Ch.10 2種のインク | 魔人の記

魔人の記

ここに記された物語はすべてフィクションであり、登場する団体・人物などの名称はすべて架空のものです。オリジナル小説の著作権は、著者である「びー」に帰属します。マナーなきAI学習は禁止です。

Ch.10 2種のインク


魔人ペン。
ガラスか水晶でできた羽根ペンのような姿を持つそれは、描いたものを実体化させることができる。

「必要なものはインク、そして『描くという意志』じゃ」

リーエイルは、勇治郎があかりにしたことを明かす時にそう語った。
彼女はインクについても説明する。

「インクは2種類ある。ひとつはもともと魔人ペンに入っておる虹色のインクで、使えばその分減る。描きながらの補充はできんが、後で魔物を倒せば補充そのものは可能じゃ」

つまり虹色のインクは、魔物を倒すという行為を続けていれば枯渇することがない。
あかりも、晴人が持っていた魔人ペンに魔物が虹色のインクとなって吸い込まれるのを見ていたので、この説明はすぐにわかった。

問題は、もう1種類のインクである。

「勇治郎がそなたに使ったのは、『血のインク』」

この言葉を口にしたリーエイルの表情は険しく、また悲しげだった。

「これは自らの魂を展開し、今までともに歩んできた記憶を分離してインクに変換したものじゃ。描くと決めたものを描ききるまでなくなることはないが、描いたと同時に分離した記憶は消える」

消えた記憶は二度と戻らない。
たとえ、これを見れば必ず思い出せるという小道具を用意しておいたとしても、思い出すことはできない。

なぜなら、最初からなかったことになっているからだ。
『血のインク』による記憶喪失は、症状として知られる記憶喪失とは全く異なるものだった。

しかしここまで説明されても、当時のあかりにはわからなかった。
なぜ勇治郎は、わざわざ血のインクを使って右手を描いたのか。

それは、2種のインクが持つ大きな違いが関係している。

「虹色のインクで描いたものはな、この世界…裏界(りかい)から持ち出すことができんのじゃ」

裏界とは、リーエイルたちがいるこの世界を指している。
普通の世界とよく似ているが、魔物が出るという部分が決定的に異なっていた。

つまり、もしあかりの右手が虹色のインクで描かれたものであったなら、家で目覚めた時にはもう右手が存在していなかったことになる。
普通の生活を送ることはできない。

しかし勇治郎は自らの記憶を使い、血のインクで彼女の右手を描いた。
魔人が干渉したせいで『氷の右手』になりはしたものの、あかり本人も今まで自分の右手が別物などとは思わずに過ごしてきた。

もし今回、あかりが裏界に迷い込むことがなければ、何も知らないままでいたことだろう。

しかし彼女は迷い込み、真実を知った。
打ちのめされて、今も屋上で座り込んでいる。

(普通さ…そんなことできる?)

あかりと勇治郎に面識はない。
見ず知らずの相手を助けるために、大切な記憶を使ったりできるだろうか。

(あたしにはできない…!)

しかも勇治郎は、あかりと会っても礼をせがむことはなく、自分が助けたなどとは一言も口にしなかった。
それどころかあかりが真実を知っても、すぐ帰れ、普通に生きろと言う始末である。

自分のために利用しようという素振りを、勇治郎は一切見せなかった。
だからこそあかりは、何もできない自分が悔しい。

(右手を使えば、あたしだって魔物を倒せる…それは勇治郎さんだってもう見てる。きっと役に立てると思う……けど)

あかりは、涙に濡れた顔を手で拭う。
立ち上がると、屋内に続くドアを見る。

(勝手なことしたら、勇治郎さんが困る……少なくとも、喜んだりは…しないよね)

彼の言う通り、ただ家に帰って普通に生きよう。
あかりはそう決めて、ドアに近づいていきそれを開けて中に入った。

「はあ……」

しかし気分は乗らない。
何かできることがあるはずだという思いも消えない。

その思いが、階段を下りる動きを遅くする。
1階分下りて3階へ来た時、あかりの足がぴたりと止まった。

(…なに?)

何かが聞こえる。
彼女の聴覚が、かすかな音をキャッチしていた。

左右に広がる廊下をじっと見つつ、音の発生源を探る。
すると、右方向から再び同じ音が聞こえてきた。

それは軽いものが何かを引っかくような音で、とても淡く小さい。
あかりが普段通りに階段を下りていたら、絶対に聞き取れないほど頼りないものだった。

(何か…いるのかな)

リーエイルの話では、この建物はもう結界が復旧しているので魔物が侵入することはない、とのことだった。
だとすれば、新たに魔物が入り込んできたという可能性は低い。

では一体何が音を立てているのか?

(気になる)

あかりはその場で上靴を脱ぎ、音の発生源へ向かい始めた。
氷の力を使える心強さと、自分にも何かできるはずだという思いが、未知に対する恐怖を大きく上回っていた。

足音を抑え呼吸を殺して、彼女はどうにか物音を立てずに発生源の部屋にたどり着く。
閉まり切っていない引き戸から、そっと中をのぞき込んだ。

何者かが、ベッドの前でひざ立ちになっているのが見える。

(……誰?)

その後姿は、食堂にいた誰とも違った。

だが、あかりの中には記憶がある。
どこかで見たことがある。

(あれって…)

心臓の鼓動が、彼女の体内に強く響く。
その時、視界の中で何者かの体勢が変わった。

下に向けていた頭を上げたのだ。
あかりの目に、逆立った黄緑色の髪の毛が見えた。

(あいつだ!)

今ならわかる。
嫌な夢の首謀者。

魔物からあかりを助けておいて、右手を人形に食いちぎらせたマスク姿の男だった。

「お前っ!」

あかりは叫びながらドアを開ける。
マスクは驚き、あわてて振り返った。

と、その体がずるりと崩れる。

「グゲ…!」

振り返りの遠心力に肉体がついていけず、右半身が壁まで伸びてぶつかった。
中心に集まろうとするのだが、その動きはとてものろい。

マスクはバランスを失ってその場に倒れる。
これを見たあかりは、驚きを隠せない。

「え……」

「グ…見た……な…!」

マスクは憎しみの声をあげ、あかりに向かって這いずってくる。
体と同じく口元のマスクも伸び切っており、黒地に描かれた笑い口が右側だけやけに大きく伸びていた。

市販のマスクでこういったことは起こらない。
どうやらその部分も、肉体として機能しているようだ。

一方、あかりは最初こそ驚いていたものの、相手の動きがあまりに遅いおかげで気を取り直すことができていた。

「うおあああああっ!」

戦いが彼女の命を躍動させ、躍動は雄叫びとなって口から放たれる。
その目には怒りが宿った。

この男さえいなければ、あかりが右手を失うことはなかった。
嫌な夢に苦しむことも、勇治郎が記憶を失うこともなかった。

この敵で間違いないと確信できた時、怒りは確かな力となる。
あかりは冷気を放つべく、右手をマスクに向けて突き出した。

「凍れえっ!」

「ぬうッ!」

マスクは本能的に何かされると感じたのか、体の一部を素早く伸ばしてきた。
直径1センチほどの触手が、あかりの手首に巻きつく。

その時、彼女の中を強い嫌悪感が走り抜けた。

「ううっ!?」

思わず体を縮めそうになる。
しかしそうしてしまえば、攻撃の機会をみすみす失ってしまう。

あかりは歯を食いしばってどうにかこらえ、右手に意識を集中させた。

「やあああああっ!」

嫌悪感に顔を歪めながらも叫ぶと、右手から扇状に冷気が噴出される。
マスクはそれを真正面から浴びてしまい、あっという間に凍ってしまった。

あかりが右手に力を入れると、手首に巻きついていた触手が砕け散る。
床にパラパラと落ちる破片を見て、彼女はあることに気づいていた。

(お母さんと…同じ……!)

母親の由美子を右手で軽く叩いた時に感じた、強い嫌悪感。
それをあかりは、マスクの触手から感じ取ることとなった。

このまま帰るわけにはいかない。
リーエイルたちにマスクのことを報告しに行った時、何かできることがあるはずだと考えるばかりの彼女はもういなかった。

「あたしは切符のことを忘れてました…マスクが落として、あたしが拾った切符のこと」

嫌な夢が現実であった以上、切符も間違いなく存在していたはずなのだ。
それがなくなっているのはおかしいと、あかりは訴えた。

「切符…」

晴人が首をかしげる。

「あの日、君を家まで運んだのは勇治郎さんだし、元の世界に戻す仕掛けを使ったのは僕だけど、そんなの見なかったなあ」

つまり、あかりが右手をなくしてから家に帰るまでに、切符を落とした可能性はほぼない。

「ただ落としただけなら、まだいいっていうか…仕方ないとも思うんです」

あかりの表情は険しい。
彼女の中には、嫌な夢ならぬ嫌な可能性がべっとりとはりついていた。

「でも、何かの拍子でお母さんが見つけちゃって、それを使ってこっちに来たんじゃ…そんな気がしてならないんです」

「ふむ…」

リーエイルは、一度ゆっくりまばたきすると氷漬けになっているマスクを見た。
顔をそちらに向けたままあかりに問いかける。

「あかり。そなたは自分の母親が、コヤツと同じ人形だと考えておるのか」

「はい。あの感覚は、ほんとに…ぞわぞわっとして普通じゃないんです」

「それをわしらに話して何とする?」

「一緒にお母さんを探してください!」

あかりはしっかりとした口調で言った。

「あたしも戦います、戦えます! でも手がかりとかそういうのが全然わからない…だから協力してほしいんです!」

「わしはもちろん構わんが…」

リーエイルは勇治郎に顔を向ける。

「勇治郎、お前はどうなんじゃ」

「…仕方がない」

勇治郎はまぶたを閉じながらそう言った。
あかりの安全を願って普通に生きろと言った勇治郎が、母親を探すというあかりにとってこれ以上ない重要案件を突っぱねられるわけがなかった。

「私も協力する!」

「もちろん、僕もね」

姫と晴人も加わり、全員があかりの母由美子の捜索に協力してくれることになった。
あかりは彼らに心から感謝し、何度も頭を下げるのだった。

あかりたちはまず最初に、氷漬けになったマスクの体を片付けるところから始めた。
横に広がった体はそのままだと縦向きにしてもドアから出せないため、明らかに人間らしくない部分をリーエイルがノミとハンマーで分割することにした。

「しかし…こやつ、人の姿をした人形だったとはの」

マスクの正体は精巧に作られた人形であり、別の人形と融合して再びマスクとして復活しようとしていた。
あかりが聞いた小さな音は、マスクがベッドの布をかじり取る音だった。

「この部屋は空き部屋で唯一、布団の類が置きっぱなしじゃった。布を食って、腹の中で繊維を組み直して…それも復活の足がかりにするつもりじゃったというわけか。いやはや…」

「師匠、感心してないで次の欠片ちょうだい」

「おっ…すまんすまん」

晴人にせかされ、リーエイルは分割した欠片を渡す。
彼女はどうやら敵味方関係なく、研究対象になりそうなものに興味をそそられてしまうようだ。

分割されたマスクを運び出し終わると、一同は再び食堂に向かった。
中央に丸く並べられた椅子に座り、由美子の手がかりについて話し始める。

「あの…」

おずおずと手を挙げたのは姫だった。
見間違いかもしれないけど、と前置きした上で、自身が見たものについて語り始める。

「少し前…多分、表側に換算すると昨日のことだと思うんだけど、あかりちゃんの家から一瞬だけ人の反応が見えたの」

「えっ…あ、あの、ちょっと待って」

情報が多かったため、あかりは少し混乱した。
姫はそれを最初から予想していたのか、問われる前にこう続ける。

「ここ裏界はね、時間が止まってるの。どれだけ過ごしても、表側では1分もたってなかったりする」

「ええ…? そうなの?」

「うん。だけど時間の感覚がなくなるっていうのは恐ろしいことだから、時計はあるの。あかりちゃんにも…はい」

姫は、あかりに腕時計を差し出してきた。

「あ、ありがとう」

あかりは礼を言いながら受け取り、右手首に装着する。
しかし具合がよくないのか、左手首に付け替えた。

腕時計はアナログ時計でもなければ、単なるデジタル時計でもない。
いわゆるスマートウォッチで、画面の中には日付や時計の夜空の壁紙が表示されている。

「わあ…」

こういったものを初めて使うあかりは、思わず声をあげた。
そこへ姫が注意を促す。

「表側から持ってきた機械は、ここでは使えないから気をつけてね」

「え…ってことはスマホも?」

「うん。逆にその時計は、表側に持っていけないから…帰る時には置いていってね」

「あ…そっか、これ虹色のインクで…うん、わかった」

あかりが納得したところで、姫は話を進める。
腕時計をタッチして、別の機能を彼女に見せた。

「この腕時計、すぐ近くとか設定した場所周辺に人がいると教えてくれるの。私はあかりちゃんの家に設定してて、一瞬だけ人の反応が見えた…それが昨日の話」

「…! つまりそれがお母さんだってこと? どこに行ったかわかる!?」

「それが…ほんとに一瞬だったから、見間違いかもしれないって思ってそれ以上調べなかったの。こんなことならもっとちゃんと見ておくべきだったんだけど…ごめんなさい」

「あ…そ、そうなんだ…」

あかりはガックリと頭を垂れる。
姫はあわてて慰めようとするが、どう言ったものかわからずにただつらそうな表情を浮かべた。

ふたりのやりとりを見ていたリーエイルが、ふと何かを思いつく。
あかりにこんなことを問うてきた。

「あかり、切符を入れていた服を用意できるか?」

「え? 切符を入れてた服って…この制服だけど…」

あかりはきょとんとした顔で返答する。
それを聞いて、リーエイルは満足げにうなずいた。

「ならばイケるかもしれんな。マスクに役立ってもらうとしよう」

少しだけいたずらな笑顔を見せる。
リーエイルの狙いがわからないあかりは、ただ目を丸くしながら彼女を見つめるのだった。


>Ch.11へ続く

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