Act.3 勝利の三角関数
Act.3 勝利の三角関数
「まさか…まさか!」
人型の物体は、悟の姿を見て明らかにうろたえている。
背が高く、屈強といって差し支えないその体格から、野太い声が漏れていた。
「レイヴンごとき、失敗作が…パートナーを見つけるだと!」
(…失敗作?)
自分の身に起こったことで混乱していた悟だが、その言葉はふと彼の中に入ってきた。
どういうことなのかと思っていると、またカラスの声が聞こえてくる。
”一応言っとくぜ。オマエはまだレベル1、対してハトの野郎はレベル2だ”
(…え、なに? レベル?)
カラスの声に気を取られ、心に入ってきたはずの『失敗作』という言葉が飛んでしまう。
悟が詳細を尋ねる前に、カラスは続けてこう言った。
”力の差は歴然ってことだ。今のオマエじゃあの野郎には勝てねぇ”
(は…? いやちょっと待ってくれ)
悟は、カラスを見るべく上を見た。
ここまで状況に翻弄されるばかりの彼だったが、初めてカラスに向かって反論らしい反論をする。
(お前が、殺されない方法があるっていうから、おれは言うこと聞いたんだぞ…なのに勝てないってどういうことだよ!?)
”あせんじゃねーよバーカ”
カラスは、悟の反論に軽く返す。
『彼』はさらにこう続けた。
”真正面から殴り合う勝負じゃ、あの野郎には勝てねぇってことだ。だったら勝ち方を変えればいいんだぜ”
(勝ち方を、変える?)
”そうだ。ここでの勝利条件は、『無事に逃げおおせる』。これができればオマエの勝ちだ”
(逃げおおせる…)
”そしてそれをするための変身なんだぜ、今回はな”
(逃げる…)
カラスの言葉を聞いて、悟は少しだけ気が楽になった。
確かに、『明らかに普通ではない屈強な人型の物体と殴り合って勝て』というよりかは、逃げる方がまだ希望がある。
ただ、彼の中には疑問もあった。
(逃げれば…それで勝ち、ってことで…いいのか?)
悟は疑問を素直にカラスにぶつけてみた。
すると、カラスからはすぐに、あきれたような感情が返される。
”オマエバカか? 勝ったかどうかなんて、自分で決めるもんだろうが…これはスポーツの試合じゃねぇんだぞ。オマエの目には、どっかに審判がいるように見えるのか?”
(い、いや…審判がいるかどうかもわかんないけど…)
”そもそもな、生き物なんか『生き残ったモン勝ち』なんだぜ。いい思いをするのも、歴史を作るのも、偉業ってヤツをやり遂げるのだって生き残ったヤツなんだ”
(…まあ……そう言われれば、そんな気もするけど……)
”審判が欲しいってんなら、オレが審判になってやる。勝利条件はもう言ったぜ、『逃げるが勝ち』だ”
(う、うん)
”このオレが力を貸してやってんだ、オマエならきっとできる”
先ほどまで、悟を小バカにするような言動をしていたカラスが、急に優しい感情を送り込んできた。
悟はそのことに少々戸惑う。
ただ、戸惑いに心を任せていられる状況ではなくなってきていた。
「レイヴン…答えるがいい」
人型の物体が、そう言ったのが聞こえた。
悟が見ると、向こうは足をしっかり踏ん張った立ち方をしている。
足元の砂と、ブーツの底がこすれる音がする。
何かを仕掛けてくる気がして、悟の心に恐怖が芽生えた。
(…う……!)
彼の体は縮こまる。
カラスには『逃げるが勝ち』と言われたが、今は脚にうまく力が入りそうにない。
それどころか、力が入るのかどうかを考える余裕さえもなくしてしまう。
そんな彼に、人型の物体はさらにこう言った。
「私はずっと、脱走したお前を追っていた…1日、いや数時間も見失った覚えはない。その間に、お前がパートナーを見つけた様子はなかったし、そういった報告も受けていない」
「………」
「だというのに、お前はパートナーを見つけて『アナザーフェイス状態』にまでなった…一体どういうことだ?」
人型の物体は、体格に見合った太い声で尋ねてくる。
それだけで、悟の心は怯えきってしまう。
ただ、向こうが尋ねてきているのを無視するのもどうかと思ったのか、彼はカラスにこんな感情を送った。
(…な……なんか、答えろって言ってるけど…)
”オマエバカだろ? あんなもん無視すりゃいーんだよ”
(だ、だってさ……)
”言っとくが、オレがあの野郎にさっきまでのこと全部話したら、あの野郎はオマエとオマエのばあちゃんを殺しにいくぜ”
(…え!?)
悟の顔から血の気が引いた。
それは、考えられる中で最悪の展開だといってよかった。
(ちょ、ちょっと待ってくれよ)
”なにあせってんだオマエ。この状況で、オレがあの野郎にオマエのこと全部言うわけねーだろうが。それに、殺しに行くかどうかも状況による”
(で、ででででも)
”そうなるかどうかは、ここから逃げられるかどうかにかかってんだぜ”
(……や、やるしか、ないって…ことか)
”ヤんなくていいんだよ、逃げられりゃそれでいいんだ。今こんだけビビリまくってるオマエが、力の差もあるってのに、あの野郎をぶちのめせるわけねーだろ”
(…それは…まあ……)
”だから、逃げられりゃそれでいいんだよ。オマエらニンゲンは、逃げることを悪だって思い過ぎ……”
カラスがそこまで言ったところで、人型の物体から一際強い声が発せられた。
「レイヴン、答えろ!」
「う、うわ」
その声に驚いて、悟は思わず声を出してしまう。
(…!?)
自分が発した声を聞いて、彼は両手をのどに当てた。
(なんだ今の!? 声が…おれの声じゃない?)
「…その動き、まだ変身して間もないな?」
人型の物体は、悟の動きから何かに気づいたらしい。
カラスはすぐさま、強い感情を送り込んできた。
”レベル1ってのがバレたぜ! さあ、防御の時間だ!”
(…は?)
”来るぜ!”
(えっ、ちょ…)
「レベル1ならば、今のうちにパートナーを始末してくれる!」
悟が戸惑っているのも構わず、いやむしろそれを狙ってなのか、人型の物体は地面を蹴って彼に向かってきた。
それと同時に、人型の物体は背中から紫色の翼を生やし、滑空するように飛んでくる。
(まって……)
悟はそう思うのだが、翼を生やした人型の物体はぐんぐん近づいてくる。
その動きが、やけにゆっくりしているように見えてきた。
”…両腕を…クロス……!”
カラスの声も、なぜかゆっくりと聞こえてくる。
そのおかげで、悟はどうにかその言葉に対応することができた。
必死になって、両腕を胸の前で交差させる。
するとその直後。
交差させた腕に、衝撃が来た。
「うわっ!?」
人型の物体に肩からぶつかられ、悟の体は後ろへ弾き飛ばされる。
その衝撃と、足を踏ん張っていなかったのが重なり、彼はまるで蹴られたボールのように公演の中を10メートルほど飛んだ。
やがて勢いを失った体は、重力にからめとられるように地面へと落ちる。
「うっ」
落下の衝撃を全身に感じた。
だが不思議と、痛みなどは感じない。
(あれ…)
”ぼんやりしてんな! 右だ!”
(え?)
カラスの声にふと右を見ると、いつの間にか人型の物体がそこにいた。
足を上げ、全体重をかけて踏みつけにしようとしているところだった。
(うわ!)
この時はさすがに、『人型の物体が右手にいる』ということ以上の助言はいらなかった。
悟は慌てて体を左方向へ転がし、踏みつけから逃れる。
「ぬぅ!」
悟が攻撃から逃れたところで、人型の物体はいまいましげな声を出した。
そこで一度攻撃を止め、悟がどうするかを見守る。
”よし、今のうちに立て!”
「う、うぅ…」
カラスの強い感情に動かされるように、悟はどうにか立ち上がった。
だが人型の物体を見る目は、怯えの色に染まっている。
ヘルメットのバイザー部分でそれは向こうには見えない。
ただ、カラスには筒抜けだった。
”おいちょっとビビりすぎなんじゃねーのか? オレがわざわざ言わなくても、避けたらすぐに立て!”
(そ、そんなこと言ったってさ…! アイツ、あんな本気で…)
”オマエを始末するっつってんだから、そりゃ本気でくるだろ”
(いや、だって…)
カラスに反論しようとする悟だが、それ以上は言葉にならない。
ただ怖いという感情だけが、彼の心を満たしている。
一方、人型の物体は、腕組みをしながらこう言った。
「なるほど…レベル1とて、頑強さはさすがにアナザーフェイス状態か」
「……!」
相手の言葉に、びくりと体を震わせながら悟はそちらを見る。
次の瞬間、その口から驚嘆の声が漏れた。
「な…なんだあれ…」
腕組みをした人型の物体は、紫色の翼をもう一度広げていた。
悟は最初に攻撃された時にそれを見たはずなのだが、驚きのあまり『初めて見たような口調』でつぶやいていた。
カラスはそれが気になる。
”なんだアレ、ってオマエさっきも見たろ? なにいってんだ?”
(い、いやだって、なんだよあれ!? なんで翼生えてんだ…)
悟の目は、人型の物体から離れない。
屈強な体格で腕組みをし、さらに翼を大きく広げたその姿は、悠然という他なかった。
恐怖もあるが、どこか美しささえ感じる。
そんな奇妙な感情を、悟は人型の物体から感じさせられていた。
そこへカラスの言葉が飛ぶ。
”おい見とれてんじゃねーぞバカ!”
(…あ)
悟は我に返った。
それに気づいたカラスは、さらにこう続ける。
”なんだよアレ? って言うから教えてやるぜ。あれがレベル2の状態だ…スプレッダに対応した『翼』を使うことができる”
(…あれが、レベル2……)
”オレたちはレベル1だ。だから『翼』はねぇ。だがあの野郎には『翼』がある。だから空も飛べたんだ”
(…へ……!?)
空も飛べた、というカラスの言葉に、悟は新たな驚きを禁じ得ない。
まさか人の姿をしていながら空を飛べるなど、彼の常識では考えられないのだ。
だがカラスはそれを軽々と両断する。
”へ!? じゃねーんだよバカ野郎。アイツがここに落ちてきたのも、さっきオマエに突っ込んできたのも、翼があったからできたことだろーが”
(い、いや、でもさ…さっきから、なんかめちゃくちゃじゃないか…?)
”言っとくがな、オマエももうその『めちゃくちゃ』の中にいるんだぜ”
(……ウソ、だろ…)
”…あー……こりゃダメかな、オマエ死ぬかも”
カラスは、あきれたようにそう言った。
その言葉に、悟は心の芯から冷えるような感覚を得る。
(し、死ぬ…?)
ここで恐怖が限界を突破したのか、悟はまったく動けなくなった。
ひざはがくがくと震え始め、立っているだけで精一杯になる。
その様子に気付いてか、人型の物体は軽く笑った。
「フフ…今さら実力の差に気づいたか。いくらレイヴンのパートナーになれたとはいえ、その力を使いこなせねば意味などない」
(…お、おれが……死ぬ…)
悟には、人型の物体からの声は届いていない。
自分に近づきつつある、死の足音だけを聞いている。
”……”
悟は完全に恐慌状態に陥ってしまった。
だがカラスは、そんな彼に向かって何も言わない。
そのことがさらに、悟の心を冷やしていく。
(た、助けてくれるって…言ったのに、カラス……どうしたら? どうしたら…いいんだ)
”………”
「震えているではないか。フフ、才能のない者をパートナーに選ぶとは、レイヴンもつくづく運がない」
(し、死にたくない…おれは、まだ……死にたくない)
”……”
人型の物体は嘲笑し、カラスは返答しない。
悟にとって、悪いことばかりが起こっている。
「スフィアでの決闘であれば、力を奪えたが…まあ仕方ない、パートナーを始末してレイヴンを連れ帰れば、私は……」
人型の物体は、悟を眺めながら何かを話している。
だが悟にはもう、その言葉も聞こえていない。
(なんで…なんでこんなことに……おれ、なんにもしてないのに…!)
悟は、もはや立っていられなくなった。
その場にうずくまり、頭を抱えてただ震える。
彼の姿に、人型の物体はあきれた様子でこう言った。
「情けない姿をさらすんじゃない…男だか女だか知らんが、戦いの時に見せていい姿ではないぞ」
(……うぅ…! イヤだ、死にたくない…!)
「レイヴンに無理やり巻き込まれ、恐怖のあまり動けなくなった…というところか」
人型の物体は、悟の事情を察したらしい。
一度ため息をつき、腕組みを解いた。
「その不運には同情するが、この世には知ってはいけないことがある…それに巻き込まれた己の不運を呪うがいい」
(…こわい……こわい………!)
「始末させてもらうぞ、レイヴンのパートナー!」
強い声とともに、人型の物体は両手を握りしめる。
そして翼をはためかせ、怯える悟に向かって飛んできた。
(……死にたくない………!)
”………”
ひたすら体を震わせる悟。
そして何も言わないカラス。
ふたりがひとつとなっているその体に、人型の物体が襲いかかってくる。
「ぬぉおおおおおおおおおお……!」
屈強なその体を弾丸のように飛ばし、右手を前に突き出す。
大きな拳は、うずくまった悟をしっかりと狙っている。
「…おおおおおおおおお……!」
人型の物体が発する雄叫びが聞こえてくる。
それがだんだんと大きくなってくる。
悟の鼓膜がそれによって震える。
(イヤだ……!)
殺される恐怖が、悟の中で突き抜けた時。
「…な、なにっ!?」
なぜか、人型の物体は悟のそばで止まった。
勢いよく飛んできていたのが急に止まったので、強い風が悟を包み込んだ。
「………!」
風に包まれた悟は、その場で全身をびくりと震わせる。
そのすぐそば、距離2メートルほどのところで、人型の物体は周囲を見回している。
「あの体勢から消えるだと…!?」
人型の物体はそう言うのだが、悟はすぐそばにいる。
消えるも何も、彼はまったく動いていない。
だが、悟は見つかっていない。
人型の物体による突撃は、途中で、彼の目前で止まってしまった。
「レベル1で、しかもそれまでまったく動かなかったのに、いきなり消えるなどと…そんなことが……むっ!?」
周囲を見回していた人型の物体は、ふとある方向で視点を留めた。
公園の外にいる数人の男女が、こちらに小走りで向かってくる。
散歩で公園に入ってきた、という様子ではない。
どうやら、人型の物体が落下した時の音を聞きつけたようだ。
そのことに本人も気づく。
「ちィ…! レイヴンを捕らえようと急ぎすぎたか! ここは一度退かねばならん!」
そう言って、人型の物体はその場から真上に飛び立った。
飛び立つ時にまた風が巻き起こり、うずくまったままの悟を包み込む。
その風の音とともに、小さくカラスの声が聞こえてきた。
”…オマエの勝ちだ”
「……?」
悟には、カラスが言った意味がわからなかった。
ただここでようやく、人型の物体が去っていったらしいということに気づいた。
”とにかく隠れろ。そんな格好で見つかったら、いろいろとヤバいだろ”
(う……うん…)
公園に入ってきた男女たちに見つからないよう、彼はカバンと弁当の空き容器が入ったビニール袋を持って、茂みの中へ隠れた。
悟が隠れてからしばらくして、男女たちの声がはっきりと聞こえてくる。
「なんかすっげー音したのここか?」
「何もいないね」
「うわっ、なんだこの砂? なんか花火みたいになってるぜ」
公園に入ってきた男女たちは、人型の物体が落下した地点を見て驚きの声をあげている。
声の他にシャッター音も聞こえたことから、どうやらスマートフォンで写真を撮って、SNSにアップロードしているようだ。
(……あ)
悟がシャッター音に気づいたあたりで、彼の姿が甲冑つき全身タイツからスーツ姿へと戻った。
その直後、カラスの声がまた聞こえてくる。
”もう一度言ってやる。オマエの勝ちだ”
(……おれ、の…?)
”オマエはあの野郎から逃げ切った。オマエは勝利条件を満たした。だからオマエの勝ちだ”
(………)
悟には、どう返事をすればいいのかがわからなかった。
ただぼんやりとしていると、カラスは彼にこう告げる。
”オマエはよくやったぜ”
(……あ…)
その言葉とともに、悟の瞳から涙がこぼれた。
彼は茂みの中で、声をあげないように泣いた。
それは命の危機から脱した嬉しさからだったのか、カラスから褒められたからだったのか。
悟にはよくわからない。
ただ、涙はしばらく止まってくれそうもなかった。
頬にできた涙の筋は、やけに熱く感じられた。
>Act.4へ続く
→目次へ
「まさか…まさか!」
人型の物体は、悟の姿を見て明らかにうろたえている。
背が高く、屈強といって差し支えないその体格から、野太い声が漏れていた。
「レイヴンごとき、失敗作が…パートナーを見つけるだと!」
(…失敗作?)
自分の身に起こったことで混乱していた悟だが、その言葉はふと彼の中に入ってきた。
どういうことなのかと思っていると、またカラスの声が聞こえてくる。
”一応言っとくぜ。オマエはまだレベル1、対してハトの野郎はレベル2だ”
(…え、なに? レベル?)
カラスの声に気を取られ、心に入ってきたはずの『失敗作』という言葉が飛んでしまう。
悟が詳細を尋ねる前に、カラスは続けてこう言った。
”力の差は歴然ってことだ。今のオマエじゃあの野郎には勝てねぇ”
(は…? いやちょっと待ってくれ)
悟は、カラスを見るべく上を見た。
ここまで状況に翻弄されるばかりの彼だったが、初めてカラスに向かって反論らしい反論をする。
(お前が、殺されない方法があるっていうから、おれは言うこと聞いたんだぞ…なのに勝てないってどういうことだよ!?)
”あせんじゃねーよバーカ”
カラスは、悟の反論に軽く返す。
『彼』はさらにこう続けた。
”真正面から殴り合う勝負じゃ、あの野郎には勝てねぇってことだ。だったら勝ち方を変えればいいんだぜ”
(勝ち方を、変える?)
”そうだ。ここでの勝利条件は、『無事に逃げおおせる』。これができればオマエの勝ちだ”
(逃げおおせる…)
”そしてそれをするための変身なんだぜ、今回はな”
(逃げる…)
カラスの言葉を聞いて、悟は少しだけ気が楽になった。
確かに、『明らかに普通ではない屈強な人型の物体と殴り合って勝て』というよりかは、逃げる方がまだ希望がある。
ただ、彼の中には疑問もあった。
(逃げれば…それで勝ち、ってことで…いいのか?)
悟は疑問を素直にカラスにぶつけてみた。
すると、カラスからはすぐに、あきれたような感情が返される。
”オマエバカか? 勝ったかどうかなんて、自分で決めるもんだろうが…これはスポーツの試合じゃねぇんだぞ。オマエの目には、どっかに審判がいるように見えるのか?”
(い、いや…審判がいるかどうかもわかんないけど…)
”そもそもな、生き物なんか『生き残ったモン勝ち』なんだぜ。いい思いをするのも、歴史を作るのも、偉業ってヤツをやり遂げるのだって生き残ったヤツなんだ”
(…まあ……そう言われれば、そんな気もするけど……)
”審判が欲しいってんなら、オレが審判になってやる。勝利条件はもう言ったぜ、『逃げるが勝ち』だ”
(う、うん)
”このオレが力を貸してやってんだ、オマエならきっとできる”
先ほどまで、悟を小バカにするような言動をしていたカラスが、急に優しい感情を送り込んできた。
悟はそのことに少々戸惑う。
ただ、戸惑いに心を任せていられる状況ではなくなってきていた。
「レイヴン…答えるがいい」
人型の物体が、そう言ったのが聞こえた。
悟が見ると、向こうは足をしっかり踏ん張った立ち方をしている。
足元の砂と、ブーツの底がこすれる音がする。
何かを仕掛けてくる気がして、悟の心に恐怖が芽生えた。
(…う……!)
彼の体は縮こまる。
カラスには『逃げるが勝ち』と言われたが、今は脚にうまく力が入りそうにない。
それどころか、力が入るのかどうかを考える余裕さえもなくしてしまう。
そんな彼に、人型の物体はさらにこう言った。
「私はずっと、脱走したお前を追っていた…1日、いや数時間も見失った覚えはない。その間に、お前がパートナーを見つけた様子はなかったし、そういった報告も受けていない」
「………」
「だというのに、お前はパートナーを見つけて『アナザーフェイス状態』にまでなった…一体どういうことだ?」
人型の物体は、体格に見合った太い声で尋ねてくる。
それだけで、悟の心は怯えきってしまう。
ただ、向こうが尋ねてきているのを無視するのもどうかと思ったのか、彼はカラスにこんな感情を送った。
(…な……なんか、答えろって言ってるけど…)
”オマエバカだろ? あんなもん無視すりゃいーんだよ”
(だ、だってさ……)
”言っとくが、オレがあの野郎にさっきまでのこと全部話したら、あの野郎はオマエとオマエのばあちゃんを殺しにいくぜ”
(…え!?)
悟の顔から血の気が引いた。
それは、考えられる中で最悪の展開だといってよかった。
(ちょ、ちょっと待ってくれよ)
”なにあせってんだオマエ。この状況で、オレがあの野郎にオマエのこと全部言うわけねーだろうが。それに、殺しに行くかどうかも状況による”
(で、ででででも)
”そうなるかどうかは、ここから逃げられるかどうかにかかってんだぜ”
(……や、やるしか、ないって…ことか)
”ヤんなくていいんだよ、逃げられりゃそれでいいんだ。今こんだけビビリまくってるオマエが、力の差もあるってのに、あの野郎をぶちのめせるわけねーだろ”
(…それは…まあ……)
”だから、逃げられりゃそれでいいんだよ。オマエらニンゲンは、逃げることを悪だって思い過ぎ……”
カラスがそこまで言ったところで、人型の物体から一際強い声が発せられた。
「レイヴン、答えろ!」
「う、うわ」
その声に驚いて、悟は思わず声を出してしまう。
(…!?)
自分が発した声を聞いて、彼は両手をのどに当てた。
(なんだ今の!? 声が…おれの声じゃない?)
「…その動き、まだ変身して間もないな?」
人型の物体は、悟の動きから何かに気づいたらしい。
カラスはすぐさま、強い感情を送り込んできた。
”レベル1ってのがバレたぜ! さあ、防御の時間だ!”
(…は?)
”来るぜ!”
(えっ、ちょ…)
「レベル1ならば、今のうちにパートナーを始末してくれる!」
悟が戸惑っているのも構わず、いやむしろそれを狙ってなのか、人型の物体は地面を蹴って彼に向かってきた。
それと同時に、人型の物体は背中から紫色の翼を生やし、滑空するように飛んでくる。
(まって……)
悟はそう思うのだが、翼を生やした人型の物体はぐんぐん近づいてくる。
その動きが、やけにゆっくりしているように見えてきた。
”…両腕を…クロス……!”
カラスの声も、なぜかゆっくりと聞こえてくる。
そのおかげで、悟はどうにかその言葉に対応することができた。
必死になって、両腕を胸の前で交差させる。
するとその直後。
交差させた腕に、衝撃が来た。
「うわっ!?」
人型の物体に肩からぶつかられ、悟の体は後ろへ弾き飛ばされる。
その衝撃と、足を踏ん張っていなかったのが重なり、彼はまるで蹴られたボールのように公演の中を10メートルほど飛んだ。
やがて勢いを失った体は、重力にからめとられるように地面へと落ちる。
「うっ」
落下の衝撃を全身に感じた。
だが不思議と、痛みなどは感じない。
(あれ…)
”ぼんやりしてんな! 右だ!”
(え?)
カラスの声にふと右を見ると、いつの間にか人型の物体がそこにいた。
足を上げ、全体重をかけて踏みつけにしようとしているところだった。
(うわ!)
この時はさすがに、『人型の物体が右手にいる』ということ以上の助言はいらなかった。
悟は慌てて体を左方向へ転がし、踏みつけから逃れる。
「ぬぅ!」
悟が攻撃から逃れたところで、人型の物体はいまいましげな声を出した。
そこで一度攻撃を止め、悟がどうするかを見守る。
”よし、今のうちに立て!”
「う、うぅ…」
カラスの強い感情に動かされるように、悟はどうにか立ち上がった。
だが人型の物体を見る目は、怯えの色に染まっている。
ヘルメットのバイザー部分でそれは向こうには見えない。
ただ、カラスには筒抜けだった。
”おいちょっとビビりすぎなんじゃねーのか? オレがわざわざ言わなくても、避けたらすぐに立て!”
(そ、そんなこと言ったってさ…! アイツ、あんな本気で…)
”オマエを始末するっつってんだから、そりゃ本気でくるだろ”
(いや、だって…)
カラスに反論しようとする悟だが、それ以上は言葉にならない。
ただ怖いという感情だけが、彼の心を満たしている。
一方、人型の物体は、腕組みをしながらこう言った。
「なるほど…レベル1とて、頑強さはさすがにアナザーフェイス状態か」
「……!」
相手の言葉に、びくりと体を震わせながら悟はそちらを見る。
次の瞬間、その口から驚嘆の声が漏れた。
「な…なんだあれ…」
腕組みをした人型の物体は、紫色の翼をもう一度広げていた。
悟は最初に攻撃された時にそれを見たはずなのだが、驚きのあまり『初めて見たような口調』でつぶやいていた。
カラスはそれが気になる。
”なんだアレ、ってオマエさっきも見たろ? なにいってんだ?”
(い、いやだって、なんだよあれ!? なんで翼生えてんだ…)
悟の目は、人型の物体から離れない。
屈強な体格で腕組みをし、さらに翼を大きく広げたその姿は、悠然という他なかった。
恐怖もあるが、どこか美しささえ感じる。
そんな奇妙な感情を、悟は人型の物体から感じさせられていた。
そこへカラスの言葉が飛ぶ。
”おい見とれてんじゃねーぞバカ!”
(…あ)
悟は我に返った。
それに気づいたカラスは、さらにこう続ける。
”なんだよアレ? って言うから教えてやるぜ。あれがレベル2の状態だ…スプレッダに対応した『翼』を使うことができる”
(…あれが、レベル2……)
”オレたちはレベル1だ。だから『翼』はねぇ。だがあの野郎には『翼』がある。だから空も飛べたんだ”
(…へ……!?)
空も飛べた、というカラスの言葉に、悟は新たな驚きを禁じ得ない。
まさか人の姿をしていながら空を飛べるなど、彼の常識では考えられないのだ。
だがカラスはそれを軽々と両断する。
”へ!? じゃねーんだよバカ野郎。アイツがここに落ちてきたのも、さっきオマエに突っ込んできたのも、翼があったからできたことだろーが”
(い、いや、でもさ…さっきから、なんかめちゃくちゃじゃないか…?)
”言っとくがな、オマエももうその『めちゃくちゃ』の中にいるんだぜ”
(……ウソ、だろ…)
”…あー……こりゃダメかな、オマエ死ぬかも”
カラスは、あきれたようにそう言った。
その言葉に、悟は心の芯から冷えるような感覚を得る。
(し、死ぬ…?)
ここで恐怖が限界を突破したのか、悟はまったく動けなくなった。
ひざはがくがくと震え始め、立っているだけで精一杯になる。
その様子に気付いてか、人型の物体は軽く笑った。
「フフ…今さら実力の差に気づいたか。いくらレイヴンのパートナーになれたとはいえ、その力を使いこなせねば意味などない」
(…お、おれが……死ぬ…)
悟には、人型の物体からの声は届いていない。
自分に近づきつつある、死の足音だけを聞いている。
”……”
悟は完全に恐慌状態に陥ってしまった。
だがカラスは、そんな彼に向かって何も言わない。
そのことがさらに、悟の心を冷やしていく。
(た、助けてくれるって…言ったのに、カラス……どうしたら? どうしたら…いいんだ)
”………”
「震えているではないか。フフ、才能のない者をパートナーに選ぶとは、レイヴンもつくづく運がない」
(し、死にたくない…おれは、まだ……死にたくない)
”……”
人型の物体は嘲笑し、カラスは返答しない。
悟にとって、悪いことばかりが起こっている。
「スフィアでの決闘であれば、力を奪えたが…まあ仕方ない、パートナーを始末してレイヴンを連れ帰れば、私は……」
人型の物体は、悟を眺めながら何かを話している。
だが悟にはもう、その言葉も聞こえていない。
(なんで…なんでこんなことに……おれ、なんにもしてないのに…!)
悟は、もはや立っていられなくなった。
その場にうずくまり、頭を抱えてただ震える。
彼の姿に、人型の物体はあきれた様子でこう言った。
「情けない姿をさらすんじゃない…男だか女だか知らんが、戦いの時に見せていい姿ではないぞ」
(……うぅ…! イヤだ、死にたくない…!)
「レイヴンに無理やり巻き込まれ、恐怖のあまり動けなくなった…というところか」
人型の物体は、悟の事情を察したらしい。
一度ため息をつき、腕組みを解いた。
「その不運には同情するが、この世には知ってはいけないことがある…それに巻き込まれた己の不運を呪うがいい」
(…こわい……こわい………!)
「始末させてもらうぞ、レイヴンのパートナー!」
強い声とともに、人型の物体は両手を握りしめる。
そして翼をはためかせ、怯える悟に向かって飛んできた。
(……死にたくない………!)
”………”
ひたすら体を震わせる悟。
そして何も言わないカラス。
ふたりがひとつとなっているその体に、人型の物体が襲いかかってくる。
「ぬぉおおおおおおおおおお……!」
屈強なその体を弾丸のように飛ばし、右手を前に突き出す。
大きな拳は、うずくまった悟をしっかりと狙っている。
「…おおおおおおおおお……!」
人型の物体が発する雄叫びが聞こえてくる。
それがだんだんと大きくなってくる。
悟の鼓膜がそれによって震える。
(イヤだ……!)
殺される恐怖が、悟の中で突き抜けた時。
「…な、なにっ!?」
なぜか、人型の物体は悟のそばで止まった。
勢いよく飛んできていたのが急に止まったので、強い風が悟を包み込んだ。
「………!」
風に包まれた悟は、その場で全身をびくりと震わせる。
そのすぐそば、距離2メートルほどのところで、人型の物体は周囲を見回している。
「あの体勢から消えるだと…!?」
人型の物体はそう言うのだが、悟はすぐそばにいる。
消えるも何も、彼はまったく動いていない。
だが、悟は見つかっていない。
人型の物体による突撃は、途中で、彼の目前で止まってしまった。
「レベル1で、しかもそれまでまったく動かなかったのに、いきなり消えるなどと…そんなことが……むっ!?」
周囲を見回していた人型の物体は、ふとある方向で視点を留めた。
公園の外にいる数人の男女が、こちらに小走りで向かってくる。
散歩で公園に入ってきた、という様子ではない。
どうやら、人型の物体が落下した時の音を聞きつけたようだ。
そのことに本人も気づく。
「ちィ…! レイヴンを捕らえようと急ぎすぎたか! ここは一度退かねばならん!」
そう言って、人型の物体はその場から真上に飛び立った。
飛び立つ時にまた風が巻き起こり、うずくまったままの悟を包み込む。
その風の音とともに、小さくカラスの声が聞こえてきた。
”…オマエの勝ちだ”
「……?」
悟には、カラスが言った意味がわからなかった。
ただここでようやく、人型の物体が去っていったらしいということに気づいた。
”とにかく隠れろ。そんな格好で見つかったら、いろいろとヤバいだろ”
(う……うん…)
公園に入ってきた男女たちに見つからないよう、彼はカバンと弁当の空き容器が入ったビニール袋を持って、茂みの中へ隠れた。
悟が隠れてからしばらくして、男女たちの声がはっきりと聞こえてくる。
「なんかすっげー音したのここか?」
「何もいないね」
「うわっ、なんだこの砂? なんか花火みたいになってるぜ」
公園に入ってきた男女たちは、人型の物体が落下した地点を見て驚きの声をあげている。
声の他にシャッター音も聞こえたことから、どうやらスマートフォンで写真を撮って、SNSにアップロードしているようだ。
(……あ)
悟がシャッター音に気づいたあたりで、彼の姿が甲冑つき全身タイツからスーツ姿へと戻った。
その直後、カラスの声がまた聞こえてくる。
”もう一度言ってやる。オマエの勝ちだ”
(……おれ、の…?)
”オマエはあの野郎から逃げ切った。オマエは勝利条件を満たした。だからオマエの勝ちだ”
(………)
悟には、どう返事をすればいいのかがわからなかった。
ただぼんやりとしていると、カラスは彼にこう告げる。
”オマエはよくやったぜ”
(……あ…)
その言葉とともに、悟の瞳から涙がこぼれた。
彼は茂みの中で、声をあげないように泣いた。
それは命の危機から脱した嬉しさからだったのか、カラスから褒められたからだったのか。
悟にはよくわからない。
ただ、涙はしばらく止まってくれそうもなかった。
頬にできた涙の筋は、やけに熱く感じられた。
>Act.4へ続く
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