Act.4 非日常を識る日常 | 魔人の記

Act.4 非日常を識る日常

Act.4 非日常を識る日常


「こちら一点でよろしいですか?」

「あ、はい」

「ありがとうございます、消費税入りまして734円になります」

「はい…」

店員に返答しながら、悟は財布を取り出した。
革製の二つ折り財布から千円札を出し、支払いをすませる。

「266円のお返しです。ありがとうございました~」

釣りを受け取った悟は、店員の前から離れた。
小さくため息をつきながら、ショッピングモールの中を歩いていく。

彼が立ち寄っていたのは、モール内にあるクリーニング店だった。
店舗として独立した建物があるわけではなく、通路沿いにカウンターがあるタイプの店である。

(…ホントに…あったことなんだな、あれ……)

悟は、公園での戦いを思い出している。
戦いといっても、彼自身は恐怖で震えているだけだった。

本人も、それをよくわかっている。
それはとてつもない非日常で、過ぎ去ったあとはどこかぼんやりと遠くのことに思えるほど、激烈な記憶だった。

ただ、彼は今そのことを現実として思い返している。
そのきっかけが、支払いをすませたばかりのクリーニング店でのやりとりだった。

(ホントにあったことじゃなきゃ、スーツをクリーニングに出すことなんかなかったもんな…)

悟を殺そうとした『人型の物体』。
その直前に現れたカラスは、それを『ハト』だと言った。

人型の物体が落ちてきた衝撃で、彼はそれまで座っていたベンチから転げ落ちた。
その時にスーツが砂ぼこりで汚れてしまっていた。

面接に行くだけなら、スーツ全体が砂ぼこりで汚れるはずはない。
だが、彼のスーツはクリーニングに出さなければいけないほど、汚れてしまっていた。

「……」

そのことが、彼に非日常を現実だと思い知らせている。
あれから、1日がたっていた。

「…ん」

ふと、ポケットの中でスマートフォンが震える。
取り出して画面を見ると、そこには『片山』という名前があった。

「うわ…」

悟は瞬時に、うんざりした表情になる。
だが出ないわけにはいかないのか、画面をタッチしてスマートフォンを耳に当てた。

「もしもし…」

”おー! 元気か進藤!”

スマートフォンからは、やけに元気な声が聞こえてくる。
周囲のざわつきも聞こえることから、相手は外にいるようだ。

”お前、もう就職決まったのか? まだだよな?”

「…あ、ああ…」

”だったら時間あいてるよな! 今夜ちょっと付き合えよ、合コンやっからよ!”

「え、今夜? ちょっといきなりすぎ…」

”じゃーまたあとで連絡するからな!”

そう言って、電話の相手は通話を一方的に終了させた。
悟は耳からスマートフォンを離し、少し大きめにため息をついた。

「…相変わらず勝手だな、アイツ…」

怒りよりはゲンナリとした感情を顔に出しつつ、彼は家に帰った。


家に帰ると、祖母のハナがドスドスと足を鳴らしながら、彼のいる玄関へとやってきた。

「おかえり悟。ちゃんとクリーニングには出したのかい」

「ああ、出したよ。ただいま、ばあちゃん」

「そうかい…まったく、すっ転んでスーツ汚して、それで今日の面接すっぽかすなんて、お前は本当にマヌケだよ」

「……あ…あのさ、今夜…」

悟は、話を変えるべくハナに今夜のことを切り出した。
彼女にとっても思わぬ展開だったのか、その顔から怒りが消える。

「へぇ…? 片山くんって、あの子かい?」

「ああ、あの片山だよ。大学の時、友だちだった…」

「そうかい、そりゃよかったじゃないか!」

ハナは、安心したような表情になる。
だがすぐに、思い出したようにしかめっつらになった。

「せっかく誘ってくれたんだ、しっかり盛り上げてくるんだよ! あの子はきっと何かをやり遂げる…そんな感じがするんだよねぇ」

「…そ、そう…」

「お前と仲良くしてくれてるのを、ありがたいと思わなきゃ。人脈ってのは、しっかりしてればしてるほどいいもんなんだからね!」

「人脈…あ、ああ、うん……」

「なんだい、その気のない返事は。まあいいよ、早くお昼の支度をしとくれ。アタシを殺す気かい!」

「…わかったよ、ちょっとまってて」

「急ぐんだよ!」

ハナはそう言い放って、またドスドスと足を鳴らしつつ去っていった。
悟は大きくため息をついて、靴を脱いで玄関に上がった。

その後、手際が悪いとハナに怒られつつ、彼は昼食を用意した。
それを食べて片付けをしてから、彼は2階にある自分の部屋へ向かう。

「…はあ……」

昼食をとったばかりだというのに、満腹感や満足感よりも先にため息が出た。
部屋のドアを開け、中に入る。

すると、中で音がした。

「……」

悟は、音がした方向を見る。
そこにはカラスがいた。

カラスは、右の翼を挙げている。
音というのは、カラスが翼を挙げた時に出た音だった。

「お前…」

悟はそう言いながら、部屋の窓を見る。
窓は閉まっている。

「…あれ?」

窓が閉まっていることを不思議に思っていると、カラスは悟に飛びかかってきた。

「うわ」

”…静かにしろ、静かに”

カラスの声が心に流れ込んでくる。
声が流れ込んでくる直前に、カラスは悟の頭に乗っていた。

(おい…)

”オマエなんで窓閉めてんだよ。開けるのすげぇ大変だったんだからな”

(え…! お前まさか、自分で窓開けたのか?)

悟は驚いた。
当然ながらカラスには翼と足しかなく、手らしきものはない。

その体で一体どうやって窓を開けたのか。
彼にはわからなかった。

(どうやって開けたんだよ…?)

”そんなもんオマエ、この足で踏ん張ってこの翼で開けたに決まってんだろ”

(…えぇ…?)

”カギがかかってなくてよかったぜ。っていうかオマエ、ちょっと不用心じゃねーのか? 窓のカギくらいちゃんとしとけ”

(い、いや…なんだよお前、カギかけてないから入ってこれたんだろ…)

”それとこれとは別の話だろ。入ってきたのがオレだからよかったようなものの、あの野郎だったらどうするつもりだったんだ?”

「……!」

カラスの言葉に、悟の背筋が寒くなる。
そんな彼の心情に構わず、カラスはこう続けた。

”まあ、あの野郎が来てたら、こうしてのんびりしてらんねーけどな”

(…の、のんびりしてられないどころじゃない…変なこと言わないでくれ)

”変なことじゃねーだろ”

カラスの言葉に、真剣なものが混ざる。
それを感じた悟は、クリーニングに行ったことを思い出した。

そう、今彼がいる状況は『変なこと』ではない。

「………」

悟は、視線を落として部屋の床を見る。
そこには、カラスが飛びかかってきた時に落ちたであろう、羽根が1枚だけ落ちていた。

”…どうした、急に黙りやがってよ”

(…いや……)

悟は生返事をしつつ、羽根を拾うためにかがむ。
彼の頭に乗っていたカラスは、バランスをとるために翼を一瞬だけバタつかせた。

その羽ばたきを頭上で感じながら、悟は羽根を拾う。
だが拾い上げた瞬間、それは霧のようにかき消えてしまった。

「あ…」

思わず口から声が出る。
そこへ、カラスが声を流し込んできた。

”ああ、わりィな。羽根を落としちまってたようだ”

(なんで…消えたんだこれ?)

”消えたんじゃねぇ、消したんだよ。オレがな”

(…そういう…力を持ってる、ってことか?)

”……オマエなァ…”

カラスは呆れた様子で首を左右に振る。
だが悟の頭上にいるので、その動作は彼には見えない。

そのことに構わず、カラスはこう続けた。

”昨日言っただろーが。羽根を消したのは、『オマエの力だ』ってよ”

(いや…昨日言ったって言われても、意味がわからないし…それに、お前が消したのに『おれの力だ』って、ますます意味がわかんないし…)

”はァー、オマエほど自分の能力がわかってねぇヤツも珍しいなァおい”

カラスは、どうしようもないといった口調で言う。
そうしながら、悟にとりあえず座るように告げた。

悟は素直に、ベッドの端に座る。
カラスは彼の頭に乗ったまま、こう切り出した。

”もう一度、昨日の解説をしてやる…オマエ、なんであの野郎から逃げられたと思う?”

(…なんで、って言われても…)

”オレはなんて言った? まさかもう忘れたとか言うなよ”

(えっと…『極限のストレスを与えられたせいでおれの姿が消えた』……だっけ)

”そうだ”

カラスはそう言ってうなずいてみせる。
だがやはり、悟には見えない。

”オマエはあの野郎に殺されると思った。とても強くそう思った…それに加えて、オレが『もうオマエは死ぬかも』って突き放した”

(…うん……)

”そこでオマエのストレスが、限界を超えに超えたんだ。『それがオマエの姿を消した』”

(……いや、意味わかんないし…)

”最初もそうだぜ。あの野郎が空から降ってきてすぐ、オマエはあの野郎にまったく見つかってなかった”

(………)

ここで、悟の反論が止まった。
そのあたりについては、彼もしっかりと憶えているのだ。

ベンチから落ちた彼の腕にとまっていたカラス。
人型の物体は、カラスを見つけて指を差した。

カラスは、悟のひじから手の間を、ぴょんぴょんと跳ねて移動していた。
人型の物体は、移動を続けるカラスに合わせて、突き出した人差し指の向きを移動させていた。

それはつまり、人型の物体が『カラスだけを見ていた』ということに他ならない。

”あの野郎がオレだけを指差して、指の向きまでオレの動きに合わせる…それ自体も奇妙なことだが、そこらへんはあの野郎自身の性質だ。いま重要なのはそこじゃねぇ”

(………)

”重要なのは、あの野郎が『オマエだけを認識してなかった』ってことだ”

(にん、しき…)

”あの時、オマエはいろんなことが一気に起こってビビリまくってた。つまりストレスが高まってたんだ。それがオマエの姿を、あの野郎に『認識させなかった』”

(……)

”さすがにオマエだって、あの状況がヤバいってのはわかるだろ? お遊びでそんなことやってるって…そんなことは思わねーよな?”

(…ま、まあ…それは、たしかに……)

”だったら、オレがデタラメ言ってるわけじゃねーのも、わかるんじゃねーのか?”

(いや、デタラメとは…思わないよ。クリーニングだって行ってきたし…)

”あ? クリーニング?”

悟の言葉に、カラスは首をかしげた。
彼の頭からひざへ軽やかに移動し、顔を見上げながら言う。

”なんだよ、クリーニングって。今の話と関係あんのか?”

(公園でさ…ベンチから落ちた時に、スーツが汚れちゃったんだよ。それを洗ってもらうために、さっきクリーニングに出してきたんだ)

”ああ…なるほどな。いきなり言うから何事かと思ったぜ”

(ごめん)

”謝るんじゃねーよ。なんつーか、それがオマエの中で『昨日のことが現実だって思えること』なんだろ?”

(…うん)

”だったら今の話に関係あるじゃねーか。謝る必要なんかねーよ”

(うん……)

”……?”

悟の様子を見て、カラスは何かに気づく。
それまでの話を一旦止め、こう尋ねた。

”なんだよオマエ、オレの話がどーとかより…なんか違うことでグッタリきてねーか?”

(ああ…わかる? 今夜ね…ちょっと、憂鬱なことがあってさ)

”ユーウツなこと、だァ?”

カラスは不思議そうに首をかしげる。
悟はその仕草を見て、小さく苦笑する。

そして心でこう言った。

(あの敵みたいに見えなくなってくれたらなー、って…ちょっと思ってさ)


「あはははー! カンパーイ!」

乾杯の音頭とともに、グラスとジョッキが合わせられる。
夜の居酒屋には、8人の男女が集まっていた。

その中に悟もいる。
ビールが入ったジョッキを持っていた。

音頭を取ったのは男性で、その声は悟がスマートフォンで応対した声と同じである。

「さあさあ飲んで飲んで! 今日は楽しくいこう!」

「片山くーん、そんなに飲ませてどうするつもりー?」

「イヤだなー、そんなこと今から言えないよ」

「キャー! 片山くんのえっちぃー!」

乾杯したばかりだというのに、すでに場の勢いはかなり高まっている。
そんな中で、悟は笑顔を浮かべていた。

(…やっぱり、こういう感じなんだな……)

顔の筋肉を使っている感覚がある。
心から笑う時には、意識しない感覚である。

その感覚を忘れないようにしながら、悟は自分以外の7人が繰り広げる会話を聞いていた。

「片山くん、部長からすごい仕事を任されたって聞いたけど?」

「そうなんだよ、これがビッグプロジェクトでねぇ…成功させれば30億の利益になるんだ」

「すっごーい! ねえ片山くん、それどんなプロジェクト?」

「いやいや、さすがにここでは言えないよー。誰が聞き耳立ててるかわかんないし」

「うわ、ホントにすごいんだ!? なんかすごいミッションって感じ!」

「そうだねぇ、ミッションといえばそうなるかな。なにしろ失敗は許されないから」

「でも片山くんならきっとだいじょうぶだよね! 楽勝なんじゃない?」

「いやーそうでもないさ。でも優秀な先輩方も手伝ってくれるし、心強いよ」

「そんなこと言って、実は片山くんひとりで全部やっちゃう感じなんでしょ?」

「そうよー、片山くんホントすごいもんね!」

「あっはは、ほめてくれるのは嬉しいけど、僕ひとりじゃなにもできないさ」

「きゃー! 片山くんカッコいい! ここでケンソンできるなんて、やっぱりすごい人!」

(…合コン……なのか、これは)

悟は、顔の筋肉を使いながらそう思った。
とはいっても、合コンと聞いたからここに来た、というわけでもない。

(いやまあ、予想はついてた…だいたいいつもこんな感じだもんな、片山のまわりって)

彼はビールを少しだけ飲み、場の雰囲気を壊さないように笑顔を作っている。

6人の男女が片山をほめ、片山はそれに笑顔で応対する。
ただひとり、悟だけが特に何も言わずに、その様子を笑顔で眺めている。

悟は笑顔だが、楽しいわけではない。
顔の筋肉を使わなければ、笑顔を作っていられないからそうしている。

(でも、すごいな…)

意識しなければ笑顔でいられないのだが、それとは別に、悟は片山のすごさを感じている。

(なんだか高そうな服だし、時計もキラキラしてるし…髪もオシャレで顔もそこそこイケメンで。それで頭もいいから、男も女もみんな片山が好きだもんな。大学のころからそうだった)

片山はそこにいるだけで、輝いているように悟には見えた。
それは恐らく、彼をほめ続ける6人の男女も同じなのだろう。

そんなことを考えていると、片山から声をかけられた。

「おい進藤、なんか元気ないな?」

「え?」

急に声をかけられた悟は、驚いて片山を見る。
その瞬間、6人の男女が一斉に彼を見た。

「…え……」

視線が一気に集まったせいで、悟は戸惑う。
そこへ片山の言葉が飛んだ。

「そーいやお前、まだ就職できてないんだっけ?」

「…え? あ、ああ…」

まさか自分の話になるとは思わない彼は、戸惑いながらうなずく。
彼はこの時、6人の誰かが舌打ちをした音を聞いた。

それに悟が気づくとほぼ同時に、片山はこう続けた。

「お前さ、よかったらうちの会社来ないか? 僕が受け持ってるプロジェクト、手伝ってくれたら嬉しいな」

「…え、あ、いや、その……あはは」

「あはは、じゃなくてさ。マジメに言ってるんだぜ、僕は」

「お、おれは…その、遠慮……しとくよ。優秀とか、そんなんじゃないし……」

「そうか、残念だな」

「………」

悟が断ったことで、場が妙な雰囲気になる。
6人の男女が、ひそひそと話をしているのが聞こえてくる。

「…なにあれ、片山くんが言ってくれてるのに断るとか」

「普通、こういう時は冗談でも嬉しがるもんだろ」

「っていうかなに笑ってんの、きもちわる」

6人全員が、刺すような視線を悟に向ける。
悟はいたたまれなくなって、顔をうつむけた。

そこへ片山が再度声をかける。

「なあ、進藤」

「…え」

悟が顔を上げると、片山は笑顔を浮かべている。
にこやかにこう言った。

「いきなりゴメンな、お前にもいろいろ都合があるよな」

「あ、いや、その…」

「でもよかったらでいいから、気が向いたら連絡くれよ。な?」

「…あ、ああ……」

悟が返答したその時。
一瞬だけだったのだが…

片山の口の端。
そこが、いびつに釣り上がるのを悟は見た。

(…あ)

そこで彼は理解した。
だが理解した瞬間、それを心に思い浮かべる前に、男女の声が聞こえてくる。

「片山くん、すごい優しい!」

「すごい友だち思いだよねー! そういうところがステキ!」

「人格者って、片山くんみたいな人を言うんだろうなあ!」

「こんな麗しい友情、見たことないよ!」

「片山くんすごい!」

「片山くんすごい!」

6人の男女は、片山をほめ称えた。
その言葉を受けて、片山本人は困惑したような表情を見せる。

「おいおいやめてくれよ、僕はただ…困ってる友だちを放っておけないだけさ」

そう言って、悟をチラリと見る。
その眼差しは、悟の心に深く突き刺さった。

(…ああ……やっぱり、そういうことか)

合コンというのは建前だった。
悟も、最初からそれは理解していた。

ただ、それでも断らなかったのは、声をかけてもらった嬉しさが心のどこかにあったからだ。
しかし彼は、この場にやってきたことを後悔することになった。

悟はエサだった。
片山という、人々に人気のある者に食われるためのエサだった。

今日この場に呼ばれたのは、友だちとして女の子たちとわいわい楽しく飲みたいからだとか、そういう理由ではない。

(慣れたつもりだったけど……やっぱり慣れないな)

片山の人気を見せつけられ、輝かしいものを何も生み出せない自分を踏みつけにされる。
そしてそのことに、怒りを爆発させることもできない。

それが悟だった。
もちろんそれでいいとは思わなかったが、だからといって何かができるわけではない。

(…あんな怖い敵から逃げられたのに…)

悟は、じっとビールを見る。
泡がなくなってきたその液体は、何度も口をつけているせいか、ぬるくなってきていた。

(片山からは逃げられないなぁ…)

そう思う頃には、顔の筋肉が突っ張る感覚を忘れつつあった。
彼はひたすら、この時間が早く終わることを願い続けるのだった。


>Act.5へ続く

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