Act.19 昂りに過ぎた戦いの翼 | 魔人の記

Act.19 昂りに過ぎた戦いの翼

Act.19 昂りに過ぎた戦いの翼


戦いが始まった。
悟とレイヴンにとって、それは予想外の展開だった。

だがそもそも、戦いとはそういうものなのかもしれない。
いつでも予想通りに進むなら、誰も勝った負けたで苦労したりはしない。

「お前も死ねェエ!」

能力者『ラニウス』は、絶叫しながら悟に向かって突っ込んでくる。
対する悟は、それを真っ向から迎え撃つ形になっていた。

ふたりは『決闘者』として、薄く青い光のドーム『スフィア』の内部で戦う形になっている。

『ラニウス』が言う「お前も」とは、先に彼が殺した能力者と悟とを同列に言っている、ということなのだが、死んだ能力者は『スフィア』の中にはいない。

その範囲は屋上全体に及んでいるようだが、階下へ下りる階段やボイラー、パイプなどの設備に視線を遮られてしまい、どこまで広がっているのか正確な広さはわからない。

有機物と無機物で存在するしないを分けられるのか、その詳細までは悟にはわからなかった。
そして今は、ゆったりと周囲を気にしていられる状況でもなかった。

”来るぜ…! 恐らくいきなりやってきやがるはずだ!”

「……!」

レイヴンの声が強く心に響いて、悟はこわばった体をさらに緊張させる。
そうしているうちにも、『ラニウス』はみるみるうちに彼へと近づいてくる。

普通なら、足場を一度蹴っただけで何メートルも前方に跳んでいけるものではない。
だが『ラニウス』にはそれができている。

劇的な身体能力の向上。
それが『ラニウス』の身に起きていた。

だがそれは悟も同じである。
『アナザーフェイス状態』に変身すれば、誰もがその状態を手に入れることができるのだ。

しかし、悟とレイヴンが今気にしているのは、そのことに関してではない。

(いつだ…どのタイミングで!?)

”まだだぜあせんな! 特別な能力を使うためには、『必ずその名前を呼ばなきゃならねぇ』! 自分にしっかり認識させなきゃ、発動できねーようになってんだ!”

ふたりが警戒しているのは、『ラニウス』が持つという能力だった。
つまり『ラニウス』には、身体能力の向上以外にも攻撃手段があるということになる。

そしてそれによって、屋上にもうひとりいた能力者は殺されてしまった。
悟が『アナザーフェイス状態』に変身して屋上へ向かうまでの間にそれは起こっており、殺害までの時間はかなり短い。

つまり、それだけ強力であるということである。

「ハハハハハッ、すぐに決めてやる! 『失敗作』が相手とは、つくづくオレも運がいい!」

「……!」

『ラニウス』の言葉。
それは、悟ではなくレイヴンを嘲る言葉だった。

恐らくスプレッダ『ラニウス』から、レイヴンのことについて聞いているのだろう。
他のスプレッダが話す言葉は聞こえないので、悟には予測することしかできない。

ただ、今は予測だけできれば充分だった。

「……すぅ…」

悟は呼吸を整えた。
彼の体から、余分な力が抜ける。

レイヴンを嘲笑の的にされたことで、彼は逆に冷静になった。
その瞳に、これまで彼の人生においてほとんど灯ることのなかった光が宿る。

『ラニウス』がひときわ大きな声を張り上げたのは、その直後だった。

「このオレの力に泣き叫べ!」

嘲笑の声とともに、『ラニウス』は右手を振り上げる。
それを悟に向かって振り下ろしながら、必殺の力をその声で『呼んだ』。


「屠殺の枝(トサツノエダ)!!」


”今だ!!”

「…!」

レイヴンの声が強く心に響いて、悟は反射的に左へ跳んだ。
『ラニウス』が振り上げた手と同じ方向へ、素早く跳躍した。

その直後、『ラニウス』の手、その指先一本一本から針金のようなものが瞬時に伸びる。
叫んだ名の通り、5本の細い何かは枝分かれしつつさらに伸び、悟がいたはずの空間をめった刺しにする。

だが、『ラニウス』に手応えはなかった。
そこに悟はいなかった。

「……?」

避けられるとは思わなかったのか、『ラニウス』には何が起こったのかわからない。
指先から伸びた『屠殺の枝』が、足元にあるコンクリートまで伸びていくのを、じっと見ていた。

「…え?」

「ああああああっ!」

呆然としている『ラニウス』の背後から、悟が突進してきた。
彼はすぐ近くで低く跳び、右足を前に出す。

『ラニウス』の背中に、彼の跳び蹴りがまともに決まった。

「うおぁっ!?」

その衝撃に『ラニウス』は思わず叫ぶ。
踏ん張ることができずに、3メートルほど吹っ飛んだ。

コンクリートに体を叩きつけられ、それでも勢いを殺せずに回転する。
屋上の縁までそれは続き、そこにぶつかることでようやく止まることができた。

「…はあ、はあ…!」

悟は、息を切らしながら『ラニウス』の様子を見ている。
レイヴンは彼に、興奮した様子でこう言った。

”よし、よくやった! まさかあそこまでクリーンヒットするとは思わなかったぜ!”

(………)

悟は、レイヴンの言葉に返答しない。
レイヴンは、そんな彼に向かってさらにまくし立てる。

”最初はケンカ慣れしてると思ってたが、どうやら戦闘でテンションが上がり切ってるだけだったっぽいな! 本当にケンカ慣れしてたら、避けられる可能性を考えねーわけがねぇ!”

(………)

”おそらく、自分の能力に酔っちまってたんだろうぜ。なーにが『能力を手に入れたからって、調子乗っちまったタイプかよ』だ! 一番チョーシぶっこいてんのはテメーじゃねーかよってな!”

レイヴンは、戦闘前に『ラニウス』が言った言葉を使って、逆にこき下ろしてやる。
だが、悟はまだレイヴンの言葉に返答しない。

さすがにおかしいと思い始めたのか、レイヴンは少し冷静になった。
彼に尋ねる。

”おい…どうした?”

(…………)

悟の目が据わっている。
呼吸は整ってきたが、その視線はどこかぼんやりとしているようでもある。

やがてレイヴンは気づいた。

”あ…『ラニウス』の野郎がテンション上がり切ってるのと同じように、オマエも…!”

普通の現代人がそうであるように、悟もまた戦いとは無縁の生活を送ってきた。
しかも彼は、勝ち気でも強気でもない。

この数日間で、命の危機に陥ったことは何度もある。
ただ、自分から攻撃するということがこれまでなかった。

『ハト』との戦いは防戦一方だったし、『ククールス』との戦いでは彼が何もしないうちに相手が自滅した。
悟が自ら攻撃に打って出たのは、これが初めてなのである。

「……すぅ…はぁ」

悟の呼吸は完全に整ったが、意識はほとんど飛んでいた。
レイヴンが考えた通り、彼はテンションが上がり切って極度の興奮状態に陥っていた。

”お、おい! 起きろ、おい! まだ戦いは終わってねぇ!”

(………)

”起きろ、起きろバカ野郎! くそ、『アナザーフェイス状態』じゃなきゃ、つついてでも起こしてやるんだが…!”

(…………)

悟はレイヴンの呼びかけに応答せず、ぼんやりと『ラニウス』を見ている。
倒れていた『ラニウス』は、体を震わせながらゆっくりと起きようとしていた。

レイヴンは、それをあわてて悟に伝える。

”おい! 『ラニウス』の野郎が起きちまうぞ! しっかりしろ、起きやがれってんだ!”

(……)

”おいぃぃいいいいい! 起きろぉおおおお!!”

レイヴンは必死に叫ぶが、悟はまだ反応しない。
そうしている間に『ラニウス』は起き上がり、さらに立とうとしている。

敵は敵でこの状況が信じられないのか、うわごとのように何かを口走っていた。

「こんなこと…あるわけない、オレの必殺技が避けられるなんて、そんなバカな……」

生存本能なのか、それともスプレッダ『ラニウス』に叱咤されているのか、声を震わせながらもどうにか立ち上がろうとはしている。

悟から与えられたダメージはあるものの、意識がしっかりしているだけまだ『ラニウス』の方が軽症かもしれない。
今すぐには無理そうだが、攻撃に転じてくれば一気に逆転されてしまうだろう。

もちろんレイヴンにはそれがわかっている。
だから必死になって、悟に声をかけ続けている。

”起きろ、おいこら起きろ! しっかりしろ! 戻ってきやがれええええええ!”

(…………)

”なんなんだオマエ! あんだけうまく動けたんなら、普通だったらもっといい感じにやる気になるはずだろーがァ! なんでぼんやりしちまってんだカンベンしろォ!”

(………………)

レイヴンが叫んでも、ぼやいてみても悟はまだ反応しない。
この頃、ついに『ラニウス』は足を踏ん張り、しっかり立つにまで至った。

だがやはり、こちらはこちらで、まだ戦闘意欲を取り戻しているとはいえなかった。

「う、うぅ……!」

それまでの自信はどこへ消えたのか、うろたえた様子を隠しもしない。
震える声で悟を指差してこう言った。

「お、お前…! 失敗作のはずなのに、なんで避けるんだ…!」

「……!」

ここでようやく悟の意識が戻ってきた。
『ラニウス』が立っているのを見て、あわててレイヴンに尋ねる。

(…あ、あれ!? なにが起こった? おれちゃんと避けられた??)

”やっと戻ってきたかよバカ野郎! 避けるのはちゃんとできたし、反撃もいい感じに決まったぜ!”

(そ、そっか…でもアイツ、立ってる…? すごく固いヤツなのか?)

”いいや違う! オマエ、今まで意識が飛んでたんだよ…あっちはあっちで、オマエに反撃されると思わなかったからビビってやがるんだ”

(ビビッて…?)

悟は、自分でやっておきながら、何が起こったのかいまいちよくわかっていない。
ただ、レイヴンがそう言うならそうなんだろうと、なんとなく理解した。

そこへ、『ラニウス』の声が聞こえてくる。
敵の言葉は、悟に現状を理解しやすくしてくれた。

「こんな…こんなことが、起こるわけがない。オレは最強の力を手に入れたんだ、オレこそが最強なんだ…なのに、なんで」

「………」

悟は、理解が進むとともに心底驚いた。
まさか、自分がやったことで相手が自信を失うなど、予想もできなかった。

(ほ、ホントに…ビビッてるっぽい……おれ相手に…?)

”そうだ、オマエにヤツはビビッてる”

レイヴンは、悟にきっぱりと言う。
そしてこう続けた。

”今がチャンスだぜ…ヤツをボコボコにして、力を奪うんだ。二度と悪いことができねーようにな”

(悪いこと…あ!)

悟は思い出した。
『ラニウス』が、自分と戦う前にひとり能力者を殺していたことを。

そして同時に知る。
自分の前にいる殺人者が、自分を見て恐怖を抱いているということを。

その認識は、悟の中に奇妙な感覚を生む。

(………)

彼には、それをどう形容すればいいのかがわからない。
だが何か、幼い頃に似たようなものを感じた気がした。

そちらに意識を持っていかれそうになったが、ここでタイミングよくレイヴンの声が飛んでくる。

”さあ仕上げだぜ! いつまでもダラダラやってるわけにはいかねぇ! ヤツがビビッてるうちに決めちまうんだ!”

(う、うん、わかった!)

悟は、奇妙な感覚を無理やり心から払いのける。
そして目の前にいる『ラニウス』に、意識を集中させた。

(考えるのは後でもできる。今は…!)

”いい心がけだ!”

気持ちを切り替えた悟を、レイヴンは力強くほめた。
その後すぐに、これからすべき行動を彼に伝える。

”まずはヤツに一気に近づけ! 目の前まで行ったら、さっきと同じようにいきなり方向転換して、背中を蹴り飛ばしてやれ! それで多分、ヤツの心は折れる!”

(わ、わかった!)

”反撃してくるかもしれねーから、そこだけ気をつけろ! 振り上げた方の手と、同じ方向に避ければいい!”

(それもさっきと同じだよな! よし…!)

悟は好戦的な性格ではない。
圧倒的有利でも、ひとりであったならうまく立ち回ることができない可能性もある。

だが彼にはレイヴンがいた。
彼にとってレイヴンは、単なる異能の存在というわけではなかった。

それが、『ラニウス』との大きな差だったのかもしれない。

「…く、来るな…! 来るんじゃない、来たら殺してやるぞ…!」

悟のたった一度の反撃で、『ラニウス』は完全に自信を失っていた。
その特別な能力『屠殺の枝』は最強と疑っておらず、まさか破られるとも思っていなかった。

だが現実には、悟にあっさり避けられ、さらには反撃まで受けてしまった。
最初にレイヴンを失敗作だと侮ったのも、反撃を受けた衝撃を大きくしてしまったのかもしれない。

「ほ、本当に殺してやるぞ! さっきのヤツみたいに、殺してやるんだからな!」

「………」

声を荒げる『ラニウス』に対して、悟は何も返さない。
意識を脚へと飛ばし、足場を蹴るための力を溜める。

返答しない悟の姿が、『ラニウス』には驚異に映る。
悟とて余裕があるわけではないのだが、今は饒舌ではない性格がいい方向に出ていた。

(いくぞ…!)

悟は、自分の中にしっかりとした力の塊を感じる。
それとほぼ同時に、レイヴンが強く叫んだ。

”よし、今だ!”

(!)

その合図で、悟は足元のコンクリートを蹴る。
溜まった力は効果的に伝導され、2ミリほど足場を穿つ。

最初は『ラニウス』がしたように、今度は悟が低く跳躍した。
対して、『ラニウス』は近づいてくる悟に、恐怖で半狂乱になる。

「うわぁあああああ! く、く、来るなあああああああ!」

悟が向かってくるタイミングに合わせるでもなく、がむしゃらに右手を振り回す。
だが、能力の名を呼ばないせいか、指先から枝状のものが突き出すことはなかった。

あわてている相手を見ると逆に気持ちが落ち着くのか、悟はレイヴンとの打ち合わせ通りに『ラニウス』の目前で方向転換する。
その視界から姿を消し、背後から襲いかかった。

「ぃやああああああああああッ!」

悟は力の限りに叫び、『ラニウス』の背中を蹴り飛ばす。
力をしっかり溜める時間があった分だけ、その威力は増した。

「んなぁああっ!?」

『ラニウス』の体はボールよりも軽やかに飛び、コンクリートに一度、二度と叩きつけられた。
しかしそれでも勢いは死なず、その体はさらに飛ぶ。

「…あっ!?」

その行方を見て、悟は思わず声をあげた。
飛び続ける『ラニウス』の体は、戦いの舞台であるビルの屋上から飛び出してしまった。

だがそのまま落下するということはなく、薄い青の壁面に当たって屋上へと戻ってくる。
戻ってきた体はコンクリートに一度叩きつけられ、転がり、さらに数メートル滑走してから、ようやく止まった。

「……あ……」

全力で蹴り飛ばしたのは悟なのだが、その結果があまりに勢い良く、呆然としてしまう。
『スフィア』の壁に跳ね返って、自分のすぐ近くにまで『ラニウス』の体が戻ってきたことも、驚きに拍車をかけた。

「………」

悟は、体を少し左に傾けて、『ラニウス』の体を覗き込むようにして見る。
相手はぴくりとも動かない。

この時、突然『ラニウス』の頭部にあるモズの意匠が目を輝かせた。
直後、周囲に声が響く。

”決闘は終了。力の移動が行われます”
”決闘は終了。力の移動が行われます”

(…! これは!)

『ラニウス』からだけでなく、悟の頭部からも同じ言葉が聞こえてくる。
それは『スフィア』生成の時にも響いた、いつもとは口調が全く違うレイヴンの声だった。

声とともに薄い青のドームは消え、頂点にあったカラスとモズが合わさった彫像が悟の前に下りてくる。
彼の胸の前あたりでそれは止まり、モズの彫像のみが消えた。

その後、カラスのみとなった彫像は丸い光の球体になり、悟へとぶつかってくる。

「うっ!?」

悟は思わず目を閉じ、両手で自身をかばう。
しかし、痛みや衝撃といったものはなかった。

(あれ…? あ)

何も感じないことを不思議に思いながら目を開けると、『ラニウス』がいた場所にひとりの若者が倒れているのが見えた。

それは、『アナザーフェイス状態』が解除された『ラニウス』だった。
傍らには小さな鳥も倒れており、それがスプレッダ『ラニウス』だった。

モズの姿をしたスプレッダ『ラニウス』は、色を失いながら消えていった。

(あ…!)

”大丈夫だ、死んだわけじゃねぇ”

スプレッダ『ラニウス』が消えたことに驚く悟に、普段の口調に戻ったレイヴンが声をかけてきた。
悟の意識は、すぐにそちらへと移る。

(レイヴン…! もう、大丈夫…なのか?)

”あ? オレか? ああ…もう、いつも通りだ”

(そっか…いやよかったよ。なんか、全然レイヴンっぽい感じじゃなくなるから、ちょっとさ…)

”『スフィア』がからむ時だけは、ちょっと変わっちまうんだ。こればっかりはしょーがねぇ”

(うん…)

”それよりも、ちょっと背中意識してみな”

(背中?)

”早くしろ。『スフィア』が解けちまった今、誰か来てもおかしくねーんだ”

(あ、ああ、わかった)

レイヴンの口調が存外強かったので、悟は少しあわてた。
だがすぐに、言われた通りに背中を意識する。

すると…

(…あれ……?)

悟は、自分の背中から何かが伸びるような感覚を得た。
これまで得たことのない感覚に驚いているうちに、それは姿を見せる。

街の夜空よりも黒い、漆黒の翼。
それが、『アナザーフェイス状態』に変身した悟の背中から生えていた。

(こ、こ、これって…!?)

悟は、背中を見ようと顔を後ろへ向けようとする。
だが当然ながら、人間が鏡もなしに、自身の目で背中全体を見渡すことはできない。

しかし、漆黒の翼は彼の肩幅よりも大きく広がっているのもあり、横を見ようとすればその存在を見ることはできた。

そう、悟は見ることができた。
『アナザーフェイス状態』だとはいえ、自分の背中に生えた翼を見ることができたのだ。

そしてそれがどういうことを示すのか。
レイヴンは、悟にそっと告げた。

”これで、オレたちも『レベル2』だ”

(『レベル2』…!)

”そうだ。いろいろ誤算もあったが、『ハト』の野郎ととりあえずは互角…オマエの気分次第で、空だって飛べるんだぜ”

(そ、空を…飛べる!?)

”っていうか、飛んで逃げた方が良さそうだ”

(えっ?)

”耳をすませてみろ”

(……?)

レイヴンに言われ、悟は素直に従う。
すると、非常階段ではなく通常の階段がある辺りから、足音が響いてくるのがわかった。

(だ、誰か来る!?)

”『ラニウス』たちが非常階段のカギを壊したのに、ここの持ち主が気づいたんだろ”

(ど、どうしよう…あ、それで飛んで逃げるのか?)

”そういうことだ。飛び方はオレが知ってるから、オマエは飛びたいって意志を保つだけで自由に飛べる。さあ、行くぜ!”

(あ、う、うん!)

戸惑いはあったが、『アナザーフェイス状態』になった上に翼まで生やした姿を見つけられては、どんな騒ぎになるかわかったものではない。

悟は無我夢中で、ビルの屋上から飛んだ。

「うう…!」

飛ぶ時の恐怖で大声をあげてしまわないように、悟は両手を自分の口元に当てる。
だが、彼が思ったよりあっけなく体は夜空に浮いた。

(あれ…?)

”さっさと帰るぜ! 家に近づいてくる連中を見つけるには『レベル3』にならなきゃならねぇ…明日から忙しくなるんだからな!”

(そ、そうだな…うん、早く帰ろう!)

レイヴンの言葉に、悟は気を取り直す。
まずは屋上にやってくる人々の目から逃れるため、ビルから離れた。

(えっと、家はどっちの方角だっけ…)

ビルから30メートルほど離れたところで、悟は動きを止める。
背中の翼は自然と動き、彼を空中に留めていてくれる。

そこにも特別な意識は必要なかった。
ゆっくりと体ごと周囲を見回す時も、いつも通り『周りを見たい』と思いながら体を動かす感覚を体に走らせるだけでいい。

”あっちだな、右手の方角だ”

(あっちか)

レイヴンに方向を指示され、悟はそちらに体を向ける。
そして、家へ向かって飛び立った。

(これは…すごいな!)

飛んでいる間、地面に向かって引っ張られる力を感じない。
飛ぶ速度を上げてみても、ジェットコースターのように体が何かに押し付けられるような感覚も、内臓が動く気持ち悪さもない。

あるのは、圧倒的な見晴らしと風を切る気持ちよさだった。
『レベル2』になった悟は、空を飛ぶことの爽快感を満喫しながら、家へと向かっていく。

(おれ…空を飛んでる! 本当に、飛んでるんだな!)

”ああ、飛んでるぜ。だがもう少し高度を上げた方がいいな”

(え、なんで?)

”下にいる連中に見つかると変身が解けちまうからな。変身が解けりゃ、翼もなくなってこのまま墜落だ”

(う、うわぁ!?)

レイヴンの言葉に、悟の浮かれ気分は吹き飛ぶ。
すぐに、言われた通りに高度を上げた。

素直な悟の行動に、レイヴンは思わず笑う。

”ハハハハッ、いい心がけだ! 飛ぶ時はできるだけ高度を高く保つ。これがコツだ、忘れんなよ!”

(わかった…うん)

悟はゆっくりとうなずいた。
だがすぐに、その目は足下の夜景へと向かう。

上空から見る夏の夜は、悟が思ってもいないほど明るく華やかだった。
その光に目を奪われながら、彼は生まれて初めての『自力』飛行を、家に帰るまで楽しむのだった。


>Act.20へ続く

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