Act.20 戻る記憶は人の境界 | 魔人の記

Act.20 戻る記憶は人の境界

Act.20 戻る記憶は人の境界


悟は、家から少し離れた場所に下りた。
そこは街灯の切れ間であり、小さな闇がある。

”よし、問題ねーな。じゃあ解除すんぞ”

(うん)

レイヴンの言葉に悟はうなずき、『アナザーフェイス状態』が解除される。
小さな闇の中に、悟と彼の頭上に乗ったレイヴンが姿を現した。

”じゃあ、オレは先に帰ってるぜ”

(わかった)

短い言葉を交わした後で、ふたりは別行動をとる。
レイヴンは悟の頭から飛び立ち、悟は家に向かって歩き始めた。

「……」

『ラニウス』との戦いは終わった。
長かったような短かったような、不思議な感覚が悟の中にある。

この数日、夜の気温は熱帯夜と呼ばれる高さを維持している。
だがその蒸し暑さも、戦いの後に巻き起こった感覚を薄めることはできない。

(勝った…おれが、勝ったんだ)

歩きながら、悟は自分が勝利したことを思い返す。
左手を握り込んでみると、いつの間にか震えていたのがわかる。

拳に変えた手を、目の前に持ってきた。

(おれがレイヴンと戦って、勝った…)

悟にとって、それはほとんど経験したことのない感覚だった。
しかも勉学やスポーツなどではなく、戦闘で勝ったということが、強烈な経験として彼の中にある。

左手はさらに震えた。
震えの幅が大きくなった。

手の甲と前腕に力がかかり、彼はそこで自分が強く手を握りすぎていたことに気づく。

(早く、帰らないと…)

意識して左手の力を抜く。
それを下ろし、歩くことに集中しようとした。

だが、勝利の感覚は胸の奥からそう簡単には抜けてくれない。
歩くことに意識を向けると、その感覚が自然と足の運びを速くする。

(おれが…おれが、勝った。おれが、相手を蹴っ飛ばして……!)

思い返してみれば、数メートルを軽々と跳躍した感覚も鮮烈だった。
『アナザーフェイス状態』になった彼の体は、思った通りに動いた。

どのタイミングで、どちらの脚を上げ、どう体勢を維持して体重を乗せるのか。
そんなことをいちいち考える必要はなかった。

しかもそれは、鍛錬を積み重ねた果てに会得したものではない。
戦いの中で『そうしなければ』と思っただけに過ぎない。

だというのに、相手が軽々と吹っ飛ぶほどの跳び蹴りを、悟は放つことができた。
しかも一度ならず二度までも。

(こんなこと、あるんだな…おれが誰かに勝つ、なんてことが……!)

これまで、特に秀でたものが自分にあるとは思わなかったし、それを見つける努力をした覚えもない。
人並みに友だちはいたが、持ち上げられたり、多数の異性から好意を持たれたということもない。

学生生活から卒業してからは、自分の能力が悪い方に働くせいもあって、就職活動がまったくうまくいかない。
悟の人生に、華々しさや強い充実感というものはあまりなかった。

だが、今はちがう。
戦いが終わって、レイヴンと離れてひとりになって初めて、彼はじわじわと快感が強まっているのに気づいた。

その奥にあるもの。
彼の意識がふと、そちらへ向かった。

(…そういえば…戦ってる間も、なんか……こんなことあったような、って気が…)

物心ついてから、勝利の美酒を満喫した記憶はあまりない。
だが、それにも関わらず今と似たような感覚を得たことがある気がしていた。

(なんだっけ……確か、『ラニウス』がおれなんかにビビッてるっていうのが、わかった時だったような……)

それは奇妙な感覚。
はっきりとはしないが、幼い頃に感じたような気がするもの。

悟は、それがなんだっただろうかと考えた。
早足だった歩みが、少しだけ遅くなる。

と、視界に何かひらひらしたものが目に入った。

「…ん?」

そちらに気を取られる。
見ると、街灯の明かりに蛾が引き寄せられているのがわかった。

ひらひらしたものというのは、蛾の羽根だったらしい。
それに気づいた時だった。

「……!?」

悟の中に、映像が浮かび上がる。
それは、彼が見つけ出そうとした奇妙な感覚の正体。

(あ…!)

彼は思い出した。
奇妙な感覚の正体は、忘れ去られていた記憶の中にあった。

幼い頃、ひとりで空き地のような場所にいた時のことだ。

彼はボールを持っていた。
小さく固く、重いボールだった。

それは硬式野球用のボールだった。
当時、一緒に遊んでいた友だちのものだった。

彼は、壊れて低くなったブロック塀を椅子代わりにして、地面を見ながらボールを何度か落としていた。
ボールの落下地点を、じっと見つめていた。

(思い出した……!)

彼がボールを落としていたその場所には、アリが1匹いた。
固くて重いボールが、アリの背に落とされていた。

アリはボールの重みで傷つき続ける。
しかしその外殻のせいで致命傷には至らない。

だが痛みはあるのか、アリは逃げ回る。
幼い悟は、アリがどこへ逃げるのかを予測して、ボールを落とし続けていた。

やがて、友だちが離れた場所から彼に声をかける。
その声を聞いた彼は、ボールを手に持って立ち上がった。

友だちのもとへ向かおうとしたその時、一瞬だけ足元を見る。
傷を負ったアリが、瀕死のアリ特有の素早い動きで悟から離れようとしていた。

無邪気な笑顔は、まったく歪むことなくそれを見つめる。
小さな足が、逃げようとしていたアリを踏み潰した。

足をどけると、そこには動けなくなったアリがいた。
それでもどうにか逃げようと、脚を震わせていた。

幼い悟は、さらに笑う。
その小さな足に全体重を乗せて、文字通り虫の息となったアリへ下ろした。

足が接地した直後、足首を使って踏みにじることさえした。
踏みにじったあとで、彼は足を上げる。

アリは、完全に動かなくなった。
踏みにじったものが死んだのを確認した彼は、満足げに微笑む。

そして、罪の意識など欠片も感じないまま、自分を呼んだ友だちのもとへと走っていく。
友だちと楽しく遊び始めるところで、思い出された記憶は終了した。

(…あの、感覚……だったんだ)

悟は、奇妙な感覚の正体を完全に認識した。
自分が死の淵に追いやって殺したアリの姿と、自分に恐怖していた『ラニウス』の姿とが重なったのだと理解した。

無邪気であるが故の残虐。
それは、勝利の美酒に酔いしれつつあった彼を、暗い気持ちにさせる。

(……別に博愛主義者ってわけじゃない…けど、やっぱりひどいことしたよな)

暗い気持ちにはなるが、そこまで強い罪の意識があるわけではない。
幼い頃に、おもしろおかしく他の命を弄んだことは、大なり小なり誰にでもある。

それでも暗い気持ちになるのは、理性や良心といったものが、残虐な無邪気さを超えた次元で彼の中に根付いているからだった。

ただそれは彼だけが持つものではない。
普通の人間なら、誰でも持っている感覚だった。

(今さらわざわざあんなことしようとは思わない…けど、少しだけ同じ感覚になってたかもしれない、ってこと……だよな)

自分に対して、恐怖を隠しきれなくなった『ラニウス』の姿。
今思い返してみれば、それはとても気分のいいものだった。

就職活動がうまくいかず、自分の人生は不自由だと彼は思い続けていた。
そんな自分が、他人を、しかも明らかに自分より気が強そうな他人を、恐怖させることができた。

胸のすく感覚がないといえば、嘘になる。

「……」

彼は立ち止まる。
ゆっくりと、首を横に振った。

(…きっと、ダメなんだ)

自分の中にある、快感ともいえるものを彼は否定した。

(他の…なんていうか、ゲームとかスポーツみたいな、そういう競争だったらきっといいと思うんだ。こういう気持ちになっても。だけど、おれが今感じてるのは…あまりに『そのまま』すぎる)

幼い頃に、自分が踏みにじったアリの命。
彼が今感じているものは、それに直結してしまう可能性がある。

そして、命を踏みにじることに直結する、と彼自身が意識した瞬間。
その気持ちが、新たな映像を連想させる。

踏みにじられたアリは、別の何かに姿を変えた。
それは、『ラニウス』が悟と戦う前に殺していた、別の能力者。

「…うっ!?」

自らが連想して生み出した映像に、彼は吐き気を覚えた。
あわてて両手で口を押さえる。

そしてすぐに走り出した。

(やっぱり、ダメなんだ…!)

悟は、可能な限り速く走った。
家に着くと、左手で口を押さえたまま右手でカギを開ける。

戸を開けて玄関へ入り、乱暴に戸を閉める。
靴も脱ぎ散らかして上がり込み、トイレに直行した。

トイレのドアを閉めるべきだったと気づいたのは、彼が便器に顔を突っ込んだ後だった。

(…あの感覚を、追いかけちゃダメだ……!)

悟は激しく吐いた。
吐きながら、強くそう思った。

自身に言い聞かせるというわけではない。
こうするのだと宣言するわけでもない。

ただ、そうしてはいけないのだと強く思った。
追いかけてしまえば、何か大事なものを失う気がした。

(おれは強くもないし、要領もよくない…あの感覚を追いかければ、気が楽になるだろうし…少なくともこの戦いでは強くなることができるかもしれない……だけど!)

嘔吐の苦しみにまみれる。
この苦しみも、あの無邪気さを追いかければなくなっていくのかもしれない。

なんとなく、悟もそれは理解している。
だがそれでも、彼は否定した。

(きっと『そっちに行っちゃ』いけない……!)

彼は5分ほど嘔吐し続けた。
だが、この日は食事量がかなり少なかったため、吐瀉物はほとんどない。

吐くものがない嘔吐ほど、苦しいものはない。
涙も鼻水も唾液も胃液も垂れ流しながら、彼はそれでも否定し続けた。

(こういうことで、きっと…ラクになっちゃ……いけないんだ…!)

それからしばらくして、ようやく体内の痙攣がおさまってきた。
便器の前に座り込んでいると、その背後に祖母のハナがやってくる。

「…うるさいねぇ……今何時だと思ってるんだい」

「はあ、はあ…」

悟はハナに返答できない。
それどころか、後ろを振り返ることさえできない。

そんな彼に、ハナは冷たく言った。

「まったくこの子は、どっかで悪いモンでも食ったのかねぇ? あーやだやだ! なに食ったってかまやしないけど、アタシが寝てるのを邪魔すんじゃないよ」

「…はあ、はあ、はあ……」

「返事もできないのかい。まったくどうしようもないね…」

ハナはあきれた様子でそう言った。
そしてそのまま去っていく。

苦しそうにしている悟を気遣うとか、背中をさすってやるとか、そういうことはしなかった。
彼女はただ文句を言い、ただ去っていった。

悟は、そんな彼女の態度になぜか安堵する。

(はは…ばあちゃん、相変わらずだな)

ハナが相変わらずでいるということ。
それは、悟の住所を知る能力者が、襲撃してきていないことの証明だった。

少なくとも彼女は無事だった。
悟にとっては、それだけでよかった。

それからさらに10分ほど経ち、彼はようやく動けるようになった。
便器を軽く掃除して水を流し、ふらふらした足取りでトイレを出る。

洗面所に行き、洗口液で口をすすいだ。
歯も磨こうかと思ったが、とにかく今は早く横になりたかった。

洗口液で口内の清涼感は得られたので、今夜のところはそれで良しとした。
壁に手をつきながら歩き、這うように階段を上がって部屋へと戻る。

ドアを開けると、先に戻っていたレイヴンが、机の上から彼をじっと見た。
部屋の中に入ってドアを閉めた悟は、彼に力のない笑顔を送る。

そしてベッドへ倒れ込んだ。
うつぶせになった悟の背中に、レイヴンはすぐさま飛び乗る。

”お、おい! 大丈夫かよ!?”

(はは…ごめん、レイヴン……待った?)

”待った、っつーか…オマエ……吐いたのか”

レイヴンは、悟と接触したことで彼の体に何が起こったのかを把握したようだ。
悟も、それを隠すことなく彼にこう告げる。

(思い出したんだよ……『ラニウス』が、おれを見てビビった時に感じた…もの)

”ああ、そうかよ! 今は無理して話さなくていい! とにかく寝ろ!”

レイヴンは、とにかく悟を寝かせるべきだと判断した。
だが悟はそれに従わず、彼に自分が思ったことを伝え続ける。

(きっとおれは…『あっち』には、行けない……行っちゃいけないって、思ったんだよ…)

”わかった! わかったからもう寝ろ! 詳しい話はまた明日だ、明日!”

(はは…おれ、きっと……弱いまんまだと…思う……ごめん、な? レイヴン………)

”なに言ってんだ、オマエは『ラニウス』に勝ったじゃねー……か”

レイヴンが言葉を伝えようとしている間に、悟の意識は飛んだ。
それに気づいたレイヴンは、彼を起こさないように語尾を弱める。

「…すぅ……すぅ………」

「………」

寝入った悟の顔を、レイヴンは見つめている。
突っ伏す形でベッドに倒れ込んだため、頭の重みとマットレスとの板挟みで頬が口元を圧迫している。

それは美しい寝顔とは程遠いものだった。
ただ、その寝顔はどこか満足げだった。

レイヴンは一度ため息をつき、その後で脚を曲げて座る。
悟の背中の上で、彼もまたゆっくりと目を閉じるのだった。


>Act.21へ続く

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