Act.16 極まれる下衆の刹那 | 魔人の記

Act.16 極まれる下衆の刹那

Act.16 極まれる下衆の刹那


「あ、あ、あの…」

悟の声は震えていた。
彼は暗い場所にいた。

ビジネスホテルを出て家を帰るはずが、その近くへと連れ戻される格好になっていた。

彼は一体誰に連れ戻されたのか?
その張本人は、軽やかな口調で語る。

「なんだおい、そんなにビビらなくてもいいんだぜ? 話を聞かせてもらいたいだけなんだよ」

悟の前には、細身の男がいた。
背は高く、灰色のジャケットとスラックスを身に着けている。

中のシャツは白く、ネクタイはしていない。
無精ひげのある顔は、しかし汚らしい印象はなかった。

男は、帰ろうとしていた悟に警察手帳を見せ、この場所に連れてきた。

雑居ビル2つの間にある狭い空間。
悟を奥側へ押し込めるようにし、男は彼の逃げ道をふさぐ位置に立っている。

男はやれやれと首を左右に振りながら、半笑いでこう言った。

「病院から連絡があってな…あのクソガキ、また勝手に入院したらしいじゃないか」

「…え…」

「まったく、ガキってのはどこまでも親に迷惑をかけやがる…しかもどんどんバカ女に似てくるし、たまったもんじゃないよなぁ?」

「………」

男に問いかけられているようだが、悟は反応しない。
はいそうですか、とは言えない。

男も悟の反応はどうでもいいのか、話を先へ進める。

「余裕がないわけじゃない。バカ女の実家から、金はたんまりせしめてるからな…だが、せっかくもらった金が、自分以外の要因で減っていくってのが…俺には我慢ならないんだよ」

「……」

「だが世間体ってモンもある。クソガキがらみであまり騒がれると、俺としてもおいしくない。だから、何が起こったのかちょっと調べようと思ったわけだ」

男はそう言って、ジャケットの内ポケットに手を入れた。
そしてすぐに出す。

「…!」

悟は、実物を初めて見た。
男の手には、拳銃が握られている。

ためらいの欠片もなく、男は悟に拳銃を出してみせた。
それはどちらかというと、見せびらかしているという方が正しいのかもしれない。

「調べるのはな、それなりに得意だ…一応仕事にもしてるわけだしな」

「…う…」

悟には拳銃の構造はよくわからない。
そもそも拳銃自体、彼は映画やテレビでしか見たことがない。

そんなものをいじっている様子を見て、平時と同じ神経ではいられるわけがなかった。
手つきがやけに淡々としているのが余計に、『本物』だということを強く認識させる。

男は、ある程度拳銃をいじった後で、その銃口を悟に向けた。
それと同時に言う。

「あんなクソガキでも、同じ家に住んでいる人間という意味では家族だ。家族に何かあれば、まず家に行ってみようと思うのは自然な心理」

「……」

「だが、俺が家に帰ってみると、見知らぬ誰かさんが勝手に上がり込んでいくのが見えた。すぐに出てきたが、そりゃおまえ…気になって後を追うだろ?」

「……う、うぅ」

「そしたらここらのホテルに入ってった。なるほど、このあたりに住んでる人間じゃないってわけだ…じゃあ、チェックアウトしそうな時間を狙って待ってれば、きっと出てくる」

「…!」

(ま、待ち伏せされてたのか…!?)

悟はまったく気づかなかった。
レイヴンからの報告もなかったところからすると、彼も気づかなかったのだろう。

驚いた悟の顔を見て、男は小さく笑う。

「まさか、って顔だな? まあ、そう簡単に気づかれちゃ、こっちも商売あがったりだからな」

「……」

「えーっと、どこまで話したっけな…ああ、チェックアウトの時間を狙えばいいってとこまで言ったか」

男はそう言って、銃口を下へ向けた。

「あとは、ホテルから出てきたおまえを尾行すればいいって寸法だ。もう少し泳がせておきたかったが、急いでる様子だったからな…万が一高飛びでもされちゃ困る」

「………」

「だから、あそこで呼び止めさせてもらった…ってわけだ」

悟には焦る気持ちがあった。
自分が『ククールス』の女にスマートフォンを勝手に返してしまったため、祖母のハナが危険に陥るかもしれないと考えていた。

レイヴンからは、その可能性は低いと言われている。
だが素直な心情として、彼はハナが心配だった。

その気持ちと、自分が勝手なことをしてしまったという自責の念が入り混じり、彼は焦りを感じていた。
ただ、それは隠せているものと自分では思っていた。

(…家までついてこられる前に、声をかけられたのは…運が良かったってことなのか……?)

そう思う悟の目には、男の拳銃が映っている。
今は銃口が下を向いているが、本物の拳銃を前にして気持ちが波立たないわけがない。

その銃口が、ゆっくりと上がる。
再び、悟へと向けられた。

「う…!」

「さあ、俺の事情は大体話したぜ。次はあんただ、お兄ちゃん」

「……」

「あのクソガキ、可恋とどういう関係なのか、話してもらおうか」

男は銃口を悟に向けたまま、一歩だけ近づく。
その距離は5メートルもない。

悟は右手にカバン、左手にビニール袋を持っている。
カバンにはスプレッダ『ククールス』が、ビニール袋にはレイヴンが入っている。

(ど、どうすれば…!)

レイヴンはビニール袋から出てこない。
そのことが、悟にあることを感じさせている。

男は警察の人間であり、そんな人間に『アナザーフェイス状態』を見せるわけにはいかないということだ。

今は家族に手を出した人間としてしか認識されていないようだが、悟が普通とはちがう力を手にしているとわかれば、別の意味で『警察という公権力』に追われることになる。

(警察に目をつけられたら、『ハト』が来るかもしれないなんてレベルじゃなくなる…!)

悟も、それなりにさまざまな物語を読んだり観たりしてきた。
警察という巨大な組織に追われた者が、どういう結末をたどるのか知らないわけではない。

彼が観てきたものはフィクションでしかないが、現実とそれほど大きな差があるとは思えなかった。

(どうすればいいんだ…!?)

戦うこともできず、かといって事情を説明することもできない。
しかも銃口を向けられていることがそもそも恐ろしい。

大きなストレスが、悟を蝕んでいる。

「……んー…?」

だが、男は悟を見失わなかった。
しばらく沈黙の時間が訪れても、おどけた様子で首をかしげてみせるだけだった。

「どうした、口がきけないってわけじゃないんだろ?」

「………」

「…ああ」

男はここで何かに気づいた。
悟に向けていた銃口を下に向ける。

「なるほど、思ったより修羅場には慣れてないってわけだ。用心のために銃まで出したが、それはちょっとやりすぎだったようだな」

そう言って、男は拳銃を内ポケットにしまった。
そして何気ない様子で、悟に近づいてくる。

「俺をナメてるわけじゃないようだが…」

男は、悟のすぐ前にまでやってくる。
一度じっくりと顔を眺めた後で、その左手が素早く動いた。

「…うぐっ!?」

悟は、腹部に強烈な衝撃を受ける。
男は突然、彼の腹を左拳で殴った。

悟の体が『く』の字に折れる。
それを見ながら、男は特に変わった様子もなくこう言った。

「質問には答えてもらいたいな」

「う、うぐ…」

「なあ、おい」

頭の位置が下がった悟の髪を、男は乱暴につかむ。
そして無理やり顔を上げさせて、自分の方を向かせた。

「おまえ、可恋のなんなんだ? 恋人か? セフレか?」

「…うぅ…う」

悟は、苦しみながら首を横に振る。
男はさらに尋ねてきた。

「あのクソガキから金をもらったか?」

「……」

悟は、もう一度首を横に振った。
それを見て、男の表情が明るくなる。

「そうかそうか…! つまりおまえは、可恋の彼氏でもないし、カネ目当てに近づいてきたヤツでもないってわけだ」

「………」

「だったら余計、なんなのかわかんないな?」

男はそう言うが早いか、今度は左足で悟の腹を蹴った。
悟の両手から力が抜けて、カバンとビニール袋が地面に落ちる。

「う、う…」

悟はすぐに、両手で腹をかばった。
本当はうずくまりたいのだが、髪を引っ張られているためにそれができない。

男は、苦しげな悟の顔をニヤニヤと覗き込む。

「教えてくれないか? おまえは何者で、あのクソガキとどういう関係で、俺の家になんで入り込んだのか」

「く、うぅ…」

「教えてくれなきゃ、勝手に調べるだけだが…そうなるとおまえも困るんじゃないか? 家族とかいるんだろ、ん?」

「…え……!」

「家族に俺が言ってやらなきゃならない。『おたくの息子さんは刑事の家に黙って上がり込みました。もしかしたら反社会的勢力とつながりがあるかもしれません』…」

「……!」

「しかもそういうことを、白昼堂々、声を大にして言わなきゃならないなあ。ご近所にもまんべんなく知られることだろうさ。おまえはともかく、家族はたまらないだろうなあ?」

「…ちょ、げほっ、ちょっと…まって……!」

「んん? なんだ、話す気になったのか?」

「家は…家族に迷惑をかけるのは…げほっ」

悟は、腹へのダメージがまだ取れないために、男に懇願している間にも咳が出る。
その時に飛んだ唾が、男の顔に付着した。

「…おいおいおい…!」

男は静かに怒りの声を出す。

「せっかく穏便に解決してやろうと思ってる俺に、ツバを吐くとは…やるねぇ、おまえ」

「…えっ?」

「なかなか骨のあるヤツなのか、な?」

「ぐぇっ!?」

男は、悟が両手でかばっている上から腹をさらに蹴った。
同時に彼の髪から手を放す。

悟は蹴られた勢いに流され、バランスを失って転んだ。
そこへ、男はゆっくりと近づいていく。

すぐに立てない悟のそばにしゃがみ込んだ。

「…俺としては別にどっちでもいい…できればラクな方を取りたい」

「うっ、ううっ…」

「おまえが何者なのか、スッキリハッキリ言ってくれれば、俺もそれなりにどう判断するか決められる。でも何も言わないってのは、なかなかフェアじゃないな」

「………」

「…まあ、言わなくても住所くらいは調べられるが」

男はそう言って立ち上がる。
くるりと後ろを向き、地面に転がったカバンへ近づこうとした。

「ちょっ…!」

悟は思わず、痛みも忘れて男の右脚にすがりつく。
カバンを男に開けさせるわけにはいかなかった。

中にはスプレッダ『ククールス』が入っている。
男が開けた瞬間、それはすぐに逃げ出してしまう。

それはいわば『人質』である。
もし逃がすようなことがあれば、女…横嶋 可恋は、悠々と『ハト』に悟の住所を教えることだろう。

それだけは防がなければならない。
絶対に、防がなければならなかった。

「おっ…どうした、いきなり元気になったな?」

それまでただ怯えていただけの悟が急に、反撃に近い行動を取ったこと。
それに男は興味を持った。

カバンへ近づくのをやめ、すがりつく悟の頭に左足を乗せる。

「カバンの中に、どうしても見せられないものが入ってるようだな…ああそうか、おまえもしかしてシャブ中か? クソガキにクスリ売ろうとしてたのか」

「ち、ちがう…!」

「どうせなら、もっと穏やかに死ぬクスリを売ってもらいたいもんだね。刑事の娘がシャブ中ってのは、ちょっとセンセーショナルすぎるからさ」

「そんなの持ってない…!」

「持ってない? いいやおまえは持ってるんだよ」

男はそう言って、スラックスのポケットから小さな袋を取り出す。
透明な袋の中には、白い粉が入っている。

「え…!?」

悟はそれを見て驚愕する。
この流れで『持っている』と言われれば、その粉が何なのか彼にもわかる。

男はそれを証明するように、ニヤリと笑いながら彼にこう言った。

「おまえは怪しいクスリを『持っている』…これは倉庫からちょろまかしたヤツだが、それがまさかこんなところに『ある』なんて、なあ?」

「な、な…??」

「倉庫にあるはずの証拠品と、今ここにあるコレ…同じものだなんて一体誰が証言できる? 少なくとも、おまえには証言できない。したところで、誰も信用しない」

(こ、こんな…こんなことが……!)

悟は、全身から血の気が引いた。
こんなことが実際にあるのかと、こんな人間が本当にいるのかと、心の底から驚いた。

彼の中で、警察の人間といえば犯罪を取り締まる側の存在である。
ニュースなどで不祥事を見たことはあるが、あれは一部の話だと思っていた。

だがその『一部』が、まさか自分の目の前にいて、実際に不祥事そのものを繰り広げられるとは夢にも思わない。
ある意味では、『ハト』や『ククールス』以上に驚くべきことだった。

男は、勝ち誇った顔でさらに続ける。

「俺はな、これをおまえのカバンに入れる必要さえないんだよ。俺が『おまえのカバンからこれを見つけた』と言えば、それでおまえは終わり。おまえの人生は終わるんだ」

「………!」

「言うまでもなく、おまえの家族も終わる。冤罪だとわめいてみたって、完全にその嫌疑が晴れることはないんだよ。なぜなら…」

男はそう言いながら、悟の頭から左足をどける。
そのあとでゆっくりとしゃがんだ。

右脚にすがりついている悟に、そっと微笑む。

「人間ってのはな、敵を見つけて安心したいんだ。その敵をみんなでいじめて、安心したいんだよ」

「え…」

「それによって、単調な毎日に刺激が生まれる。みんなでよってたかって、抵抗できないヤツをいじめるのは楽しい。最高の娯楽ってヤツだ。生きてる実感が湧くってもんさ」

「………」

「だからみんな、いつでも探してる。次の生贄は誰なんだろう? 早くいじめさせろ! って具合さ。ワイドショーや週刊誌がいつまでたってもなくならない理由だよ…みんな誰かをいじめたいのさ。だから冤罪の嫌疑は、永遠に晴れることはないんだ」

「な、なにを…?」

「そしておまえもみんなの生贄になる。もう、おまえが何者かなんてどうでもよくなってきたしな」

男はそう言って、袋をスラックスのポケットに戻す。
その後で、別のポケットからスマートフォンを取り出した。

「あとはこれで、俺が署に連絡するだけでいい」

「…え、ちょっと…!?」

「クソガキから金をむしろうってんじゃなきゃ、見逃してやってもよかったんだが…おまえ、なんか別の意味で怪しいんだよな」

「ま、まっ…」

「あのクソガキに関わったのが運の尽きってことだ。あきらめるといい」

男はにっこりと優しい笑顔を見せた。
だがその言葉は、悟にとって社会的な死刑宣告に他ならない。

(…こ、このままじゃ…!)

悟が見ている間にも、男はスマートフォンを操作しようとしている。
もはや会話をする余地もない。

しかし、だからといってどうすればいいのか。
悟自身は尋常ではないストレスを感じているにも関わらず、その存在が男の認識から外れるということが起こっていない。

残された手段は『アナザーフェイス状態』への変身だが、それをしてしまえばこの男に『自分は異能の者である』と教えることになってしまう。

その事実を警察組織に持ち帰られてしまえば、悟とハナは警察にマークされることになるかもしれない。
いや、警察以上の組織が出てくる可能性さえある。

変身した上で、異能の事実を持ち帰られないようにするには、この男を殺すしかなくなってくるのだが…

(どうすれば…どうすればいいんだ……!?)

自分を殺そうとした横嶋 可恋にさえ同情してしまう悟に、そんな発想を期待する方が酷というものである。
レイヴンがいまだ出てこないのも、それらをすべて考えた上でのことだった。

しかしそうなると、ますます悟が講じることのできる手段がなくなってしまう。
男の指はスマートフォンに何度か触れ、もはや通話開始は避けられない。

「…ああ、俺だ。横嶋だが…」

そんな男の言葉が聞こえた時、悟はついに観念した。
まぶたを閉じ、力なく心でつぶやく。

(終わった…)

その直後だった。


「まったく、同じ能力者とは思えんな」


すぐそばで声が聞こえた。
同時に体が強く引き上げられる。

「えっ!?」

悟は思わずまぶたを開いた。
それまですがりついていたはずの、男の右脚がない。

体の下にあったはずの地面がない。

「ひっ、ひぃいっ!?」

彼は、叫ぶよりも前に引きつるような声を出した。
自分がどこにいるのか、彼は理解したのだ。

それは上空100メートル。
足下に広がるのは、それまではいつくばっていた街の風景。

(な、な…!?)

何が起こったのか、彼にはまったくわからない。
あまりのことに呆然としていると、背後なのか頭上なのか、そのあたりで声が聞こえた。

「今回は特別だ」

聞いたことのない声だった。
若い男の声だった。

声が聞こえたと思った瞬間、悟は自宅の前に立っていた。

「…え?」

何が起こったのか、まったく理解できなかった。

驚きに呆然としかけた時、両手に重さを感じる。
そちらを見ると、自分がカバンとビニール袋を持っているのがわかった。

それからすぐに後ろを振り返り、頭上を見る。
だがそこには誰もいない。

「……え!?」

ぐるりと周囲を見回してみても、誰もいない。
驚愕している悟の中に、レイヴンの声が流れ込んでくる。

”…別の、能力者…みてーだ”

「!」

悟は、反射的にビニール袋の方を見た。
たたんだスーツの間から、レイヴンの翼がのぞいているのが見える。

それが悟の手に触れていた。
レイヴンからの接触によって声が聞こえていた。

今では日常となったその『仕組み』を思い出すと同時に、悟は彼にあわてて尋ねる。

(別の能力者、って…!?)

”『ハト』や『ククールス』じゃねぇ。誰なのかはオレにもわかんなかったが、少なくとも『レベル3』以上の存在だ”

(『レベル3』?)

”ああ。同じ能力者がどこにいるかわかる…それが『レベル3』だ。だが…まさか、オレらを助けるヤツがいるとは…”

(レイヴンも、知らない…ヤツ、なのか)

”……とにかく中に入れ。いろいろ整理しなきゃ、オレもさすがに頭パンクしそうだ”

(あ、ああ…そうだな……)

悟は、レイヴンに促される形で自宅のカギを開ける。
戸を開けると、すぐにどたどたと廊下を走る音が聞こえてきた。

「おお、悟! 会社のおえらいさんとの話、どうだったんだい!?」

祖母のハナが、待ちきれないとばかりに悟に尋ねてきた。
彼女は、悟がとっさについた嘘を今も信じているようだった。

だが、今の悟にはそのことに対して、まともに返答することができなかった。

「…ごめん、ばあちゃん…その話はあとで……」

「え? なんだい、ダメだったのかい? まったくお前はしょうのない…」

「ごめん…」

「これ、悟…!」

怒ろうとしたハナのそばを、悟はするりと通り過ぎてしまう。
その行動があまりに自然だったせいか、ハナは怒りの勢いを大きく削られてしまった。

ハナの怒りから逃れた悟は、2階にある自分の部屋へと戻る。
そしてカバンとビニール袋を下に置くために、体を少しだけかがめた。

「…うっ」

男に殴られ、蹴られた腹が痛む。
その痛みは、これまでのことが確かに現実だと彼に強く認識させる。

「………」

本当にあったことなのだとあらためて思うとともに、これからどうすべきなのかを考える。
だが、彼が現状を正しく認識するには、材料があまりにも少なすぎた。

(なにがどうなってて、どうすればいいんだか…)

途方に暮れるとはまさにこのことだった。
彼は部屋のベッドに座るとすぐに、そのまま横にごろりと転がる。

だが、まぶたを閉じることはなかった。
すぐそばにやってきたレイヴンも、しばらくは何も言わずに彼の左腕に乗っているだけだった。


>Act.17へ続く

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