Act.5 重なる否定は肯定の両翼 | 魔人の記

Act.5 重なる否定は肯定の両翼

Act.5 重なる否定は肯定の両翼


数日後。
スーツのクリーニングが終わり、悟はそれを受け取ってきた。

「…はぁ」

家に持ち帰り、部屋のタンスにしまう。
新しい建物ではないので、クローゼット専用の部屋というようなものはない。

悟のタンスは、上部がクローゼットになっており下が引き出しになっている。
木目調で茶色の、シンプルでもなければ華やかでもない古いタンスだった。

「……」

スーツをしまい終わり、クローゼット部分の戸を閉めた悟は、すぐにはそこから離れずにいる。
そこへ、背後からカラスが彼の背中に飛び乗った。

「……?」

カラスの行動は突然だったが、悟はもう驚かなかった。
数日の間、彼らはずっと同じ部屋にいる。

”なんだおい、どうかしたのか?”

カラスは、悟がタンスの前からすぐに離れないのを不思議がり、尋ねてきた。
悟はそのことに小さく笑い、ゆっくりとベッドへ移動していく。

(いや…なんというか、また面接の日々が始まるんだなあ…って思ってさ)

”ああ、スーツが帰ってきたからか?”

(うん)

”オマエ、変なヤツだよな”

(…え?)

ベッドに座ろうとしたところで、悟はその動きを止めた。
だが一瞬後に、中腰になっているのも疲れることに気づき、腰を下ろす。

そうしてからカラスにあらためて尋ねた。

(変、って…なにが?)

”あんなことがあって、オレとこうして話してて、オマエなんでそんな普通なんだ?”

(なんで、って言われても…)

”命がけで戦ったんだぜ? でもって、その気になりゃ『アナザーフェイス状態』にいつだってなれる状態だ…”

(………)

”『ハト』の格好、忘れてねーだろ? あんな感じにオマエだってなれるんだぜ。っていうか、そうなったから生き残れてるんだがな”

(…そう言われてもなぁ)

悟は頭をかく。
その顔には、困惑がある。

現実感がないわけではないのだ。
人型の物体と出会ってしまった記憶はやけに遠く感じられても、彼自身の生活があの時起こったことに影響を受けている。

人型の物体が彼のいる公園に落ちてこなければ、スーツをクリーニングに出す必要はなかった。
そして今日、クリーニングを終えたスーツを受け取る必要もなかった。

さらに、カラスとこうやって心で話もしている。
自分が普通ではない状態になっているのは、悟にももう理解できている。

(あの時のこと、今お前と話してること…それが普通じゃないのは、おれにももうわかってるよ)

”じゃあなんで、まだ面接のこととか考えてんだ? オマエ、そんなに会社勤めしてーのか?”

(したいわけじゃないよ。だけどやらなきゃいけないことだろ、仕事って)

”ことだろ、って言われてもオレは知らねーよ。オマエ、オレを誰だと思ってんだ?”

(…誰って、変なカラス……)

”変な、じゃねぇ! でもって単なるカラスでもねぇ!”

悟のひざに移動したカラスは、勢いよく翼を広げた。
その行動は、カラスの横幅を3倍以上に膨れ上がらせる。

”耳かっぽじってよく聴け! オレさまの名前はな、『レイヴン』ってんだ!”

(あ、ああ…確か、そんな名前だっけ)

”おい…”

カラスの両翼から力が抜ける。
満を持して名乗ったのに、悟のペースがまったく変わらないことに拍子抜けしてしまった。

”オマエ、どう見てもオレは謎のカラスだろ! それがこうやって自己紹介してんだぞ! 普通は驚くとか感嘆するとか、なんかあるだろ!”

(…そう言われてもなぁ…)

悟はもう一度頭をかいた。
ただ、その頃には顔から困惑が消えていた。

悟とレイヴンは、人型の物体との戦いの後で、家に帰る途中まで一緒にいた。
ただ、人間とカラスが仲良く一緒に歩いている姿はどうしても人目につくため、レイヴンは悟の家に到着する前に姿を消していた。

その間に、一通りの説明は受けたのだが…
もちろん、とんでもない経験をしたばかりの悟に、すべてを理解しきれるはずもなかった。

(お前の名前、聞くの初めてでもないし…なんかいろいろいっぱいいっぱいな中で聞いたのもあってさ、驚くのも忘れちゃったっていうか)

”カァーッ! なんて野郎だこの野郎! 普通なら『クソな人生終わってついにオレが世界の主人公になった!』くらいのノリになるもんじゃねーのか!?”

レイヴンの名前は、既に出会った初日から聞いていた。
彼の心になぜそれが浮かばなかったのかというと、要は『いっぱいいっぱい』だったからである。

さらに、初日に家へ帰り着くまでにレイヴンが去っていったのも、名前の記憶が薄まるのに拍車をかけた。

大変なことが起こり、常識からはずれた説明を立て続けに受け、その上新たな仕事であるスーツのクリーニングが加わり、彼がしっかり意識していられる限界を突破してしまっていた。

人型の物体との戦いが遠い記憶に感じられるのも、それが原因である。
だがレイヴンには、それが理解できない。

”オレぁよ、オマエがもっとこう…どんどこオレを使ってよ、『ハト』の野郎を探そうとし始めたりとか、なんか気に入らねぇヤツを『アナザーフェイス状態』になってボッコボコにしてやったりよ、そういう展開になると思ってたんだぜ!?”

レイヴンは早口で言いながら、またも両翼を力強く広げる。
時折それが小さく上下している姿が、両手を広げて相手を説得しているようにも見える。

だが悟はそういう気分にはならない。

(いや…『ハト』ってあのゴッツいヤツだろ? あんなのわざわざ探そうと思わないよ…怖いし)

”だーからアレは『アナザーフェイス状態』でああなってるっつったろ! 本体はあのままの姿じゃねーんだよ!”

(あ、そうだったっけ)

”オマエとオレで『アナザーフェイス状態』になった時、オマエの声が変わったろ? アレはオレが変えたんだよ! それと同じようなことが、『ハト』の野郎にも起きてたんだよ!”

(…なんで?)

”それも説明しただろ…変身してねー時に『暗殺』されねーためだよ……”

レイヴンは、だんだん疲れてきたらしく、両翼からまた力が抜け始めた。
その姿を見て、悟は思わず微笑む。

もちろん、それを見逃すレイヴンではない。
右の翼を悟の眼前に向けた。

”おいコラ! オレがグッタリきてんのに笑うんじゃねぇ!”

(ご、ごめんごめん…なんていうか、こうして話すのやっぱり楽しいなって思ってさ)

”…あァ?”

悟の言葉に、レイヴンは驚く。
右の翼を下ろし、広げていた左の翼とともに小さくたたむ。

その後で首をかしげてみせた。

”話すの楽しいって、オマエこの前飲み会行ってきたんじゃねーのかよ?”

(飲み会…ああ)

悟の表情が濁る。
片山に誘われて行った『合コン』の記憶が蘇った。

(あれは……楽しい時間じゃないからさ)

”カタヤマ、だっけか?”

(ああ。みんなに人気で、優秀なヤツさ)

”みんなに人気なようだが、オマエからの人気はねぇみてーだな”

(んー…なんていうか、おれはほら、こんな感じでどんくさいし、バカにされてる感じかな)

”なんだと?”

レイヴンの首が、真っ直ぐに戻る。
その黒い目が、ギラリと光った。

”バカにされてんのか? 殺しちまえよそんなヤツ”

(お、おいおい…いきなり怖いこと言うなよ)

”あァ? オマエなに言ってんだ? 一度ナメられたらずっとナメられるんだぞ。殺すまでいかなくても、半殺しくらいにはしてやらなきゃ、オマエがずっと損するんだぜ”

(そんなこと、できるわけないだろ…)

”…まあ、オマエにできるとはオレも思わねーが”

レイヴンはそう言って、カパッとクチバシを開いてみせた。
しばらく開けて閉じる。

悟にはそれが、あくびをしているように見えた。

(…眠いのか?)

”バカ言え、あきれてんだよ”

(ごめん)

”謝んなよ、それがオマエのやり方なんだろ。あきれはするが、否定はしねぇ”

(え…)

悟は驚く。
まさか、レイヴンからそんな言葉が出てくるとは思わなかったのだ。

(男らしくないって、怒るもんだと思ってたけど)

”自分が理解できないことを頭ッから否定する…”

(…え?)

”それがカッコいいとは思わねぇ。オレにはオレの、オマエにはオマエの都合がある。だろ?”

(それは…そうだけど)

”それに、オマエがそういう性格じゃなかったら、オレはこうして生きてねーんだ。腹が立ったりあきれたりすることはあるが、オマエそのものを否定することはねーよ”

(……お前、いいヤツ…なんだな)

”カッコいいヤツ、な”

レイヴンはそう言って胸を張った。
その姿を見て、悟は心から微笑む。

ただふと、あることを思い出した。

(そういえば…おれが助けたってお前は言うけど、お前あれから何も食べてないんじゃないのか?)

”…はァー……”

レイヴンは大きなため息をつく。
その心底ガッカリした様子に、悟は「あっ」と気づく。

(もしかしてそのあたりも、もう説明済みだっけ?)

”その通りだよバカ野郎。だがまあ…いいや、もう一度説明してやる”

(よろしく、おねがいします)

悟は、少し大げさに頭を下げた。
その態度で機嫌を直したのか、レイヴンは彼に説明をしてやった。

悟とレイヴンの出会いは、公園でのベンチ前だった。
面接がどうにもうまくいかない悟は、失意の中コンビニ弁当を食べていたのだが、からあげを落としてしまう。

砂にまみれてもう食べられなくなったからあげにつられる形で、レイヴンがやってきた。
ただのカラスとしか思わなかった悟は、その場で転ぶレイヴンをかわいそうに思い、追い払うことをせず落ちたからあげをレイヴンにあげた。

このことに関して、レイヴンは恩を感じているらしい。
それから悟とレイヴンは、人型の物体と共闘することになったのだが…それ以降、悟の前でレイヴンが何かを食べている姿を見たことがなかったのだ。

(えっと…)

悟は、レイヴンから一通りの説明を受けた。
すべては理解できなかったが、とりあえずレイヴンが今のところ食事をする必要がなくなった、ということは理解した。

(お前とおれがつながってる状態だから、お前は腹が減らないってことか)

”そうだ。まあ、1日に1回はこうやって直にくっつかねーと、オレも腹が減るけどな”

(ふむふむ…)

これまで悟は、レイヴンに説明されたことを『よくわからないこと』としか思わなかった。
だが、レイヴンが自分を『否定しない』と言ったことで、その気持ちが少し変化した。

わからないことも多いが、理解できる部分は理解していこう。
そんな気持ちが、悟の中に芽生え始めていた。

と、そこへ。

「さとるー!」

階下から、ハナの声が聞こえた。
その声を聞いて、悟は反射的に部屋の時計を見る。

時刻は昼前に差し掛かろうとしていた。
悟がそれを確認したタイミングで、ハナのよく通る声が聞こえてくる。

「そろそろお昼の準備をしとくれ! アタシを殺す気かい!」

(…レイヴン、悪いけど授業はまたあとでいいかな?)

悟はそう言って、ベッドから立ち上がろうとする。
レイヴンは素早く飛び立ち、ベッドに上に乗った。

「……」

触れあっていないので、レイヴンからの声は聞こえない。
彼はただ、あきれた様子で両翼を軽く広げてみせるのだった。


その翌日。

「…申し訳ございません。面接の時間はもう終了いたしました」

「……そう、ですか…」

悟は自分が予測していた通り、そして予定していた通り、また面接の日々を開始させた。
この日は2社受けてみたのだが、どちらも面接時間が過ぎるまで担当者が来ることはなかった。

「……」

気持ちは沈むが、レイヴンと出会ったあの日ほどではない。

あの日と同じように、時間が過ぎるまで何度も受付に並び、それでも面接すらできなかったが、泣きそうなところにまでは落ち込まなかった。

大学生の頃は、3社も4社も面接を受けていた。
だがそのどれも、面接の担当者に会うことはなかった。

その繰り返しで彼は心が折れ、面接は続けていたが日に何社も行くことはできなくなっていた。
だが彼はこの日、久しぶりに複数社の面接を再開させたのである。

「……今日もまともに面接できなかった…けど、やれるだけのことはやった、はず」

あまりにも面接をすっぽかすと判断され、ハローワークですら彼への紹介を露骨に嫌がるようになった。

職員のいらついた態度を見ているのがつらく、またそう言いたくなるのもわかってしまうだけに、悟は強く出ることもできなかった。

やがてハローワークの職員に迷惑をかけることが申し訳なくなった彼は、自分だけで職探しをすることにした。
そんな日々の中で、つらい気持ちが爆発したのがあの日だった。

”オレはオマエを否定しねぇ”

あの日出会ったレイヴンは、昨日彼にそう言った。
悟がそんな言葉を聞いたのは初めてだった。

彼が今まで出会ったどの人間も、彼にそんなことは言わなかった。
ただひとり、いや1羽というべきか、レイヴンだけが彼にそう言った。

だから彼は、レイヴンの言葉をもう一度聞こうと思った。
そして昨日のうちに急遽もう1社の面接を取りつけ、今日は2社で面接する機会を作った。

「…結果は出なかったけど……また、がんばろう」

悟はそうつぶやいて、小さくうなずく。
それは、他の人間にとっては取るに足らない決意だが、彼にとっては大きな決意だった。

家路につくため、彼は駅へと向かった。
駅前では新商品のアンケートをやっているらしく、試飲用の缶コーヒーが配られている。

「あ、すいませーん」

キャンペーンガールのひとりが、悟に近づいてきた。
悟がそちらを向くと、その格好が目に入る。

「わ」

上は丈の短いノースリーブで、前はジッパーで開け閉めできる服。
下はホットパンツでハイヒールを履いていた。

甘く開かれたジッパーからのぞく胸の谷間と、隠す気すらないへそ、そして太ももが悟には眩しい。
彼が戸惑っていると、キャンペーンガールは缶コーヒーを手渡してきた。

「今アンケート取らせていただいてまして、よかったらお時間いただけますかぁ?」

「え? あ、えっと」

「すぐ終わりますのでぇ」

「あ、は、はい…」

メリハリのある肉体と甘い声のコンビネーションは、悟を簡単に陥落させる。
彼は言われるがまま、試飲用のコーヒーを飲んだ。

「あ、これうまい」

「ホントですかぁ? ありがとうございますぅ!」

キャンペーンガールは嬉しそうに言い、素早い動きでボールペンとプラスチックの板を差し出してきた。
板にはアンケートの紙が載っている。

紙は板上部の横長クリップで挟まれている。
それを見た悟は、試飲用の缶コーヒーを飲み切って、左手に持っていたカバンを足の間に置いた。

キャンペーンガールからアンケートを受け取り、あてはまる感想にチェックを入れていく。
文章は既に用意されているので、悟はボールペンでチェックボックスにレ点を入れるだけでよかった。

「……」

彼がアンケートに記入するその姿を、キャンペーンガールはじっと見ている。
彼女はあの日、『人型の物体』が落ちてきた音を聞きつけてきた男女の中にいたのだが…

悟はそれを知らない。
必死になって茂みの中に隠れていた彼は、男女の顔を見ている余裕もなかった。

キャンペーンガールは、彼の様子をじっと見つめている。
その瞳の中に鋭い光が宿ったことに、悟が気づくことはなかった。


>Act.6へ続く

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