Act.17 告白が識らせる火急
Act.17 告白が識らせる火急
悟が家に帰ってきてから、数時間が経過していた。
閉め切った窓の向こうから、セミの鳴き声が聞こえてくる。
外はうだるような暑さだったが、中にいる悟は汗ひとつかいていなかった。
少なくとも、その顔に汗の玉は存在していない。
部屋は彼が帰って来た時のままで、横に倒れたビニール袋から汚れたスーツがはみ出ている。
いつも使っている革のカバンは、それに寄りかかって斜めになっていた。
(…夢とかじゃ、なかった)
悟はベッドに横たわったまま、帰ってきてから何度も考えたことを、もう一度思い返していた。
ビジネスホテルをチェックアウトしてから、横嶋という名の刑事に呼び止められ、社会的に殺されそうになったこと。
もうダメだと思ったその時、別の能力者に家の前まで運んでもらったこと。
そして、それから数時間が経っても、特に何も起こっていないこと。
(なあ、レイヴン)
悟は、自分の腹に乗っているレイヴンに呼びかける。
それまで座っていたレイヴンはそれに反応し、すっと立ち上がって悟の顔へ少し近づいた。
”…なんだ?”
レイヴンは尋ねる。
悟は、彼を見ずに天井を見上げたままでこう尋ねた。
(これから、どうなると思う?)
”……そうだな…”
レイヴンは思案する。
悟の疑問は出し抜けではあったが、レイヴンは彼が何を言いたいのか理解できていた。
この数時間、レイヴンはずっと悟に接触している。
平たく言うと、横たわっている彼の上に乗っていた。
悟は、能力者となったことでレイヴンと『声による会話ではなく心で意思疎通ができるようになっている』。
レイヴンには、悟が考えていることがわかっていた。
それはこの数時間において、彼が考え続けてきた内容についても同じである。
悟はそれをわかった上で尋ねたし、レイヴンはそれを受けて返答することができる。
”もし、あのクソ野郎がオマエをヤクがらみで引っ張ろうと本気で思ってたら、今ごろここには警察の人間が来てるはずだ”
(…そうだよな……)
”今もこうしてのんびりしてられるっつーことは、あのクソ野郎が仲間たちに伝えてないってことだな…もしくは、クソ野郎はそもそも刑事ですらないか”
(えっ?)
悟の目が、天井からレイヴンへと向いた。
驚きを隠さずにこう尋ねた。
(でもあの人、警察手帳持ってたぞ?)
”今どき、ネットで何でも買えるんだぜ? 限りなく本物っぽい警察手帳くらい、売ってても不思議じゃねぇだろ”
(…かぎりなく、ほんものっぽい…)
”そもそもオマエ、本物の警察手帳を見たことがあんのか? 拳銃もそうだがよ”
(……ない)
悟は、これまでごく普通の青年だった。
見た目が人畜無害と思われるのか、これまで職務質問も受けたことがない。
そんな彼が、本物の警察手帳や拳銃を見る機会はなかった。
レイヴンの言葉でようやく彼は、横嶋という男が本当に刑事なのかどうかを疑い始めるようになった。
(そうか…あれ全部、ニセモノって可能性もあるんだよな…)
”だが、問題はそこじゃねーだろ”
レイヴンは、悟の腹から胸へぴょんと跳ぶ。
脚を曲げてその場に座った。
”別の能力者が現れたんだぜ…しかも、『ハト』を超えるヤツがな”
(……うん)
”ただ、オマエはそれよりも別の疑問があるようだが”
レイヴンはそう言って、一度言葉を切った。
悟は、それを受ける形で視線を外す。
また少しの間、天井を見た。
レイヴンの言う通り、彼が考えていたのは横嶋についてのことだけではない。
だがレイヴンはそのきっかけを自分から振ることはなく、悟からの言葉を待った。
”……”
(………)
両者の間に、沈黙が訪れる。
しかしそれは長い時間ではない。
正確に言えば13秒だった。
悟は、決意を固めた上でレイヴンに尋ねる。
(…なあ、レイヴン…そもそも、お前たちってなんなんだ?)
それは、今さらとも思える質問だった。
衝撃的な出会いから今まで、彼らは1日と離れたことがない。
だというのに、根本的なことを話し合っていなかった。
レイヴンがスプレッダであるとか、悟には能力があるとか、『アナザーフェイス状態』に変身できるとか、そういうことはもうわかっている。
ただ、そもそもレイヴンが何者で、なぜ『ハト』や『ククールス』、さらに別の能力者のような存在があちらこちらにいるのか。
そのことについて、悟はレイヴンに尋ねることをしなかった。
いちいち尋ねることもないのではないか、とさえ思っていた。
そしてレイヴン側も、悟に自分の存在についてだとか、そういうことについては教えようとしなかった。
だがそれは、悟には言えないから秘密にしていた、というわけではない。
レイヴンは最初に、そのことについて悟に説明した。
”まず…オマエにあんまりいろいろ教えなかったのは、別に秘密にしていたわけじゃねぇ。オレの身の安全を考えてのことだ”
(…レイヴンの、安全?)
”そうだ。オレと『認識を共通化』してオマエは能力者になったわけだが、それまでは普通に…まあ自分の能力が悪い方に発動して苦労してたようだが…とりあえずは普通に生きてきたわけだろ?”
(あ、ああ)
『悟の能力が悪い方に発動して』というのは、彼が極度のストレス状態にさらされることで『周囲の人間が彼の存在を感じ取れなくなってしまう』ということを示している。
そのおかげで、彼は就職のための面接にすべて失敗してきた。
悟はなぜ自分がこんな目に遭うのかがわからなかったが、レイヴンに初めて『それは能力だ』と教えてもらい、戦いに巻き込まれてからはそのおかげで命の危機から逃れることもできた。
レイヴンの説明は続く。
”普通に生きてきたオマエが、普通じゃないオレの事情を全部知ると、もしかしたらオマエはオレとともに『普通じゃない道』を選ぶようになるかもしれねぇ”
(……普通じゃない、道…)
”それでもオレはよかったんだが、オマエはどうもそうじゃない。普通に生きていきたいようだし、面接だってやめるつもりはなさそうだった。だったら、無理にやめさせると多分面倒なことになる…オマエの周りも、『アイツなんか変わった?』って思うようになるだろう”
(……)
”そうなると、『ハト』みたいな連中がオレを見つけやすくなると思ったんだ。連中もバカじゃない、やみくもに探すんじゃなく、『あの日からいつもとは違う行動を取るようになった人間』を調べてるだろう…そう思ったから、あまりオマエにオレの事情を説明しない方がいいと思った”
(それは…今まで面接を失敗してばっかりだったオレが、いきなり戦うことに目覚めるとかそういう…?)
”んー、戦うことに目覚めるとかいうのはオマエの内面の話だろ? それが周りの人間に伝わるのは少し時間がかかると思うんだよ。だからなー、なんつーか…”
レイヴンは、言いたいことをどう表現するべきか悩む。
少しの間考える仕草を見せた。
と、何かを思いついたのか、顔をぴんと上げた。
その後で、悟を見てこう告げる。
”あ、アイツだ。片山”
(…え? 片山?)
”そうだ。あの…っていうかオレは直接会ったことねーが…いけすかねー野郎の片山だよ”
(片山が、どうかしたのか?)
”オマエが戦うことに目覚めてっつーか、戦い方を知って、片山のヤツをぶちのめしたら…オマエの周りはどう思う?”
(え…! いや、そんなの…信じられないだろ。まずオレがそんなことやろうって思わない)
”だろ? 信じられないから、周りのヤツらはきっと誰かに言いたくなる。そういうところから、オマエの身元がバレるんだ”
(…そんなことで?)
”オマエのことを気にしてなければ、『そんなことで?』ですむだろうぜ。だが、『何か変わったことはないか?』って調べ回ってるヤツがそれを知れば、気にしないわけがねぇ”
(そういう…もんなのか)
”しかも『ハト』はその名の通り、スプレッダとしてはハトの姿をしてるからな。人間のそばにハトなんかいくらでもいるだろ”
(あ…確かに)
”誰かに言いたいようなことが起こったら、遅かれ早かれ『ハト』には聞かれる。そこから調べられれば、オマエの身元もバレる…オマエは戦闘が得意じゃないし、そもそも戦おうって気持ちもない”
(う…うん……)
”だったら、できるだけ何も言わずにいつも通りでいる方が、バレる可能性は低い…オレはそう思った。実際、『ハト』単体じゃ調べがつかなかったから、ヤツは『ククールス』と組むようにしたんだ”
(そうか、それで…)
悟は視線をベッドの下へ向けようとする。
横たわっているのでそこは死角になっているのだが、彼が見ようとしている方向には革のカバンがあった。
その中にはスプレッダ『ククールス』が、書類とともに詰め込まれている。
ただ、それは彼らにとって重要な『人質』であるため、いくら悟でも中から出そうとは思わなかった。
彼は視線をレイヴンに戻す。
(で…お前たちってそもそも…)
”そうだな、ぼちぼち話してもいいだろう”
話を戻そうとした悟に、レイヴンはうなずいてみせる。
”まさか『レベル3』の能力者まで出張ってくるとは思わなかったし、もう『言わずにすむ』って状況じゃなくなってきてるようだしな…”
(……起きるよ)
レイヴンの真剣な様子に、悟の顔を引き締まる。
自然と、体を起こそうという気持ちになった。
レイヴンも彼の気持ちを理解し、一度彼から離れる。
悟が体を起こした後で、その左ひざに乗った。
そして彼は語り始める。
”…オレたちはな、『互いを食い合う』ために造られた存在なんだ”
(く、食い合う…?)
その言葉は、悟にとって驚くべきものだった。
戦うという言葉ならまだ理解もできただろうが、『食い合う』という言葉からはグロテスクな響きを感じさせられてしまう。
ただ、その響きをレイヴンはすぐさま否定した。
”『食い合う』っつっても、その言葉通り共食いするってわけじゃねぇ。相手が持ってる能力を取り込むって意味で『食う』ってことだ。オレたちを作ったヤツが『食い合う』っつったから、それにならってるだけって感じだな”
(…なんの、ために?)
”『レベルを上げるため』…オレはそう聞いてる。スプレッダたちは人間と結びついて、人間を『能力者』にするんだが、その上で相手の能力者を打ち負かすことで『レベルを上げることができる』”
(レベル…)
”ただ…”
レイヴンの言葉が濁る。
少しだけ彼は黙ったが、一度頭を振ってから続けた。
”……オレは『失敗作』だった”
(…!)
”オレはどんなタイプの人間とも相性がよくない。そう判断された。だから外に出る予定はなかったんだ”
(脱走…してきたっぽいこと、言ってたよな。最初に)
”ああ。あのままずっとあの場所にいたら、オレは他のスプレッダを作るための材料にされるところだった。平たくいえば分解されてただろう”
(ぶ、分解…?)
”そんなのは冗談じゃなかった。だからオレは飛び出してやったんだ…しかし『ハト』の野郎が気づきやがった。ヤツはずっとオレを追いかけてきやがった”
(………)
”逃げたぜ。そりゃあ必死に逃げた。だが、ヤツはすでに『レベル2』で、『アナザーフェイス状態』に変身できる上に翼まで持ってやがる。体力の差は歴然だった…オレはどっかの公園に、ほとんど墜落するように逃げ込んだ”
そう言った後で、レイヴンはじっと悟の目を見た。
”そこで、オマエに…からあげをもらった”
(レイヴン…)
”だが、それだけじゃ『ハト』の野郎をまくことはできねぇ。一か八か、オマエを巻き込むことにした。そうじゃなきゃオレが殺される。オマエに悪いとか…正直、思う余裕はなかった”
(………)
”それから後は、わかるな?”
(…ああ)
レイヴンに言われるまでもなかった。
巻き込まれた悟は、レイヴンのパートナーとなり、能力者となった。
『アナザーフェイス状態』に変身し、結果的には悟自身が持っていた『自らの存在を消す能力』によって、窮地を脱することができた。
その流れはわかる。
自分自身が体験してきたことだ、わからないわけがない。
ただ、やはりそもそもの部分は、悟にはよくわからなかった。
(それから後はわかるけど……『レベルを上げる』…っていうのは、なんなんだ?)
”単純に言えば、能力のレベルが上がるってことだろう。『レベル1』で『アナザーフェイス状態』に変身できるようになって、『レベル2』ではその状態で翼が生える。で、『レベル3』は能力者の位置を…”
(そういうことじゃなくてさ)
”わかってるよ。だが、わかんねーんだ”
レイヴンは、悟から視線を外した。
その体勢のまま、こう続ける。
”オレは…失敗作、だからな。基本的な知識しか持ってねぇ。レベルを上げるための存在だっつっても、いくつまでレベルがあるのか、どこまでレベルを上げりゃいいのかも…わかんねーんだ”
(……)
レイヴンの寂しげな言い方に、悟は何も言えなくなった。
ふたりはそのまま、しばらく何も言わずにいる。
やがて、レイヴンが沈黙を破った。
”…スプレッダには2種類いる。『最初から能力者がいたヤツ』と、『いないヤツ』だ。『ハト』は前者、『ククールス』は後者だったはず…だから、スプレッダによってレベルにも違いがある”
(……うん…)
”さっき言いかけたが、『レベル3』は能力者の位置を知ることができる…オレがオマエにこれまで何も言わなかったのは、『レベル3』になるようなヤツがそうそういるわけない、って思ってる部分もあったからだ”
(…あ)
悟は気づいた。
レイヴンが何を言おうとしているか、ということに。
”オマエもわかったか?”
レイヴンも、悟にそのことを尋ねてくる。
悟は、ゆっくりとうなずいた。
(今まではいなかったけど、オレたちは『レベル3』の能力者に会った…)
”ああ。敵じゃなかったのはラッキーだとしか言いようがねーんだ。『ハト』はすでに『レベル2』だし、ヤツが『レベル3』になる可能性も充分あるってことなんだよ”
つまりそれは、これまでどうにか住所を知られないように戦ってきたことが、すべて無駄になる可能性があるということだった。
『ハト』は『レベル2』で止まっているからこそ、悟の家を知らないままでいる。
レベルを上げる術がなかったからこそ、『ククールス』と組んで悟を陥れようとしたのだろう。
だが、『ハト』が『レベル3』に上がってしまえば、協力者は必要なくなる。
(こっちには『人質』もいるし、あの子は『ハト』に何も教えないはずだって思ってたけど…そうじゃなくなる、ってこと…だよな?)
”そういうことだ。今ごろ、いろんな場所で能力者が増えてることだろう…でもって、食い合いまくってるんだろうぜ”
(……)
悟は、自分が置かれた状況が少しずつわかってきた。
レイヴンと話をする前は、警察がいつ家に踏み込んでくるのか、ということが念頭にあった。
しかしそれが、今は変わってきている。
自分と同じような能力者が、増えてきているらしい。
悟にはそのようなことはまったくわからなかったが、考えてみればこの数日間は周囲のことなどじっくり見ていられなかった。
能力者同士が戦い、その能力を奪い合うということ。
誰がそんなことを思いついて、なぜ始めようと思ったのかはわからない。
ただ、戦いそのものはもう始まってしまっている。
全員が敵というわけではないようだが、悟の住所を知る能力者はすでに存在している。
そうでなければ、家まで運ばれるわけがないのだ。
(…もう、誰かにはバレてるんだな…オレのことも、オレの家も)
”ああ。だからオレも、もう話さなきゃいけないと思ったんだよ”
(そう、だよな…)
悟の心に、重いものがのしかかる。
これまでとは別の意味で、決断をしなければならないと思わされている。
(…『ハト』さえ、どうにかできれば…いいって思ってたんだ。そうしたらきっと、普通の暮らしにまた戻れる…そう思ってた)
”……”
(だけど、もう誰かにはバレてる。その人には助けてもらったけど…もう、『誰かにバレるような状況になった』…んだよな)
”…ああ”
(そう…だよな……)
『ハト』の襲撃さえどうにかかわせれば、それさえどうにかできればいい。
悟はそう思っていた。
だからこそ、自分なりに戦う決断もできた。
祖母であるハナを守るためには、そうするしかないと思った。
しかし今や、『ハト』だけをどうにかできればいいわけではない。
誰かが自分のことを知ったのなら、それとは別の誰かが自分の住所を知る時もいずれやってくる、ということなのだ。
彼を助けてくれた『レベル3の能力者』も、事情によっては敵に回るかもしれない。
そうなってしまえば、間違いなくハナは危険にさらされる。
今は自分たちが『ククールス』を『人質』としているが、逆にハナが人質にされないとも限らないのだ。
(レイヴン…)
”なんだ?”
(どうすれば、いいと思う?)
”…オレの答えは、訊くまでもないと思うぜ”
(ちがう、そうじゃない)
悟は、真剣な目でレイヴンを見つめた。
(おれたちが『レベル3』になるには、どうすればいいと思う?)
”…!”
レイヴンは、悟の言葉に驚く。
それとほぼ同時に、視界の端に何か震えるものを見た。
彼がそちらを見ると、それは悟の左手だった。
凝視するまでもなく、小刻みに震えているのがわかる。
右手もそれは同じだった。
レイヴンは悟の両手が震えていることに気づき、ハッと顔を上げる。
”…オマエ……!”
(やるしか、ないんだろ…!)
悟の顔は引きつっている。
戦うことへの恐怖で、顔の筋肉が過剰に緊張しているのだ。
彼は震える両手を、強く握り込む。
(普通の暮らしに戻りたいって思ったって、結局は怖い目に遭うんだろ…! だったらもう、やるしか…!)
”…ああ、やるしかねぇ……”
レイヴンはこの時、悟をなだめることをしなかった。
落ち着け、とは言わなかった。
恐怖へ自ら飛び込むしかないことを知り、震えを無理やり押さえ込もうとしている彼に、冷静になれとは言わなかった。
その代わり、彼にあることを告げる。
”だから、オマエに教えてやる…レベルを上げるための方法を、な”
(たのむ…!)
手を握り込むだけでは震えは止まらず、悟は自らを抱きしめるようにして、どうにか平静を取り戻そうとした。
だがそれは無駄な努力であり、彼の全身はしばらく緊張し続ける。
過度な緊張は、彼に大きな疲労をもたらすことになってしまう。
ただ、それがわかっていても彼は、自分の意志で力を抜くことができなかった。
>Act.18へ続く
→目次へ
悟が家に帰ってきてから、数時間が経過していた。
閉め切った窓の向こうから、セミの鳴き声が聞こえてくる。
外はうだるような暑さだったが、中にいる悟は汗ひとつかいていなかった。
少なくとも、その顔に汗の玉は存在していない。
部屋は彼が帰って来た時のままで、横に倒れたビニール袋から汚れたスーツがはみ出ている。
いつも使っている革のカバンは、それに寄りかかって斜めになっていた。
(…夢とかじゃ、なかった)
悟はベッドに横たわったまま、帰ってきてから何度も考えたことを、もう一度思い返していた。
ビジネスホテルをチェックアウトしてから、横嶋という名の刑事に呼び止められ、社会的に殺されそうになったこと。
もうダメだと思ったその時、別の能力者に家の前まで運んでもらったこと。
そして、それから数時間が経っても、特に何も起こっていないこと。
(なあ、レイヴン)
悟は、自分の腹に乗っているレイヴンに呼びかける。
それまで座っていたレイヴンはそれに反応し、すっと立ち上がって悟の顔へ少し近づいた。
”…なんだ?”
レイヴンは尋ねる。
悟は、彼を見ずに天井を見上げたままでこう尋ねた。
(これから、どうなると思う?)
”……そうだな…”
レイヴンは思案する。
悟の疑問は出し抜けではあったが、レイヴンは彼が何を言いたいのか理解できていた。
この数時間、レイヴンはずっと悟に接触している。
平たく言うと、横たわっている彼の上に乗っていた。
悟は、能力者となったことでレイヴンと『声による会話ではなく心で意思疎通ができるようになっている』。
レイヴンには、悟が考えていることがわかっていた。
それはこの数時間において、彼が考え続けてきた内容についても同じである。
悟はそれをわかった上で尋ねたし、レイヴンはそれを受けて返答することができる。
”もし、あのクソ野郎がオマエをヤクがらみで引っ張ろうと本気で思ってたら、今ごろここには警察の人間が来てるはずだ”
(…そうだよな……)
”今もこうしてのんびりしてられるっつーことは、あのクソ野郎が仲間たちに伝えてないってことだな…もしくは、クソ野郎はそもそも刑事ですらないか”
(えっ?)
悟の目が、天井からレイヴンへと向いた。
驚きを隠さずにこう尋ねた。
(でもあの人、警察手帳持ってたぞ?)
”今どき、ネットで何でも買えるんだぜ? 限りなく本物っぽい警察手帳くらい、売ってても不思議じゃねぇだろ”
(…かぎりなく、ほんものっぽい…)
”そもそもオマエ、本物の警察手帳を見たことがあんのか? 拳銃もそうだがよ”
(……ない)
悟は、これまでごく普通の青年だった。
見た目が人畜無害と思われるのか、これまで職務質問も受けたことがない。
そんな彼が、本物の警察手帳や拳銃を見る機会はなかった。
レイヴンの言葉でようやく彼は、横嶋という男が本当に刑事なのかどうかを疑い始めるようになった。
(そうか…あれ全部、ニセモノって可能性もあるんだよな…)
”だが、問題はそこじゃねーだろ”
レイヴンは、悟の腹から胸へぴょんと跳ぶ。
脚を曲げてその場に座った。
”別の能力者が現れたんだぜ…しかも、『ハト』を超えるヤツがな”
(……うん)
”ただ、オマエはそれよりも別の疑問があるようだが”
レイヴンはそう言って、一度言葉を切った。
悟は、それを受ける形で視線を外す。
また少しの間、天井を見た。
レイヴンの言う通り、彼が考えていたのは横嶋についてのことだけではない。
だがレイヴンはそのきっかけを自分から振ることはなく、悟からの言葉を待った。
”……”
(………)
両者の間に、沈黙が訪れる。
しかしそれは長い時間ではない。
正確に言えば13秒だった。
悟は、決意を固めた上でレイヴンに尋ねる。
(…なあ、レイヴン…そもそも、お前たちってなんなんだ?)
それは、今さらとも思える質問だった。
衝撃的な出会いから今まで、彼らは1日と離れたことがない。
だというのに、根本的なことを話し合っていなかった。
レイヴンがスプレッダであるとか、悟には能力があるとか、『アナザーフェイス状態』に変身できるとか、そういうことはもうわかっている。
ただ、そもそもレイヴンが何者で、なぜ『ハト』や『ククールス』、さらに別の能力者のような存在があちらこちらにいるのか。
そのことについて、悟はレイヴンに尋ねることをしなかった。
いちいち尋ねることもないのではないか、とさえ思っていた。
そしてレイヴン側も、悟に自分の存在についてだとか、そういうことについては教えようとしなかった。
だがそれは、悟には言えないから秘密にしていた、というわけではない。
レイヴンは最初に、そのことについて悟に説明した。
”まず…オマエにあんまりいろいろ教えなかったのは、別に秘密にしていたわけじゃねぇ。オレの身の安全を考えてのことだ”
(…レイヴンの、安全?)
”そうだ。オレと『認識を共通化』してオマエは能力者になったわけだが、それまでは普通に…まあ自分の能力が悪い方に発動して苦労してたようだが…とりあえずは普通に生きてきたわけだろ?”
(あ、ああ)
『悟の能力が悪い方に発動して』というのは、彼が極度のストレス状態にさらされることで『周囲の人間が彼の存在を感じ取れなくなってしまう』ということを示している。
そのおかげで、彼は就職のための面接にすべて失敗してきた。
悟はなぜ自分がこんな目に遭うのかがわからなかったが、レイヴンに初めて『それは能力だ』と教えてもらい、戦いに巻き込まれてからはそのおかげで命の危機から逃れることもできた。
レイヴンの説明は続く。
”普通に生きてきたオマエが、普通じゃないオレの事情を全部知ると、もしかしたらオマエはオレとともに『普通じゃない道』を選ぶようになるかもしれねぇ”
(……普通じゃない、道…)
”それでもオレはよかったんだが、オマエはどうもそうじゃない。普通に生きていきたいようだし、面接だってやめるつもりはなさそうだった。だったら、無理にやめさせると多分面倒なことになる…オマエの周りも、『アイツなんか変わった?』って思うようになるだろう”
(……)
”そうなると、『ハト』みたいな連中がオレを見つけやすくなると思ったんだ。連中もバカじゃない、やみくもに探すんじゃなく、『あの日からいつもとは違う行動を取るようになった人間』を調べてるだろう…そう思ったから、あまりオマエにオレの事情を説明しない方がいいと思った”
(それは…今まで面接を失敗してばっかりだったオレが、いきなり戦うことに目覚めるとかそういう…?)
”んー、戦うことに目覚めるとかいうのはオマエの内面の話だろ? それが周りの人間に伝わるのは少し時間がかかると思うんだよ。だからなー、なんつーか…”
レイヴンは、言いたいことをどう表現するべきか悩む。
少しの間考える仕草を見せた。
と、何かを思いついたのか、顔をぴんと上げた。
その後で、悟を見てこう告げる。
”あ、アイツだ。片山”
(…え? 片山?)
”そうだ。あの…っていうかオレは直接会ったことねーが…いけすかねー野郎の片山だよ”
(片山が、どうかしたのか?)
”オマエが戦うことに目覚めてっつーか、戦い方を知って、片山のヤツをぶちのめしたら…オマエの周りはどう思う?”
(え…! いや、そんなの…信じられないだろ。まずオレがそんなことやろうって思わない)
”だろ? 信じられないから、周りのヤツらはきっと誰かに言いたくなる。そういうところから、オマエの身元がバレるんだ”
(…そんなことで?)
”オマエのことを気にしてなければ、『そんなことで?』ですむだろうぜ。だが、『何か変わったことはないか?』って調べ回ってるヤツがそれを知れば、気にしないわけがねぇ”
(そういう…もんなのか)
”しかも『ハト』はその名の通り、スプレッダとしてはハトの姿をしてるからな。人間のそばにハトなんかいくらでもいるだろ”
(あ…確かに)
”誰かに言いたいようなことが起こったら、遅かれ早かれ『ハト』には聞かれる。そこから調べられれば、オマエの身元もバレる…オマエは戦闘が得意じゃないし、そもそも戦おうって気持ちもない”
(う…うん……)
”だったら、できるだけ何も言わずにいつも通りでいる方が、バレる可能性は低い…オレはそう思った。実際、『ハト』単体じゃ調べがつかなかったから、ヤツは『ククールス』と組むようにしたんだ”
(そうか、それで…)
悟は視線をベッドの下へ向けようとする。
横たわっているのでそこは死角になっているのだが、彼が見ようとしている方向には革のカバンがあった。
その中にはスプレッダ『ククールス』が、書類とともに詰め込まれている。
ただ、それは彼らにとって重要な『人質』であるため、いくら悟でも中から出そうとは思わなかった。
彼は視線をレイヴンに戻す。
(で…お前たちってそもそも…)
”そうだな、ぼちぼち話してもいいだろう”
話を戻そうとした悟に、レイヴンはうなずいてみせる。
”まさか『レベル3』の能力者まで出張ってくるとは思わなかったし、もう『言わずにすむ』って状況じゃなくなってきてるようだしな…”
(……起きるよ)
レイヴンの真剣な様子に、悟の顔を引き締まる。
自然と、体を起こそうという気持ちになった。
レイヴンも彼の気持ちを理解し、一度彼から離れる。
悟が体を起こした後で、その左ひざに乗った。
そして彼は語り始める。
”…オレたちはな、『互いを食い合う』ために造られた存在なんだ”
(く、食い合う…?)
その言葉は、悟にとって驚くべきものだった。
戦うという言葉ならまだ理解もできただろうが、『食い合う』という言葉からはグロテスクな響きを感じさせられてしまう。
ただ、その響きをレイヴンはすぐさま否定した。
”『食い合う』っつっても、その言葉通り共食いするってわけじゃねぇ。相手が持ってる能力を取り込むって意味で『食う』ってことだ。オレたちを作ったヤツが『食い合う』っつったから、それにならってるだけって感じだな”
(…なんの、ために?)
”『レベルを上げるため』…オレはそう聞いてる。スプレッダたちは人間と結びついて、人間を『能力者』にするんだが、その上で相手の能力者を打ち負かすことで『レベルを上げることができる』”
(レベル…)
”ただ…”
レイヴンの言葉が濁る。
少しだけ彼は黙ったが、一度頭を振ってから続けた。
”……オレは『失敗作』だった”
(…!)
”オレはどんなタイプの人間とも相性がよくない。そう判断された。だから外に出る予定はなかったんだ”
(脱走…してきたっぽいこと、言ってたよな。最初に)
”ああ。あのままずっとあの場所にいたら、オレは他のスプレッダを作るための材料にされるところだった。平たくいえば分解されてただろう”
(ぶ、分解…?)
”そんなのは冗談じゃなかった。だからオレは飛び出してやったんだ…しかし『ハト』の野郎が気づきやがった。ヤツはずっとオレを追いかけてきやがった”
(………)
”逃げたぜ。そりゃあ必死に逃げた。だが、ヤツはすでに『レベル2』で、『アナザーフェイス状態』に変身できる上に翼まで持ってやがる。体力の差は歴然だった…オレはどっかの公園に、ほとんど墜落するように逃げ込んだ”
そう言った後で、レイヴンはじっと悟の目を見た。
”そこで、オマエに…からあげをもらった”
(レイヴン…)
”だが、それだけじゃ『ハト』の野郎をまくことはできねぇ。一か八か、オマエを巻き込むことにした。そうじゃなきゃオレが殺される。オマエに悪いとか…正直、思う余裕はなかった”
(………)
”それから後は、わかるな?”
(…ああ)
レイヴンに言われるまでもなかった。
巻き込まれた悟は、レイヴンのパートナーとなり、能力者となった。
『アナザーフェイス状態』に変身し、結果的には悟自身が持っていた『自らの存在を消す能力』によって、窮地を脱することができた。
その流れはわかる。
自分自身が体験してきたことだ、わからないわけがない。
ただ、やはりそもそもの部分は、悟にはよくわからなかった。
(それから後はわかるけど……『レベルを上げる』…っていうのは、なんなんだ?)
”単純に言えば、能力のレベルが上がるってことだろう。『レベル1』で『アナザーフェイス状態』に変身できるようになって、『レベル2』ではその状態で翼が生える。で、『レベル3』は能力者の位置を…”
(そういうことじゃなくてさ)
”わかってるよ。だが、わかんねーんだ”
レイヴンは、悟から視線を外した。
その体勢のまま、こう続ける。
”オレは…失敗作、だからな。基本的な知識しか持ってねぇ。レベルを上げるための存在だっつっても、いくつまでレベルがあるのか、どこまでレベルを上げりゃいいのかも…わかんねーんだ”
(……)
レイヴンの寂しげな言い方に、悟は何も言えなくなった。
ふたりはそのまま、しばらく何も言わずにいる。
やがて、レイヴンが沈黙を破った。
”…スプレッダには2種類いる。『最初から能力者がいたヤツ』と、『いないヤツ』だ。『ハト』は前者、『ククールス』は後者だったはず…だから、スプレッダによってレベルにも違いがある”
(……うん…)
”さっき言いかけたが、『レベル3』は能力者の位置を知ることができる…オレがオマエにこれまで何も言わなかったのは、『レベル3』になるようなヤツがそうそういるわけない、って思ってる部分もあったからだ”
(…あ)
悟は気づいた。
レイヴンが何を言おうとしているか、ということに。
”オマエもわかったか?”
レイヴンも、悟にそのことを尋ねてくる。
悟は、ゆっくりとうなずいた。
(今まではいなかったけど、オレたちは『レベル3』の能力者に会った…)
”ああ。敵じゃなかったのはラッキーだとしか言いようがねーんだ。『ハト』はすでに『レベル2』だし、ヤツが『レベル3』になる可能性も充分あるってことなんだよ”
つまりそれは、これまでどうにか住所を知られないように戦ってきたことが、すべて無駄になる可能性があるということだった。
『ハト』は『レベル2』で止まっているからこそ、悟の家を知らないままでいる。
レベルを上げる術がなかったからこそ、『ククールス』と組んで悟を陥れようとしたのだろう。
だが、『ハト』が『レベル3』に上がってしまえば、協力者は必要なくなる。
(こっちには『人質』もいるし、あの子は『ハト』に何も教えないはずだって思ってたけど…そうじゃなくなる、ってこと…だよな?)
”そういうことだ。今ごろ、いろんな場所で能力者が増えてることだろう…でもって、食い合いまくってるんだろうぜ”
(……)
悟は、自分が置かれた状況が少しずつわかってきた。
レイヴンと話をする前は、警察がいつ家に踏み込んでくるのか、ということが念頭にあった。
しかしそれが、今は変わってきている。
自分と同じような能力者が、増えてきているらしい。
悟にはそのようなことはまったくわからなかったが、考えてみればこの数日間は周囲のことなどじっくり見ていられなかった。
能力者同士が戦い、その能力を奪い合うということ。
誰がそんなことを思いついて、なぜ始めようと思ったのかはわからない。
ただ、戦いそのものはもう始まってしまっている。
全員が敵というわけではないようだが、悟の住所を知る能力者はすでに存在している。
そうでなければ、家まで運ばれるわけがないのだ。
(…もう、誰かにはバレてるんだな…オレのことも、オレの家も)
”ああ。だからオレも、もう話さなきゃいけないと思ったんだよ”
(そう、だよな…)
悟の心に、重いものがのしかかる。
これまでとは別の意味で、決断をしなければならないと思わされている。
(…『ハト』さえ、どうにかできれば…いいって思ってたんだ。そうしたらきっと、普通の暮らしにまた戻れる…そう思ってた)
”……”
(だけど、もう誰かにはバレてる。その人には助けてもらったけど…もう、『誰かにバレるような状況になった』…んだよな)
”…ああ”
(そう…だよな……)
『ハト』の襲撃さえどうにかかわせれば、それさえどうにかできればいい。
悟はそう思っていた。
だからこそ、自分なりに戦う決断もできた。
祖母であるハナを守るためには、そうするしかないと思った。
しかし今や、『ハト』だけをどうにかできればいいわけではない。
誰かが自分のことを知ったのなら、それとは別の誰かが自分の住所を知る時もいずれやってくる、ということなのだ。
彼を助けてくれた『レベル3の能力者』も、事情によっては敵に回るかもしれない。
そうなってしまえば、間違いなくハナは危険にさらされる。
今は自分たちが『ククールス』を『人質』としているが、逆にハナが人質にされないとも限らないのだ。
(レイヴン…)
”なんだ?”
(どうすれば、いいと思う?)
”…オレの答えは、訊くまでもないと思うぜ”
(ちがう、そうじゃない)
悟は、真剣な目でレイヴンを見つめた。
(おれたちが『レベル3』になるには、どうすればいいと思う?)
”…!”
レイヴンは、悟の言葉に驚く。
それとほぼ同時に、視界の端に何か震えるものを見た。
彼がそちらを見ると、それは悟の左手だった。
凝視するまでもなく、小刻みに震えているのがわかる。
右手もそれは同じだった。
レイヴンは悟の両手が震えていることに気づき、ハッと顔を上げる。
”…オマエ……!”
(やるしか、ないんだろ…!)
悟の顔は引きつっている。
戦うことへの恐怖で、顔の筋肉が過剰に緊張しているのだ。
彼は震える両手を、強く握り込む。
(普通の暮らしに戻りたいって思ったって、結局は怖い目に遭うんだろ…! だったらもう、やるしか…!)
”…ああ、やるしかねぇ……”
レイヴンはこの時、悟をなだめることをしなかった。
落ち着け、とは言わなかった。
恐怖へ自ら飛び込むしかないことを知り、震えを無理やり押さえ込もうとしている彼に、冷静になれとは言わなかった。
その代わり、彼にあることを告げる。
”だから、オマエに教えてやる…レベルを上げるための方法を、な”
(たのむ…!)
手を握り込むだけでは震えは止まらず、悟は自らを抱きしめるようにして、どうにか平静を取り戻そうとした。
だがそれは無駄な努力であり、彼の全身はしばらく緊張し続ける。
過度な緊張は、彼に大きな疲労をもたらすことになってしまう。
ただ、それがわかっていても彼は、自分の意志で力を抜くことができなかった。
>Act.18へ続く
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