ring.39 ウシクフ | 魔人の記

ring.39 ウシクフ

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正文は非常階段を上る。

(人間にとって、見るというのはとても大事だ)

その足取りは力強く、2階に到達しても勢いが衰えることはない。

(外から入ってくる情報のほとんどは、視覚が感じ取ったものらしい)

彼は左手で手すりをつかみ、3階への階段に向かって体をターンさせる。
この時生まれた遠心力が、負荷となって左腕の筋肉を刺激する。

それを心地よく感じながら、さらに上った。

(…俺は、左目から…)

正文は、2階と3階の間にある踊り場に右足だけをかける。
同時に左目を見開いた。

(『見る力』を捨てたッ!)

縦長になった金色の瞳孔と、その周りにある赤黒い部分がギラリと輝く。
赤黒い部分から外へあふれ出る、炎のようなゆらめきが大きくなった。

(蛇が持つ鋭い嗅覚と、熱を感知する力を左目に降ろした! あとは右目をつむれば、目から入ってくる情報はほぼゼロになる!)

正文は動きを止めている。
2階と3階の間にある踊り場に右足だけをかけたまま、じっとしている。

左手は手すりを握り、右手は──右目を覆っていた。
つまり今の彼は、視覚情報をほぼ完全にシャットアウトした状態だったのだ。

(お前の催眠術を破ったぞッ! 下野ォッ!)

正文は、踊り場の一段下にある左足を持ち上げる。
そしてその靴底を、踊り場に敢えて激しく叩きつけた。

叩きつけの音が非常階段の内壁に響く中、彼の体も自然と踊り場に到達する。

(どうだッ!)

左目からあふれ出るゆらめきが、ますます大きくなる。
正文の心は大いに猛っていた。

これは彼の、復讐である。

正文が2階と3階の間にある踊り場で動きを止めたのは、1階と2階の間にある踊り場で起こったことを再現する意味があった。
右足だけを踊り場にかけているという体勢まで同じにしたのも、そのためなのだ。

(お前の催眠術は視覚にうったえるもの! おそらくサブリミナル効果とかそういうものなんだろう…だが! 視覚を使わなきゃ引っかかることはないッ!)

以前は確かに下野の術中に落ちた。
迷い、恐れ、諦めの気持ちをどうすることもできなかった。

だが今は違う。

(お前の催眠術なんか、もう俺には効かない! 効きゃしないッ!)

正文が左足の靴底を踊り場に激しく叩きつけたのは、下野の催眠術を打ち破ってみせたという勝ち誇りの行為だった。
いわば勝利の雄叫びであった。

下野に気づかれないよう近づくつもりなら、このようなことをすべきではない。
足音はできるだけ小さくし、心は冷静さを保って、隠密行動を徹底する必要があるだろう。

しかし正文はそうしなかった。
左目の視覚とともに、普段のおとなしい自分を捨てた。

復讐に走った。
そうでなければ、二度の敗北と情けない自分への怒りを、晴らすことなどできはしなかったのだ。

「…ふぅー…」

正文は一度大きく息を吐く。
次に呼吸を再開させた時、左目からあふれ出るゆらめきが半分程度にまで小さくなった。

彼は復讐にひとまずの区切りをつけたのだ。
落ち着いた面持ちで、自身が進むべき方向を見つめる。

(色というのは、光をどれだけ吸収するかで変わってくる…)

踊り場から3階へ向かって動き出す。

(完全に反射すれば白くなるし、完全に吸収すれば黒くなる)

足音と思考は、これまでと打って変わって冷ややか、かつ静かだった。

(でもそれだけじゃない。光が集まれば熱が生まれるんだ)

正文は3階に到達する。
そのまま4階を目指して階段を上る。

ここでも、先ほどのように勢いよくターンしたりはしない。
彼は冷静に、自らの左目に降ろした蛇の力を確認していく。

(俺は『蛇降ろし』で左目を作り変えた。光が集まってできるわずかな熱を感じ取って、擬似的に『色が見える』ようにした…それはにおいに関しても同じ)

右方向にチラリと目をやり、非常階段の壁を見る。
すぐに視線を前方へ戻した。

(壁はにおいをさえぎる。でも材質によってはにおいを通すこともある…その違いを感じ取って、擬似的に固そうとかやわらかそうっていう『見え方に変換』するようにした)

つまり正文の左目は、視覚でものを見る器官ではなくなった。

蛇が持つ鋭敏な嗅覚と熱感知の力を外界へ放ち、その結果を受け取ることで『あたかも目で見ているかのように感じ取る器官』へと変貌したのである。

正文が左目のみで周囲の情報を感じ取っている際に、彼の眼前に広がるもの。
それは厳密には、視界ではない。

嗅覚と熱感知の力が作り出した、擬似的な視界なのだ。

なぜ、嗅覚と熱感知の力をわざわざ視界に変換し直すのか。
そこはやはり、正文が元は人間だからというのが大きな理由である。

(今は人食いのバケモノでも、俺はもともと人間として生まれた…そして人間として40年以上生きてきた。自分の外で起こってることを、目で見て感じ取るっていう感覚は捨てられない。捨てたところで、代わりにどんな感覚があるのかっていうのを…思いつけない)

認識の外にあるものを、実感として感じ取ることはできない。
だからこそ彼は、蛇の力を左目に降ろし、嗅覚と熱感知の力を見ることに変換するという方法をとるしかなかった。

(それに)

正文は、3階と4階の間にある踊り場を通過する。
下階の踊り場を使って敵の能力に対する復讐劇を演じた者とは思えないほど、その歩きぶりはさりげない。

(自分で考えて動く蛇を8匹も出すより、俺自身を蛇に作り変えた方が『腹の減り』も少なくてすむ。これはある意味、収穫といってもいいだろうな…とはいえ)

彼は、自ら右手で覆い、まぶたを閉じたままの右目を動かす。

(後からどんなデメリットが出てくるかわからない。右目まで蛇にするのはやめといた方がいいよな…早いとこ眼帯を見つけたいところだ)

カフェのある1階ならまだしも、このままタワーマンション内部を上へ進んだところで、眼帯を売る薬局など見つかるはずがない。
それは彼にもわかっていた。

つまり最後の言葉は正文なりの冗談である。
下野の催眠術を打ち破り復讐まで果たしたことで、彼の精神に余裕が生まれたという証だった。

だがその余裕にも、やがて冷や水が浴びせられる。

(うわ)

4階に到達したところで、正文の足が止まった。

5階へ続く上り階段の前に、格子つきのドアがある。
格子は縦向きで1本1本が太く、それぞれの間隔がとてもせまい。

細身の人間でも体を滑り込ませるのは不可能だろう。
太く大きな正文では言うまでもない。

おまけに、白く塗られてはいるもののドアは明らかに鋼鉄製だった。

(横からも入れないようになってる…とにかく、まずは開くかどうか…)

正文は左手でドアノブを握る。
回そうと試みるも、強固な内部機構に阻まれてガチリと音がするばかりだった。

(非常階段の意味…!)

彼は心で強く抗議する。
仕方なく、4階フロア内に続くドアへ向き直った。

(カギ、別のルート…どっちかを見つけるしかない)

フロア内に入るのは気が進まなかった。
先に送り込まれたアンチェインドや、α7の同僚がいるかもしれないからだ。

彼らが正文のように、下野の催眠術を打ち破る術を持っているならいい。
共闘の可能性すら探ることができる。

しかし、現状でそう考えるのは楽天的に過ぎた。

(次はどこを作り変えるのか、考えとかなきゃいけないかもな…!)

催眠術で操られた者たちを相手に、戦わなければならないかもしれない。
そんな予感を抱きつつ、正文はフロア内へ続くドアを開けた。

ドアからひんやりとした空気が漏れる。
その瞬間、彼の左目が感じ取った。

(…いる)

誰かがフロア内にいる。
わかった上で、正文は中に入った。

できるだけ音を立てないよう、ドアを閉める。
外界から隔てられた内廊下が彼を迎えた。

(あれっ?)

正文は意外そうな顔をする。
内廊下は彼が思ったよりもずいぶん明るかった。

『グランタワー・ウーノ・ペンディオ』は、1階から4階までが共用スペースになっている。

そのためか、内廊下といっても窓がかなり多い。
遠慮なく降り注ぐ陽光が、フロア内をとても明るくしている。

(ここは『まだ家じゃない』んだな…)

4階が居住階ではないことを、正文はそう表現した。
そしてマンションの中に『家じゃない場所』が何階分もあることに、奇妙さを感じた。

(1階と似た感じだけど、あっちよりちょっとあっさりしてる…ん?)

正文は壁に設置された案内板を見る。
そこには、多目的ルームやワークスペースへの行き方が書かれていた。

(どっちに行くべきか…)

正文は考える。
その間も、フロア内にいる何者かの位置を把握することは忘れない。

左目が作り出す擬似的な視界は、ターゲットがいくつかの壁をはさんだ向こう側にいると示している。

(まずは武器になるものを探そう。何しろ今の俺は丸腰…蛇たちを消されるなんて思ってもみなかったからな。今考えれば、油断もいいところだ)

過去の自分にいらだちを感じながら、正文は案内板を離れた。
固い石床で足音を立てないよう、歩き方に気をつけながら4階フロア内を進む。

目指す場所はワークスペースだった。

(パソコンで作業するための部屋だろうけど、筆記用具のひとつくらいはあるんじゃないか? ペンやハサミでどこまで戦えるか謎だけど…あっ)

正文は、しばらく前まで自分がどこにいたかを思い出す。

(そうだ…! カフェでナイフの1本でも借りてくれば良かったじゃないか! 全然頭が回らなかった…白猫に『お前、何者なんだ?』なんて言ってる場合じゃなかった。なにやってんだ、俺…)

彼は渋い表情で頭をかく。
失態はこれっきりにしなければと自らを叱咤しつつ、先を急ぐのだった。


数分後、正文は目的地に到着する。
大きな引き戸に手をかけ、開けようとした。

「!」

開かない。
ここも施錠されている。

さらに悪いことに、何者かが彼の背後に立った。

「テメェ! 見ねえ顔だなあ?」

それは中年の男で、下卑た顔つきに加え右手には拳銃を握っている。
先に派遣されたアンチェインドだった。

男の目は、焦点が合っていない。

「ご主人サマの邪魔するヤツぁ、オレがぶち殺してやるぜぇえ!」

正文が振り返る間もなく、拳銃が火を吹いた。


→ring.40へ続く

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