Act.178 背けた目は果てを見る
真夜中の病院。
明かりが消え、静まり返った廊下。
空き病室の前に、少女とハゲワシがいた。
少女は、胸の前で両掌を上に向けている。
その上にハゲワシ…スプレッダ『ヴァルチャー』が乗っていた。
「……」
「………」
少女は悲しげに微笑みながら、『ヴァルチャー』に向かって首を横に振る。
それを見て、『ヴァルチャー』は彼女からそっと視線を外した。
物言わぬ会話は終わり、少女は両手に乗せていた『ヴァルチャー』を廊下へ下ろす。
音を立てないように引き戸を開けた。
中はさらに暗い。
少女は2秒ほど立ち止まっていたが、逃げ出すことはせずに病室へ踏み込む。
踏み込むと同時に取っ手を離すと、引き戸はゆっくりと閉まっていく。
それはやがて、彼女の背後で部屋と廊下を隔絶した。
わずかな音でそれを察知したのか、中にいた何者かが声を発する。
「…遅かったね、みもりちゃん」
「その名前で…呼ばないでください」
少女は、わずかにかすれた声でそう返した。
顔を右方向へ向ける。
闇に慣れた目が、ベッドの上に座る白衣姿の男を捉えた。
それが瀬戸 拓海であるのを確認すると、声を整えてからこう告げる。
「他の能力者たちに聞かれては、面倒です」
「ああ、ごめんごめん。ちょっと不注意が過ぎたかな?」
拓海は笑いながら言う。
反省する様子はまったくなかった。
彼は、自分の隣を手で叩いてみせる。
待ちきれないといった様子で、彼女を呼んだ。
「さあ、おいで。久しぶりに楽しもうよ」
「……もう、こういうことはやめませんか」
「ええ? なに言ってるの、『みもりちゃん』」
注意されたばかりだというのに、拓海は再び少女の名を呼ぶ。
その響きには、絶対的な権力を握った者特有の傲慢さがあった。
「忙しくなるまでは、毎週のようにいちゃいちゃしてたじゃないか」
「……」
みもりは応答しない。
反論がないのをいいことに、拓海は続ける。
「あまり頻繁だと体によくない。でも本当なら、毎日でも僕としたい。そう言ってくれたじゃないか」
「………」
「7年後…16歳になったら、結婚してくれるんじゃなかったっけ?」
「もう、あの頃とはちがう…ということです」
「寂しいねえ」
拓海はおどけた口調で言うと、みもりに手を伸ばした。
左手で彼女の右手首をつかむと、力まかせに引き寄せる。
唇を重ねようとした。
「……!」
みもりはそれに気づき、顔を背ける。
「へえ……」
拓海の目に、暗い光が灯った。
つかんだ手に力を入れる。
「僕とのことは、遊びだったってことかい?」
「…ちがいます」
「ちがわないよ」
右手を使い、みもりの顔を自分へと向ける。
「あの頃はいつ死ぬかわからなかった。だから僕にしがみついたけど……能力を手に入れたからその心配がなくなった。安心した君は、『本当に好きな人』を見つけちゃった…僕に断りもなく」
「………」
顔を動かせなくなったみもりは、せめてもの抵抗とばかりに目を背ける。
それを拓海は鼻で笑った。
「君も、他の女と同じだ。僕がどれだけ優しくしても、結局そっぽ向いちゃう…でもね」
目の奥にある暗い光が、ギラリと輝く。
「その『本当に好きな人』の命は今、僕が握ってるんだよ」
「……!」
みもりの体が、びくりと震える。
この反応に、拓海はほくそ笑んだ。
「手術の順番は、僕の一存でどうにでもなる…それがわかってるから、君は今ここに来てる」
「それは…」
「僕にどうされるのかわかってて、ここに来てるんだよ」
拓海は再び、顔を近づける。
みもりはつかまれていない方の手を伸ばし、それを彼の肩に当てて抵抗した。
「それは…やめてください」
「『下』は、いいのかい?」
「……」
「ははっ、いいね。燃えるよ」
拓海はニヤリと笑う。
顔をつかんだ手に、さらに力を入れた。
頬が無理やりに口へ寄せられ、みもりの顔が歪む。
わずかに開いた唇を、拓海は強引に吸った。
思うがままに蹂躙した後で、口を離す。
自分が汚した少女に向かって、満足げにこう言った。
「彼と結ばれたとしても、君は僕を忘れることができない…必ず、100パーセント、想いは上書きされるとか詭弁を垂れようとも絶対に、僕を比較の基準にする」
「う、うぅ…」
「僕に触れられたことで得た快感を、僕に気持ちよくしてもらった事実を…君は、君の体は、君の脳は、忘れることができない。一生涯。絶対に」
「………」
「それにさ」
拓海は、みもりを抱き寄せる。
彼女の耳元でこうささやいた。
「この戦いが終わって能力が消えたら、君は難病患者に逆戻りだよ? そんな君を受け入れる度量と金銭的な余裕が、彼にあるかなあ?」
「早く…終わらせてください」
観念したのか、みもりは力なく言う。
その言葉を聞いた拓海は、声に笑みを乗せた。
「彼は、女の子をかばって撃たれたそうじゃないか……君とは別の」
「……」
「元気になったところで、君のことを好きになるとは思えないけどね」
「お願い…です」
「ククッ、ククククッ」
耳障りな笑い声を聞いた後のことは、あまり憶えていない。
ただ、やけに体を揺らされたことだけは、タールのようにへばりついて消えない。
その記憶が。
「…『レイヴン』はお前のことなど、意識していな……」
魔人が放ったこの言葉によって、解凍された。
内容すべてを瞬時に、そして鮮明に、みもりの中へまき散らした。
解凍によって記憶から離れた冷気は、別のものへと移る。
「…わかっている」
それまで燃え上がっていた、魔人に対する憎悪が凍った。
光の剣は炎を透過し、標的に到達したところで元に戻る。
「彼が私を見ていないことなど、最初から…わかっている」
冷え切った感情が、剣の性質を目まぐるしく変えた。
魔人はそれに対応できず、刺し貫かれる。
傷から漏れ出た血は、魔人自身の炎で燃えて蒸発した。
周囲に、鉄の臭いが広がる。
「……」
『ヴァーチャー』の顔が、わずかに下を向く。
魔人に背を向けたのは、勝利を確信してのことではない。
彼女は、目を背けたかった。
甦った記憶から、
その原因を作った魔人から、
ただ目を背けたい。
その思いが、彼女に背を向けさせていた。
しかし。
「フフフッ」
魔人は、笑う。
数多の剣に貫かれ、傷と血を自身の炎に焼かれながらも笑った。
「なるほど、『ヴァーチャー』…そして『ジャッジメント・オブ・ヴァーチャー(力が示す判決)』……なかなかの特性だ」
「……!」
『ヴァーチャー』は驚いて顔を上げる。
すぐさま振り向いた。
剣と血にまみれた魔人が、笑っている。
「お前…?」
「いや、なかなかというのは過小評価かもしれない。かなり優秀と言っていいだろう」
魔人がそう言うと、体を貫いていた剣たちが炎に包まれる。
やがてそれらは、他の炎と一体化してしまった。
傷はふさがり、体やプロテクターを汚した血液は消し飛ぶ。
それを自身でも確かめたいのか、魔人は両手で自身の体を触り始めた。
「お前たちに与え、今では私も持つに至った能力『エツィオーグ』…この名には翼という意味がある。私がすべての名をつけ、作り上げた」
満足したのか、手を止める。
その目を『ヴァーチャー』へと向けた。
「お前の元の能力『ヴァルチャー』も、今の能力『ヴァーチャー』も、私が作ったものだ。どういう力かは私が一番よく知っている…しかしだ」
にっこりと微笑んでみせる。
「お前が使うことで、ここまで強力になるとは思わなかった。『フェニックス』を得ていなければ、あの時点で私の望みは潰えていた…少し遊びが過ぎたようだ」
切り刻まれて消失していた炎の触手が、魔人の肩から再出現する。
だがその数は6本から増えない。
「反省しなければならん」
どうやらそれ以上増やせないようだ。
魔人はしかし、楽しげに言った。
「私は一度死んだ…が、『フェニックス』の特性によって蘇った」
「……!」
「その名を、『ヴェー・レシュト・フィグッスス(命は終わりなき業火)』という」
ここで、炎の翼が力強く広げられる。
花びらが舞うように、火の粉が飛び散った。
「くっ…!」
巻き起こる熱風に、『ヴァーチャー』は思わず両手で顔をかばう。
その直後。
すぐ近くで魔人の声がした。
「とても、地味な特性だよ」
「!」
接近に気づいた『ヴァーチャー』は、すぐさま両手を握りしめる。
手の中に光の剣を出現させ、交差させるように振り下ろした。
だが、手応えがない。
「死にかけた時に言うには長すぎるし、死にかけていては…高らかに叫ぶこともできん」
「あぐっ……!?」
『ヴァーチャー』は、腹の中に熱を感じる。
下を向くと、そこには炎の剣があった。
魔人は目の前にいる。
剣を振り下ろしたなら、手応えがなければおかしい。
攻撃が成功するにしろ、防御されるにしろ、手応えがないはずがない。
そういう位置にふたりはいた。
しかし、天使の白剣が魔人の体や炎に当たることはなかった。
だというのに、魔人が突き出した炎の剣は『ヴァーチャー』の腹に刺さっている。
「まさ、か………!」
標的に到達するまでは透過させ、到達したと同時に元に戻す。
先ほど『ヴァーチャー』が剣のみでやったことを、魔人は剣に加え自身の体でもやってのけたのだ。
これは、炎の中から蘇るという『フェニックス』の特性を持つ魔人でなければできないことだった。
だが当の魔人は、敢えてこんな言葉を口にする。
「お前とは比べ物にならんほど、地味な特性だよ」
それは自虐の名を借りた、勝利宣言である。
言い終わった後で、魔人は炎の剣を引き抜いた。
『ヴァーチャー』の体が、ゆっくりと傾いていく。
力を失った天使は、羽ばたくこともできずに落下し始めた。
「う…あがっ……!」
「さらばだ、『ヴァーチャー』…いや、佐原 みもり。『エツィオーグ』によって生き長らえたお前は、『エツィオーグ』によって死ぬ」
「…く、う……」
「だが、恥じることはない。これは『刈り取り』だ…お前を生かしたことに対して、責任を取ったに過ぎない」
「………」
「なに、いずれは『レイヴン』もお前のもとへ行く…運が良ければ、私の故郷で愛し合うことができるかもしれない。お前たち人間が言うところの『来世』でな」
「く……!」
落下しながらも、『ヴァーチャー』は周囲に10本の白剣を出現させる。
焼かれているせいか血の出ない傷を手で押さえながら、声を絞り出した。
「『ジャッジメント・オブ・ヴァーチャー(力が示す判決)』…!」
力を象徴する剣たちが、魔人に襲いかかる。
しかしその速度は、これまでと比べて明らかに遅い。
必死の抵抗を見たエンディクワラ・テリオスは、満足気にうなずいてみせる。
先ほどまでのように、嘲笑を送ることはなかった。
「その意気や、良し」
魔人の声を受けて、炎の触手たちが動く。
剣のほとんどが、いとも簡単に落とされてしまった。
だが、最後の1本だけは触手たちを透過する。
加えて、急激に速度を増した。
「!」
魔人の顔から余裕が消える。
しっかりと凝視し、ギリギリまで引きつけてから素早く左に避けた。
最後の剣は、そのまま空の彼方へ消えていく。
戻ってこないのを確認すると、魔人は『ヴァーチャー』がいた場所へ顔を向けた。
「この私を一瞬でも、しかも大幅に凌駕したこと…褒めてやる」
そこにはもう、誰もいない。
地に落ちた天使が、魔人の視界に映ることはなかった。
「さて、次は…『パピヨン』だな」
エンディクワラ・テリオスは静かに言うと、砥上花鳥園の方角へ向き直る。
見えない巨人『邪黒冥王・偽』を連れ、移動を再開させるのだった。
>Act.179へ続く
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