に部屋が映っている。
先ほどと全く同じ結果である。
その上で左目を簡易眼帯で覆い、右目で見る状態にしてからその場所へ行った。
「ちょっと待て…!」
正文はいらだちの声をあげる。
彼の右目に映るのは、血みどろの壁だけだった。
(おい、ふざけるなよ)
正文は、21階でスイッチを押した時のように、左の脇で包丁の刃をはさむ。
そうして自由になった右手で、血みどろの壁に触れた。
絨毯に触れた時と同じような感覚が、右手から伝わってくる。
濡れた冷涼感を覚えはするものの、手のひらは濡れていない。
それは、無骨なドアに触れた感覚とは全く異なるものだった。
「催眠術…!」
認識を操られている。
正文はそのことを指して、催眠術と口にした。
(部屋はここにある。ちゃんとある! でもここにいる俺には、『それがわからない』! ドアに触っているはずなのに壁の感触しかない……)
彼は試しに、ドアノブがあるはずの場所へ右手を伸ばしてみる。
ドアノブがある分通路側へ出っ張っているはずなのだが、右手はその出っ張りを感じ取れない。
壁の前で空気を混ぜるだけだった。
(手がドアノブに当たってる感じがしない。当たって痛いっていうこともない…! こんな状態じゃドアを開けられないし、開けたところであんなせまい隙間にあるスイッチを押すなんて無理だ!)
ただ見えないというのではない。
何もかもが定かではなかった。
正文が右手で壁を触ったことも、同じ手で空気を混ぜたことも、現実では起こっていない可能性がある。
しかも本人にはそれがわからない。
この場で見る目を右目から左目に切り替えたとしても、本当に切り替わっているかどうかすらわからないのだ。
(また非常階段まで戻って、通路に入る前から左目だけで見るようにすればなんとかなるか…? いや、だめだ! 俺がスイッチ部屋のドアを開けた途端に、通路から霧が入り込んで何も見えなくなる)
部屋が真紅の濃霧に包まれれば、あとは熱感知に頼るしかない。
だが先ほど確認した時、スイッチの詳細な位置はわからなかった。
機械が常に熱を放っていたからである。
スイッチがさらなる高温になるならすぐに見つけられただろうが、そうなると今度は換気システムが正常に動作するのかという疑問が出てくる。
(それに)
正文は天井を見上げた。
(見えない中で無理やりスイッチを押そうとすれば、スプリンクラーやら防火扉やらを誤作動させるかもしれない。それはまずい…! 白猫や御堂を助けられなくなる。甲03がここに来る可能性だってある……)
特に、白猫を見つける前に甲03と遭遇するのは避けたかった。
相手の特別な能力『フィスト』に対抗できるすべを、正文はまだ発見できていない。
「くそっ!」
彼はいらだちを吐き出すと、壁の前から離れた。
非常階段側へは戻らず、フロアの奥へと進む。
(下野の狙いは大体わかった! 今はそれに乗るしかない!)
濃い血の臭いを吸い込みすぎないよう、早足で歩く。
通路は破壊された家具でところどころがふさがれ、遠回りを余儀なくされる。
それでも壁の前であれこれ考えているよりはいいと、正文は考えた。
やがて彼の足は、ある場所の前で止まる。
(やっぱり…!)
ある場所とはスタッフルームだった。
入ってすぐの壁に、換気システムのスイッチがある。
21階では見つけられなかったものが、ここ22階には存在していた。
その意味を、正文はここにきてようやく理解する。
(スイッチは『どっちにもある』んだ…! ここと非常階段近くの部屋、『どっちにもある』! でも視覚ではわからないようにされてるんだ、下野の催眠術で!)
彼は悔しげな表情を浮かべつつスイッチを押す。
換気システムが動き出す音を聞いてから、搬入用エレベーターに向かった。
(21階だって同じとこにスイッチがあった。このあたりは臭いの影響がほとんどない。俺が左目を使ってさえいれば、すぐにでも押せたんだ…! でもあの時の俺はそこまで頭が回らなかった。それだけあせってたんだ)
搬入用エレベーターの近くに来ると、正文はパネルにあるボタンを押す。
扉はすぐに開き、彼を迎え入れた。
(で、多分……)
正文は搬入用エレベーターに乗り、上階へのボタンを押す。
複数個押してみたが、点灯したのは23階のみだった。
23階に到着した彼は、スタッフルームへ向かおうとする。
しかし、それは破壊された家具によって阻まれた。
「やっぱりか!」
正文は声に出してそう言った。
言わずにはいられなかった。
21階では非常階段近くの部屋、22階ではスタッフルームに換気システムのスイッチがあった。
これらどちらにも、付近に上階への移動手段がある。
つまり破壊された家具で遠回りさせておいて、ようやっと濃い血の臭いをどうにかできると思ったら、もうその階は探索する必要がないというわけだ。
下野にとって、自分から御堂を奪おうとする者は許しがたい敵である。
正文が考える彼の狙いとは、そういった者たちを全力でもてあそぶことだった。
(思った以上に抜け目がない…バカにしやがって……!)
正文は強く歯噛みする。
手のひらの上で転がされるのがどれほど悔しいことか、いやというほど思い知った。
とはいえ、これでやるべきことが明確になったのも事実である。
(遠回りだろうが蛇行しようが、上には行けるんだ! だったら急いで行けばいい!)
急いで行く前に、正文は左目で熱感知を行う。
白猫と敵がいないのを確認すると、今度は小走りで通路を進んでいった。
23階では非常階段近くの部屋、24階ではスタッフルーム、さらに25階では再び非常階段近くの部屋で、正文は換気システムのスイッチを入れる。
(いつまで続くんだ、これ…)
彼の顔には疲労が濃く出ていた。
下野へのいらだちよりも、同じ作業が続くことに対してうんざりする気持ちの方が大きくなっていた。
(ちょっと前までは臭いがキツいって思ってたけど、もう鼻がバカになったからそこそこどうでもいい…無理して左目で見てたら、こうはいかなかったかもしれないが)
人間の嗅覚は、他の生物に比べて鈍い。
さらに、強い臭いにさらされ続けると体の方が勝手にシャットアウトする。
五感が人並みになった正文にも、シャットアウトの機能は働いていた。
そのため、今は血の臭いがあまり気にならない。
気になるのはやはり、あまりにも変化のない現状だった。
(このまま最上階まで続くなんてことは……)
望まぬ未来を描きながら、26階への階段を上りきる。
その時だった。
「…クシュッ!」
小さなくしゃみの音が聞こえた。
正文はその音にひかれ、灰色のコンクリートで作られた部屋のすみを見る。
そこには、見慣れた姿があった。
「白猫!」
正文は、自分でも思いがけず大きな声を出す。
これに白猫はビクリと驚いた。
一瞬逃げ出そうとしたが、相手が正文だとわかると急に威嚇し始める。
「フーッ!」
「あっ…ご、ごめん」
正文はあわてて謝る。
気持ちが通じたのか、白猫は威嚇をやめた。
これに正文はホッとする。
しかしすぐに、安堵している場合ではないことを思い出した。
「お、おい…! 大丈夫なのか? 結構長いこと、血のあとが落ちてたけど……!」
今度は驚かさないよう、彼はできるだけ声を抑えて白猫に尋ねる。
これに対して、白猫は特に返事をしない。
コンクリート床の上に座ったまま、腹のあたりを上から下へなめ始める。
正文がそこに注目すると、かすかに赤くなっていた。
(あ…!)
どうやら腹をケガしたようだが、今はもう治っているらしい。
それがわかると、正文の体から一気に力が抜けた。
「よかった……!」
彼はその場に座り込む。
それを見て白猫はぎょっとするものの、何事もなかったようにまた自身の腹をなめ始めるのだった。
→ring.52へ続く
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