今日も雨である。
早くも「秋雨」の時季に差し掛かったのかと思うほど、雨に遭う。
8月11日以降、先々週の週末に極大期を迎えたペルセウス流星群も意外に疎らで、運が良ければポツンと流れる流星の軌跡が見れるくらいだった。
ピークは過ぎても見れない訳じゃない。そんな思いから、毎日、夕刻から早朝にかけて、美ヶ原や高ボッチ高原に出撃をかけたのだが・・・
あれは高2の夏休み、自転車で女の子を後ろに乗せた2ケツでコンビニへ買い物に行く途中、
「あ、流れ星!」
後ろで歓声が上がる。俺は必死にペダルを漕いでバランスを取ってるってのに、いい気なもんだ。
空気の乾燥した内陸・信州にしては、蒸し暑い夜だった。
週末毎に訪れる台風と、連日の激しい夕立と雷雨。お盆休みも終わりの頃だった。
コンビニで、ジュースとおやつ、レジ前のワゴンで目に付いた線香花火を買い込む彼女。
帰宅し、常夜灯を避けて、駐車場の隅で花火をやった。
彼女「線香花火って、何か寂しい・・・」
俺 「送り盆には相応しいだろ。賑やかいのは、迎えでやった」
彼女「理屈っぽいって、ひとから言われない?」
俺 「目先の感情に振り回されるより、マシだ」
彼女「あ、また流れ星」
俺 「消えるまでに、3回願い事言えたら、叶うかな?」
彼女「叶うと良いね」
まだ、あどけない少年だった日の思い出である。それが今や、すっかり擦れっ枯らしの禿げオヤジ・・・
ま、いいさ。
今年のお盆は(トンボ返りだったが)御無沙汰だった千葉の墓参りも済ませたし、片道8時間の孤独なドライブも苦にならないのが確認できた。が、さすがにピグ・ライフの為に、無料のアクセス・ポイントを探しながらのドライブは疲れた。移動しながらでも、動画サイトを垂れ流しに出来るようになれば、インターネットも完璧だな。
夏も終わりである。
盆休みも、間もなく終わりだが、墓参りが終わってない。
母方の墓所は、地元・松本と新潟に先祖代々の墓があって、こちらは4~5時間のドライブを楽しむついでに出来るが、父方は千葉である。それも房総半島の突端。日蓮宗発祥の誕生寺に菩提がある。高速を使わないとなると、新潟行きの倍以上かかる。
(高速料金の完全無料化は、永遠に実現しそうにない。松本から野田空港までの格安エア・タクシー飛ばせよ!馬鹿市長!!カツラ、ひん剥くぞ!!!)
ガキの頃、夏休みの前半を新潟で過ごし、盆を迎えた後半を千葉で過ごしていた。
父方の墓参りを最後にしたのは、いつだったかと思い返すと、1988年の5月の連休である。23年も前の話だ。
何しろ、俺が生まれる遥か以前に死んでいるのだから、話には聞いても、父方の祖父母には会った事はない。
はるか昔、本家の屋代が火事で焼けて、写真もないので遺影も無い。俺の父方のじいさん、ばあさんが、どんな姿形だったかを知る術はない。俺の親父は、8人兄弟の末弟。腹違いの前妻の伯父さん、伯母さん。後妻の同腹の伯父さんと親父を見れば、大凡その見当は付く。
俺も生まれた時から、従兄の誰それに似てると言われ続けたから、大体の察しはつく。
さぞや、雄々しい男伊達であったろう。
(頭は禿てたらしいが・・・、俺もハゲだし♪)
と言う訳で、今週末は千葉までロング・ドライブしようかと思ってる。
ガソリン価格が下がっているとは言うが、一体、いくら掛かる事やら・・・
行った先で、帰りの路銀を稼ぐ方策はあるのか?
ま、いいさ。何とかなるさ。何とかするさ。
盆休みも、間もなく終わりだが、墓参りが終わってない。
母方の墓所は、地元・松本と新潟に先祖代々の墓があって、こちらは4~5時間のドライブを楽しむついでに出来るが、父方は千葉である。それも房総半島の突端。日蓮宗発祥の誕生寺に菩提がある。高速を使わないとなると、新潟行きの倍以上かかる。
(高速料金の完全無料化は、永遠に実現しそうにない。松本から野田空港までの格安エア・タクシー飛ばせよ!馬鹿市長!!カツラ、ひん剥くぞ!!!)
ガキの頃、夏休みの前半を新潟で過ごし、盆を迎えた後半を千葉で過ごしていた。
父方の墓参りを最後にしたのは、いつだったかと思い返すと、1988年の5月の連休である。23年も前の話だ。
何しろ、俺が生まれる遥か以前に死んでいるのだから、話には聞いても、父方の祖父母には会った事はない。
はるか昔、本家の屋代が火事で焼けて、写真もないので遺影も無い。俺の父方のじいさん、ばあさんが、どんな姿形だったかを知る術はない。俺の親父は、8人兄弟の末弟。腹違いの前妻の伯父さん、伯母さん。後妻の同腹の伯父さんと親父を見れば、大凡その見当は付く。
俺も生まれた時から、従兄の誰それに似てると言われ続けたから、大体の察しはつく。
さぞや、雄々しい男伊達であったろう。
(頭は禿てたらしいが・・・、俺もハゲだし♪)
と言う訳で、今週末は千葉までロング・ドライブしようかと思ってる。
ガソリン価格が下がっているとは言うが、一体、いくら掛かる事やら・・・
行った先で、帰りの路銀を稼ぐ方策はあるのか?
ま、いいさ。何とかなるさ。何とかするさ。
(17)
1991年12月。
命からがら北アフリカを脱出し、イタリアのフランスと国境を接する港町に上陸した俺。
道中、様々な失敗に肝を冷やしながら、ようやっと辿り着いた。
その俺を、旧来の知己である(すぐ後に義兄となる)T氏が待ち構えていた。この男のプロフィールを掻い摘んで語るなら、日本人、高校卒業後、自衛隊に入隊。教育隊の後、1期を務め、除隊後は英国経由でフランスに渡り、フランス外人部隊に入隊。アルジェリア、ジプチとアフリカ駐留を経て、除隊後はフランス国籍を得て、貿易商となり、当時はパリに在住。ドイツ人の女房と二人の男の子の父親である。趣味は、ジョギング。1日30kmは走る。暇さえあれば走る。完全なジョギング中毒である。
(死ぬまで走ってろ。心臓麻痺で死ねばいい)
俺が彼と知り合ったのは、俺がまだ中学生の頃に読んだ雑誌の投稿記事による。1980年代の当時は「個人情報保護法」などという馬鹿げた法律はなく、本人が希望しない限り、住所も氏名も公表されるのが当たり前だった。
(匿名希望などという姑息な輩が、世間に対して文句を垂れるなど笑止千万。誰に恥じる事なく真っ当にやってるなら、堂々と名乗りを挙げてから意見を述べよ)
169センチ、57キロと日本人の標準からみても、やや痩せ気味。映画でお馴染みのマッチョな元・傭兵の設定と現実のそれは違うもの。それでも兵隊稼業は、肉体労働である。スポーツ・ジムで鍛えた役立たずの筋肉と、実務で鍛えられた筋肉とでは雲泥の差があるものだ。
俺より14歳も年上のT氏だが、俺とは苗字は違うが名前が同じ。それも縁で親交を深めた経緯がある。
名は体を表す。ついでに、類は友を呼ぶ、と言ったところか?
「お帰り。さあて、生きて戻った御褒美に何が欲しい? 酒か、女か?」
T氏は、開口一番、能天気な質問をよこす野郎であった。
「コーヒー、くれ。・・・それと風呂」
俺は、久しぶりに日本人(元、ではあるが、れっきとした日本生まれの日本人である)と日本語を話す。今、思い出しても我ながら謎だが、何故、コーヒーなのか? もっと色気や湿気(ユーモアとウィット)のある返答も出来ただろうにと悔やまれるが、ソマリアから逃亡してきた道中、経由した国も密入国、密出国。欧州の土を踏んでも、まだ異国である。油断は出来なかった。
イベリア半島からの移民で、ビヤ樽のようなオバさんが大家をしているアパルトマンの部屋を紹介してもらった。日本へ戻るつもりはなかった。
約3か月ぶりのシャワーとバスタブの湯に浸かり、垢と髭を落とす。俺の天然パーマの髪の毛も伸び放題で、所々結び目が出来るくらい、むさ苦しかったが、床屋は後回しだ。
大家のオバさんの賄いで、俺の大っ嫌いなナスとトマトとオリーブ油たっぷりの、久々に家畜の餌ならぬ真っ当な人間様の食事にありついて人心地つく。但し、そば粉を使った料理は全力で拒否した。大量のニンニク、タマネギとチーズで誤魔化したが、「そば」の食物アレルギーを持つ俺にとっては、死に至る猛毒である。
(そばを食った人間は、例え自分の娘でも3日以上、隔離する。寄るな、触るな、話かけるな唾が飛ぶ。この人殺しめ!)
過酷な脱出劇の激動が沈静化すると同時に、必死の緊張でそれまで抑えつけていたものが一斉に噴出した。
マラリア予防のクロロキンや家畜の餌を食っていた副作用で、過剰摂取した抗生物質による急性肝炎に腎炎。黄疸が出るに至って、下痢に嘔吐、突発的な昏睡、倦怠と脱力・疲労感は絶頂に達した。
多忙なT氏が医者を手配してくれていたが、トリパノソーマ(アフリカ眠り病)を発症したらしい。アフリカの風土病で、致死率は70%近くと高い。生還したとしても、脳症の後遺症が続く。
俺が病床に臥せっている間、俺の看護をしてくれていたのが、カーレンである。
T氏の奥方の妹である。初めて会ったのは、それより数年前、T氏親子が日本に里帰りした時に同伴してきたのが馴れ初めである。生まれたばかりの二男をT氏の親に顔見せるのと、開園間もない東京ディズニーランド見物が目的であった。親子水入らずのT氏から別れ、俺はカーレンのエスコートを任された。当時、中学生だった俺は、身長176~の長身、ドイツ語しか話せない年上の、見上げる大女の面倒見役を仰せつかったのであった・・・
さて、そんな馴れ初めもあったにせよ、そもそも赤の他人である。
俺より年上とは言え、彼女もまだ20代前半である。糸の切れた操り人形のような俺を介護するのは、苦労が絶えなかったであろう。何にせよ、下の世話までしてもらったからには、こりゃあ一緒になるしかあるまい。
世話になった義理は、命に代えても返すのが道理である。ま、酒乱と睡眠障害が残ったくらいの後遺症で九死に一生を得たのだから、命の恩人には違いない。
(ガキの頃、交通事故で頭打ったせいか、元々睡眠時間が異常だった俺は、増々睡眠障害を極め、現在に至る)
カーレンがどう思ってたかは知る由もないが、俺は彼女と結婚した。
俺の結婚観は、「女が相手を選ぶんじゃない。男が命預ける相手を選ぶんだ」というものである。
ま、異論はあろうが、1発やれりゃあ、それで良い。突っ込む穴さえありゃ、コンニャクでも良い、ってのが男の生理である。
それを何をトチ狂ったか、若気の暴走で「かーちゃんの為なら、エーンヤコーラ~」の結婚をしちまうのが、男子一生の不覚である。
今にして思えば、ドイツ語しか話せないドイツ人女と、ドイツ語なんて「ein(1)、zwei(2)、drei(3)」くらいしか知らなかった俺である。
言葉が通じなきゃ、お互いの理屈を理解できない。一方で、上っ面の言葉で虚飾されない相手の腹の内を探る為に、真正面から向き合う事になる。伝えたい思いと伝わらない思いにお互い歯痒い思いをしながら、言葉で済ましていたら察知できなかったであろう真意を汲み取ろうと、微かな表情や一挙手一投足に注意を払う。何とも緊張感のある関係だ。俺が言葉未熟な子供にモテるのは、この観察という知的好奇心旺盛な性分もあるのだろう。見ざる、聞かざる、言わざるの無関心を決め込んだ他人の反応ほど、虚しく心細いものはない。
ここで俺の回想は、一旦、横道に逸れ、脱線する。
今年も敗戦記念日を終戦記念日と言い換えた、戦後66年を振り返るイベントが開かれた。
俺と死んだ女房、日本人とドイツ人。どちらも20世紀の敗戦国の人間である。
日本人は、あの敗戦から何を学んだのであろう?
この国の国会中継を見れば、どいつも、こいつも相手の言葉っ尻の些細な部分を突いて、さも鬼の首でも取ったかのように意気揚々とのたまう。肝心なのは単語や文法の誤解ではない。議論の本質を見定めず、相手の間違い探しに貴重な時間と労力を費やす愚かしさ・・・
(火のないところに、わざわざ火を点けて、野次馬を呼び寄せ騒ぎを煽るマスコミも罪は重い。
我らの「知る権利」に貢献したいのなら、何者かの主観はいらない。善悪の彼岸から、冷徹無情の客観的事実だけを伝えよ。情報を吟味し、判断を下すのは我らの自由意思による。啓蒙と指導は、マスコミの仕事ではない。スポンサーの意向を汲んでの誘導記事なら、それを明記せよ)
米国のおんぶに抱っこで戦後の復興を遂げた日本と、分断の憂き目に遭いながらも自力で復興した旧西ドイツ。1990年の東西ドイツの統合直後の混乱をも速やかに抑え込んだ政府の手練手管は見習うべきであろう。
また、国際化時代の流れを受けて、経営役員に外国人を登用する日本の企業が相次いでいるが、これは日本人とは身に差し迫った危機的状況や問題解決を、自らの判断や行動で解決できない幼稚なガキだと示しているに過ぎない。
反省もなければ、命を懸ける信念もない、それが日本人の正体である。
いつになったら、こんなキレイ事ばかり並べた8月を迎えずに済むのか?
さて、話は戻って傭兵時代の話は、これで終わり。
わずか1年足らずではあったが、波乱万丈、数々の紆余曲折を経て、東南アジアの某国で性懲りもなくひと悶着起こした俺は、日本に強制送還された・・・
(17)了
1991年12月。
命からがら北アフリカを脱出し、イタリアのフランスと国境を接する港町に上陸した俺。
道中、様々な失敗に肝を冷やしながら、ようやっと辿り着いた。
その俺を、旧来の知己である(すぐ後に義兄となる)T氏が待ち構えていた。この男のプロフィールを掻い摘んで語るなら、日本人、高校卒業後、自衛隊に入隊。教育隊の後、1期を務め、除隊後は英国経由でフランスに渡り、フランス外人部隊に入隊。アルジェリア、ジプチとアフリカ駐留を経て、除隊後はフランス国籍を得て、貿易商となり、当時はパリに在住。ドイツ人の女房と二人の男の子の父親である。趣味は、ジョギング。1日30kmは走る。暇さえあれば走る。完全なジョギング中毒である。
(死ぬまで走ってろ。心臓麻痺で死ねばいい)
俺が彼と知り合ったのは、俺がまだ中学生の頃に読んだ雑誌の投稿記事による。1980年代の当時は「個人情報保護法」などという馬鹿げた法律はなく、本人が希望しない限り、住所も氏名も公表されるのが当たり前だった。
(匿名希望などという姑息な輩が、世間に対して文句を垂れるなど笑止千万。誰に恥じる事なく真っ当にやってるなら、堂々と名乗りを挙げてから意見を述べよ)
169センチ、57キロと日本人の標準からみても、やや痩せ気味。映画でお馴染みのマッチョな元・傭兵の設定と現実のそれは違うもの。それでも兵隊稼業は、肉体労働である。スポーツ・ジムで鍛えた役立たずの筋肉と、実務で鍛えられた筋肉とでは雲泥の差があるものだ。
俺より14歳も年上のT氏だが、俺とは苗字は違うが名前が同じ。それも縁で親交を深めた経緯がある。
名は体を表す。ついでに、類は友を呼ぶ、と言ったところか?
「お帰り。さあて、生きて戻った御褒美に何が欲しい? 酒か、女か?」
T氏は、開口一番、能天気な質問をよこす野郎であった。
「コーヒー、くれ。・・・それと風呂」
俺は、久しぶりに日本人(元、ではあるが、れっきとした日本生まれの日本人である)と日本語を話す。今、思い出しても我ながら謎だが、何故、コーヒーなのか? もっと色気や湿気(ユーモアとウィット)のある返答も出来ただろうにと悔やまれるが、ソマリアから逃亡してきた道中、経由した国も密入国、密出国。欧州の土を踏んでも、まだ異国である。油断は出来なかった。
イベリア半島からの移民で、ビヤ樽のようなオバさんが大家をしているアパルトマンの部屋を紹介してもらった。日本へ戻るつもりはなかった。
約3か月ぶりのシャワーとバスタブの湯に浸かり、垢と髭を落とす。俺の天然パーマの髪の毛も伸び放題で、所々結び目が出来るくらい、むさ苦しかったが、床屋は後回しだ。
大家のオバさんの賄いで、俺の大っ嫌いなナスとトマトとオリーブ油たっぷりの、久々に家畜の餌ならぬ真っ当な人間様の食事にありついて人心地つく。但し、そば粉を使った料理は全力で拒否した。大量のニンニク、タマネギとチーズで誤魔化したが、「そば」の食物アレルギーを持つ俺にとっては、死に至る猛毒である。
(そばを食った人間は、例え自分の娘でも3日以上、隔離する。寄るな、触るな、話かけるな唾が飛ぶ。この人殺しめ!)
過酷な脱出劇の激動が沈静化すると同時に、必死の緊張でそれまで抑えつけていたものが一斉に噴出した。
マラリア予防のクロロキンや家畜の餌を食っていた副作用で、過剰摂取した抗生物質による急性肝炎に腎炎。黄疸が出るに至って、下痢に嘔吐、突発的な昏睡、倦怠と脱力・疲労感は絶頂に達した。
多忙なT氏が医者を手配してくれていたが、トリパノソーマ(アフリカ眠り病)を発症したらしい。アフリカの風土病で、致死率は70%近くと高い。生還したとしても、脳症の後遺症が続く。
俺が病床に臥せっている間、俺の看護をしてくれていたのが、カーレンである。
T氏の奥方の妹である。初めて会ったのは、それより数年前、T氏親子が日本に里帰りした時に同伴してきたのが馴れ初めである。生まれたばかりの二男をT氏の親に顔見せるのと、開園間もない東京ディズニーランド見物が目的であった。親子水入らずのT氏から別れ、俺はカーレンのエスコートを任された。当時、中学生だった俺は、身長176~の長身、ドイツ語しか話せない年上の、見上げる大女の面倒見役を仰せつかったのであった・・・
さて、そんな馴れ初めもあったにせよ、そもそも赤の他人である。
俺より年上とは言え、彼女もまだ20代前半である。糸の切れた操り人形のような俺を介護するのは、苦労が絶えなかったであろう。何にせよ、下の世話までしてもらったからには、こりゃあ一緒になるしかあるまい。
世話になった義理は、命に代えても返すのが道理である。ま、酒乱と睡眠障害が残ったくらいの後遺症で九死に一生を得たのだから、命の恩人には違いない。
(ガキの頃、交通事故で頭打ったせいか、元々睡眠時間が異常だった俺は、増々睡眠障害を極め、現在に至る)
カーレンがどう思ってたかは知る由もないが、俺は彼女と結婚した。
俺の結婚観は、「女が相手を選ぶんじゃない。男が命預ける相手を選ぶんだ」というものである。
ま、異論はあろうが、1発やれりゃあ、それで良い。突っ込む穴さえありゃ、コンニャクでも良い、ってのが男の生理である。
それを何をトチ狂ったか、若気の暴走で「かーちゃんの為なら、エーンヤコーラ~」の結婚をしちまうのが、男子一生の不覚である。
今にして思えば、ドイツ語しか話せないドイツ人女と、ドイツ語なんて「ein(1)、zwei(2)、drei(3)」くらいしか知らなかった俺である。
言葉が通じなきゃ、お互いの理屈を理解できない。一方で、上っ面の言葉で虚飾されない相手の腹の内を探る為に、真正面から向き合う事になる。伝えたい思いと伝わらない思いにお互い歯痒い思いをしながら、言葉で済ましていたら察知できなかったであろう真意を汲み取ろうと、微かな表情や一挙手一投足に注意を払う。何とも緊張感のある関係だ。俺が言葉未熟な子供にモテるのは、この観察という知的好奇心旺盛な性分もあるのだろう。見ざる、聞かざる、言わざるの無関心を決め込んだ他人の反応ほど、虚しく心細いものはない。
ここで俺の回想は、一旦、横道に逸れ、脱線する。
今年も敗戦記念日を終戦記念日と言い換えた、戦後66年を振り返るイベントが開かれた。
俺と死んだ女房、日本人とドイツ人。どちらも20世紀の敗戦国の人間である。
日本人は、あの敗戦から何を学んだのであろう?
この国の国会中継を見れば、どいつも、こいつも相手の言葉っ尻の些細な部分を突いて、さも鬼の首でも取ったかのように意気揚々とのたまう。肝心なのは単語や文法の誤解ではない。議論の本質を見定めず、相手の間違い探しに貴重な時間と労力を費やす愚かしさ・・・
(火のないところに、わざわざ火を点けて、野次馬を呼び寄せ騒ぎを煽るマスコミも罪は重い。
我らの「知る権利」に貢献したいのなら、何者かの主観はいらない。善悪の彼岸から、冷徹無情の客観的事実だけを伝えよ。情報を吟味し、判断を下すのは我らの自由意思による。啓蒙と指導は、マスコミの仕事ではない。スポンサーの意向を汲んでの誘導記事なら、それを明記せよ)
米国のおんぶに抱っこで戦後の復興を遂げた日本と、分断の憂き目に遭いながらも自力で復興した旧西ドイツ。1990年の東西ドイツの統合直後の混乱をも速やかに抑え込んだ政府の手練手管は見習うべきであろう。
また、国際化時代の流れを受けて、経営役員に外国人を登用する日本の企業が相次いでいるが、これは日本人とは身に差し迫った危機的状況や問題解決を、自らの判断や行動で解決できない幼稚なガキだと示しているに過ぎない。
反省もなければ、命を懸ける信念もない、それが日本人の正体である。
いつになったら、こんなキレイ事ばかり並べた8月を迎えずに済むのか?
さて、話は戻って傭兵時代の話は、これで終わり。
わずか1年足らずではあったが、波乱万丈、数々の紆余曲折を経て、東南アジアの某国で性懲りもなくひと悶着起こした俺は、日本に強制送還された・・・
(17)了
(16)
3月の震災から5か月が経とうとしているが、世界経済以上に、足元の日本経済が振るわない。
こちとら自由業は、世の景気や雰囲気に稼ぎがもろに左右される。かような現状で市民暴動すら起きないのは、日本人が忍耐強いとか冷静だとか、そんなお為ごかしではなく、単なる糞便生産生物に過ぎないという証拠である。飼い慣らされたペットや家畜だって、理不尽な扱いには不平の声を挙げるものだ。
政治が悪い、というのは簡単だが、無能な政治家を選んだ選挙民は、もっと無能だったというに過ぎない。
さて、選挙からの連想だが、俺が下駄を突っ込んでいる芸能界でも、オーディションの歴史は古い。だが後押ししてくれる芸能事務所を持たない素人が、それをきっかけにスターダムへと登るのは、宝くじで1等前後賞すべてを独り占めするくらいの運が必要だ。当人の持ち前の才能が評価されるのは、生き馬の目を抜く芸能界で生き残り、重鎮の座を手に入れてからの話である。
世にいうスカウトマンという職業は、そういう市井に埋もれた、まだ陽の目を見ない才能を発掘する仕事である。街頭に立って、通行人の中から目についた女の子を口説いてるようなのは、下っ端のアルバイトである。
俺も、やった事がある。名刺は自前で購入。「お茶でも飲みながら、話を聞いてくれないかな?」等とやってると、あっという間に財布が空になる。口説き落とした女の子が稼ぎを上げる金蔓になってくれればまだしも、食い逃げ・飲み逃げは当たり前。出来高払いの日当では当然、赤字である。
(AVのスカウトの方が、よっぽど楽である)
業界の先輩であるスカウトマン(ウーマン)で、キャリアを積んだ本物のプロは、山師と言ってもいい。山師。如何わしい喩えだが、どこに埋まってるかも知れない鉱脈を探り出して、お宝に変える目利きと嗅覚は、凡人には真似の出来ない芸当である。
スカウトがきっかけで芸能界入りしたタレントと言えど、初っ端の新人時代は、履歴書片手にオーディション行脚である。事務所に所属したからと言って、宛がわれる仕事は無い。当然、ギャラも発生しない。まず何より、新人だからキャリアが無い。名前と年齢くらいしか記入の無い履歴書を持たせて、スカウトマンが一緒にオーディション会場を梯子する。
テレビや雑誌で見慣れた先輩タレントが審査員にボロ糞に罵倒される、芸能界の知られざる裏側に触れて一念発起する頓珍漢なら見込みあり。
アルバイトの傍ら、自腹で歌や踊りのレッスンに、オーディション巡りにと、事務所は1銭のギャラも支払わずに事務所の売り込みが出来る。
イベント・コンパニオンの日当仕事でも獲ってくれば、しめたもの。履歴書に書き込む項目が増えるにつれ、タレント自らが飢えた狼の眼つきに変わってくる。
マスコミの媒体等では、一見、のらりくらりと気ままに芸能界を泳ぎ回ってる風でいて、我々視聴者には見せない暗黒面もある。表があれば裏もあるのが、世の常である。
コンスタントにオーディション通いで仕事を物にするようになれば、スカウトマンの役目は終わり。事務所から専属のマネージャーが配置される。そして、スカウトマンは、次の獲物(生贄)に取り掛かる。
(掘り当てたタレントが、金かダイヤの鉱脈なら、そのままマネージャーになる。金のなる木か金の卵を生む鵞鳥を手放す馬鹿はいない)
「1億総タレント時代」と言われた1980年代。隣のお姉さんやら、お兄さん。オバサンにオジンにと間口を広げまくった頃から、何やら勘違いが始まった。
芸能界は、文字通り「芸は身を助ける」世界である。芸のない者は門前払い。パッと出の1発屋の寿命は驚くほど短い。人の世の流行り廃りの目まぐるしさ、無責任さには心底、辟易する。
それでも、芸能界に憧憬(あこがれ)る身の程知らずや消費者は絶えない。
俺は、舞台美術の裏方である。こちらも、下手すれば道楽とも酔狂と取られかねない胡散臭い職業である。基本は雑用の肉体労働者だから、体さえ動けば勤まる。この仕事に携わって、たかが10数年であるが、次から次へと現れては消えていくタレントを嫌というほど見ている。
個性の時代と言われた頃もあった。だが、人前に己を晒して生業(なりわい)にするメリットとデメリットを天秤に架けたら、血を吐きながら死ぬまで走り続けるマラソンか、早々に自滅するしかない。どちらにしても刹那である。
芸能人は夢を売るのが商売だが、本人に夢を見ている暇はない。
誰かの言いなりになって、それに従っていれば良い。というなら気楽である。仕事が回ってくるうちは安泰である。やがて飽きられ、使い古され、ジリ貧に追い詰められる将来が身近に迫る頃になると、女性タレントには家庭に逃げ込むという道が残されているが、男性タレントは悲劇である。
スカウトで業界に入る野郎は少ない。むしろ、自ら飛び込んでくる。行き詰ったら、そこで終わりである。俺個人の知り合いにも、役者志望や裏方志望が何人もいた(過去形)。
20代の頃なら、いざ知らず。30代、40代と年齢を重ねて、夢破れて挫折していくヤツばかりである。
「芸のためなら、女房も泣かす~♪」
と、裏方ながら俺もやりたかったが、肝心の女房は医学部に通う奨学金の借金漬けで当てにはならず、あまつさえ医者の不養生で早逝した。が、女家族を多く持ったのが幸いで、身内の世話になりながら、のほほんと生き延びている。
(俺、仕事はひとの数倍以上、真面目だけど、命令されて働かされるのが大っ嫌いだから・・・)
何はともあれ、お盆である。今年も、大勢が死んだ。
プロテスタントの俺がお盆とは御門違いだが、てめえの先祖のみならず、仕事での知己を含めて、今年にかけて逝った死者を迎え盆・送り盆と偲んでみる。
(16)了
3月の震災から5か月が経とうとしているが、世界経済以上に、足元の日本経済が振るわない。
こちとら自由業は、世の景気や雰囲気に稼ぎがもろに左右される。かような現状で市民暴動すら起きないのは、日本人が忍耐強いとか冷静だとか、そんなお為ごかしではなく、単なる糞便生産生物に過ぎないという証拠である。飼い慣らされたペットや家畜だって、理不尽な扱いには不平の声を挙げるものだ。
政治が悪い、というのは簡単だが、無能な政治家を選んだ選挙民は、もっと無能だったというに過ぎない。
さて、選挙からの連想だが、俺が下駄を突っ込んでいる芸能界でも、オーディションの歴史は古い。だが後押ししてくれる芸能事務所を持たない素人が、それをきっかけにスターダムへと登るのは、宝くじで1等前後賞すべてを独り占めするくらいの運が必要だ。当人の持ち前の才能が評価されるのは、生き馬の目を抜く芸能界で生き残り、重鎮の座を手に入れてからの話である。
世にいうスカウトマンという職業は、そういう市井に埋もれた、まだ陽の目を見ない才能を発掘する仕事である。街頭に立って、通行人の中から目についた女の子を口説いてるようなのは、下っ端のアルバイトである。
俺も、やった事がある。名刺は自前で購入。「お茶でも飲みながら、話を聞いてくれないかな?」等とやってると、あっという間に財布が空になる。口説き落とした女の子が稼ぎを上げる金蔓になってくれればまだしも、食い逃げ・飲み逃げは当たり前。出来高払いの日当では当然、赤字である。
(AVのスカウトの方が、よっぽど楽である)
業界の先輩であるスカウトマン(ウーマン)で、キャリアを積んだ本物のプロは、山師と言ってもいい。山師。如何わしい喩えだが、どこに埋まってるかも知れない鉱脈を探り出して、お宝に変える目利きと嗅覚は、凡人には真似の出来ない芸当である。
スカウトがきっかけで芸能界入りしたタレントと言えど、初っ端の新人時代は、履歴書片手にオーディション行脚である。事務所に所属したからと言って、宛がわれる仕事は無い。当然、ギャラも発生しない。まず何より、新人だからキャリアが無い。名前と年齢くらいしか記入の無い履歴書を持たせて、スカウトマンが一緒にオーディション会場を梯子する。
テレビや雑誌で見慣れた先輩タレントが審査員にボロ糞に罵倒される、芸能界の知られざる裏側に触れて一念発起する頓珍漢なら見込みあり。
アルバイトの傍ら、自腹で歌や踊りのレッスンに、オーディション巡りにと、事務所は1銭のギャラも支払わずに事務所の売り込みが出来る。
イベント・コンパニオンの日当仕事でも獲ってくれば、しめたもの。履歴書に書き込む項目が増えるにつれ、タレント自らが飢えた狼の眼つきに変わってくる。
マスコミの媒体等では、一見、のらりくらりと気ままに芸能界を泳ぎ回ってる風でいて、我々視聴者には見せない暗黒面もある。表があれば裏もあるのが、世の常である。
コンスタントにオーディション通いで仕事を物にするようになれば、スカウトマンの役目は終わり。事務所から専属のマネージャーが配置される。そして、スカウトマンは、次の獲物(生贄)に取り掛かる。
(掘り当てたタレントが、金かダイヤの鉱脈なら、そのままマネージャーになる。金のなる木か金の卵を生む鵞鳥を手放す馬鹿はいない)
「1億総タレント時代」と言われた1980年代。隣のお姉さんやら、お兄さん。オバサンにオジンにと間口を広げまくった頃から、何やら勘違いが始まった。
芸能界は、文字通り「芸は身を助ける」世界である。芸のない者は門前払い。パッと出の1発屋の寿命は驚くほど短い。人の世の流行り廃りの目まぐるしさ、無責任さには心底、辟易する。
それでも、芸能界に憧憬(あこがれ)る身の程知らずや消費者は絶えない。
俺は、舞台美術の裏方である。こちらも、下手すれば道楽とも酔狂と取られかねない胡散臭い職業である。基本は雑用の肉体労働者だから、体さえ動けば勤まる。この仕事に携わって、たかが10数年であるが、次から次へと現れては消えていくタレントを嫌というほど見ている。
個性の時代と言われた頃もあった。だが、人前に己を晒して生業(なりわい)にするメリットとデメリットを天秤に架けたら、血を吐きながら死ぬまで走り続けるマラソンか、早々に自滅するしかない。どちらにしても刹那である。
芸能人は夢を売るのが商売だが、本人に夢を見ている暇はない。
誰かの言いなりになって、それに従っていれば良い。というなら気楽である。仕事が回ってくるうちは安泰である。やがて飽きられ、使い古され、ジリ貧に追い詰められる将来が身近に迫る頃になると、女性タレントには家庭に逃げ込むという道が残されているが、男性タレントは悲劇である。
スカウトで業界に入る野郎は少ない。むしろ、自ら飛び込んでくる。行き詰ったら、そこで終わりである。俺個人の知り合いにも、役者志望や裏方志望が何人もいた(過去形)。
20代の頃なら、いざ知らず。30代、40代と年齢を重ねて、夢破れて挫折していくヤツばかりである。
「芸のためなら、女房も泣かす~♪」
と、裏方ながら俺もやりたかったが、肝心の女房は医学部に通う奨学金の借金漬けで当てにはならず、あまつさえ医者の不養生で早逝した。が、女家族を多く持ったのが幸いで、身内の世話になりながら、のほほんと生き延びている。
(俺、仕事はひとの数倍以上、真面目だけど、命令されて働かされるのが大っ嫌いだから・・・)
何はともあれ、お盆である。今年も、大勢が死んだ。
プロテスタントの俺がお盆とは御門違いだが、てめえの先祖のみならず、仕事での知己を含めて、今年にかけて逝った死者を迎え盆・送り盆と偲んでみる。
(16)了
(15)
1991年12月
北部、南東部の都市で大規模な内戦が連鎖している。俺がいるルワンダの難民キャンプも、とうとうソマリアの現地人の難民キャンプに併合された。ソマリアに赴任して2か月目そこらで目まぐるしい変転を強いられる。何より情報不足が痛い。特に言葉。ソマリ語を学んでいない俺は文字通りの情報遮断、ツンボ桟敷状態であった。
ひらがなの「く」の字を左右反転させた形状のソマリアは、大雑把に北部と南東部、南部とに分かれる。イギリスが植民統治していた北部とイタリアが統治していた南部、クサビのように突き出したエチオピアと融合和平を謳う南東部のそれぞれの勢力が「三国志」のように乱戦を繰り広げ、それぞれの地域に各勢力のシンパが混在していた。群雄割拠する戦国時代とは、正しくカオスである。正邪も善悪もない、破壊と混乱と、それを生き残る運と力こそが全てである。
難民キャンプは、追い立てられる野良犬の群れと化していた。あちらこちらで飛び火する戦闘を避け、移動を余儀なくされる。
逃げ惑う群れの十中八、九がガキである。そして、その大半が裸足である。日中の焼けた地面を歩くには無理があった。援助物資には古靴もあったが、日々成長していく子供に常に適当なサイズの靴をあてがう事は無理がある。援助物資とはいうが、体の良いゴミ捨て場である。赤道直下のサバナ気候では不必要なコートやジャンパーといった防寒着の古着をバラし、これも先進国から大量に運び込まれる古タイヤを靴底にしたホーチミン・サンダルの鼻緒にする。そんな手仕事も、最近は作っている暇がなかった。帯状の布切れを足先に巻くだけで済まし、移動を繰り返す。自衛と生存(食糧強奪)の戦闘に明け暮れていた。銃はあっても弾が勿体ない。カートでラリった人間は感覚が麻痺してるから、数発の弾傷くらいでは死なない。戦場で何より怖い流れ弾を避けるにも接近戦が一番だ。野球のバットは、頭をカチ割るには最良の凶器である。ゾンビとヤク中は、頭を叩き潰すに限る。
人殺しの罪悪感など、欺瞞に過ぎない。ハエや蚊を叩き殺して良心が痛むのか?
一寸の虫にも五分の魂という。命の貴重さは同じはずだ。人間だけが特別な訳じゃない。すべて話し合いで解決できるなら、そもそも戦争は起こらない。
ソマリアには、水源となる川は2つしかない。移動を繰り返す難民キャンプは、その川や遊水池の水源から離れられない。その都度、井戸を掘る訳にもいかない。そんな時間も労働力も無い。デモや暴動、抗争が激しい都市部には近付けない。物資が出入りする港湾地域も危険極まりない。寄る辺のない俺ら難民は、右往左往と惑うばかり・・・
俺を派遣した民間軍事会社とは、とっくに音信不通。ギャラも振り込まれない。現地へ送り込まれる以前の訓練中からパスポートは取り上げられていたから、ソマリア駐在の大使館に逃げ込む事すらできない。
言い訳になるが、当時の俺は、その年の春、日本の定時制高校を卒業して、勤労学生からタダの社会人になった、若干二十歳のガキである。手取り足取り面倒見てくれる親切な案内人などいない。誰も教えちゃくれない、助けちゃくれない。俺が、ここにいる事すら、身内でさえ知る者は無い。
戦争や人殺しが悪いって事は、誰でも知ってる。だが、目前に待ち構える死の恐怖から逃れられる人道的で、倫理に適った最良の方法なんて、誰も知らないのだ。
市街戦に巻き込まれ、味方側に撃たれた。恨みを買った覚えはないが、多分、味方だとは知らなかったのであろう。敵味方入り乱れての混戦では、自分の生き残りさえ考えてる余裕はない。
小銃弾とはいえ、0.22口径の豆鉄砲だから、急所を外れれば致命傷にはならない。だが、頭の中が真っ白になるくらいのショックと痛みで一時的にせよ、身動きできなくなった時は、さすがに死を覚悟した。遮蔽物から遮蔽物へ移動していた街路の真っ只中で止まる事は、射的屋にあるキャラメルのサービス標的になったようなものだ。
ま、俺だって、何人も殺してる。殺されても仕方がない。
死に水代わりに、コーヒーかタバコ、できれば両方欲しいと思った。仰向けに、大の字になって空を見る。雲ひとつないラベンダー色の空に、昼間の星が見えた気がする・・・
神妙な覚悟を抱いた俺だったが、蹴飛ばされ、寄ってたかって小突き回されて覚悟も何も吹っ飛んだ。たが、殺されはしなかった。当時は、まだ物珍しい東洋人ということで捕虜になった。この虜囚の間、俺がゲロした米軍のコンバット・スキルや戦略が、92年のPKF哨戒戦、93年のPKOでの米軍のブラックホーク・ダウンに繋がってるのかも知れないが、それより2重スパイを企んだCIAや抗争の火種に油を注いだSISの方が罪は重いかも・・・だが、五十歩百歩だな。
(この辺の詳細は明かせない。心底、食うに困ったら、連中からカツアゲするネタに使う)
捕虜収容所、とはいっても専用の施設がある訳ではない。外から鍵のかかる物置のような小屋に捕縛されていた。
5.56ミリの小銃弾を右肩甲骨上部と右大腿内側に食らってできた傷は、数日で塞がった。俺の怪我の回復力は、トカゲの尻尾並みである。
二歳の頃、交通事故で死にかけたが、これも一週間足らずで退院した。この世に生まれてから今日まで、数々の負傷を経験したが、俺は不死身の宿命を背負っているようだ。
さて、虜囚の間に受けた尋問の衝撃は一々語らないが、それすらも休養として回復した俺は、脱走した。小学生の頃に読んだ本の、忍者の縄抜けの術が役に立った。
雑学博識、博覧強記は、何かと役に立つ。
鉄は熱いうちに打て。ガキには知識と経験を詰め込んでおけ。ゆとり教育なんてのは、仕事サボりたいアホ教師の浅知恵だ。
収容所から出た俺は、武器・弾薬・水・食糧を奪って、ソマリアを脱出した。
キャンプに残していくガキどもに後ろ髪を引かれたが、俺は自分の保身を優先した。
俺はスイミーじゃない。そもそも通常じゃ稼げない大金を稼ぐ為に、命と体を張って来た。その肝心の金が稼げないなら、こんな所に居残る意味はない。
神が死に、良心を殺して、俺は、自分が何者なのかに目覚めた。自分の無力と限界と。人間の愚かさと残忍さを。
結論。人間は、出来損ないのサルである。引き合いに出されたサルが怒り狂うぐらい、どうしようもない屑である。百害あって一利なし、である。
(こう言われて腹を立てるアナタは、処女の腹(股ではない)から生まれた聖人君子なのであろう。畏(かしこ)み、畏み・・・)
日本を旅立ってから、約8か月。激動の日々を経験して、俺は一生分の悲喜劇を味わった。たった8ヶ月である。1日が24時間、1か月が30日ちょいだとは、到底信じられない。天国がどうなのかは知らないが、地獄の責苦の数々に匹敵する苦難は存分に味わった。
ソマリア脱出から北を目指して遁走し、アルジェリアの港からオンボロ漁船でフランスとイタリアの国境に位置する港町まで地中海を渡った。
サハラの砂と垢と漁船のグリ-ス、魚油の汚れに塗れて、疲労困憊の俺を鄙びた港で待っていたのは、ジョギング大好きな馬鹿者であった。
(15)了
1991年12月
北部、南東部の都市で大規模な内戦が連鎖している。俺がいるルワンダの難民キャンプも、とうとうソマリアの現地人の難民キャンプに併合された。ソマリアに赴任して2か月目そこらで目まぐるしい変転を強いられる。何より情報不足が痛い。特に言葉。ソマリ語を学んでいない俺は文字通りの情報遮断、ツンボ桟敷状態であった。
ひらがなの「く」の字を左右反転させた形状のソマリアは、大雑把に北部と南東部、南部とに分かれる。イギリスが植民統治していた北部とイタリアが統治していた南部、クサビのように突き出したエチオピアと融合和平を謳う南東部のそれぞれの勢力が「三国志」のように乱戦を繰り広げ、それぞれの地域に各勢力のシンパが混在していた。群雄割拠する戦国時代とは、正しくカオスである。正邪も善悪もない、破壊と混乱と、それを生き残る運と力こそが全てである。
難民キャンプは、追い立てられる野良犬の群れと化していた。あちらこちらで飛び火する戦闘を避け、移動を余儀なくされる。
逃げ惑う群れの十中八、九がガキである。そして、その大半が裸足である。日中の焼けた地面を歩くには無理があった。援助物資には古靴もあったが、日々成長していく子供に常に適当なサイズの靴をあてがう事は無理がある。援助物資とはいうが、体の良いゴミ捨て場である。赤道直下のサバナ気候では不必要なコートやジャンパーといった防寒着の古着をバラし、これも先進国から大量に運び込まれる古タイヤを靴底にしたホーチミン・サンダルの鼻緒にする。そんな手仕事も、最近は作っている暇がなかった。帯状の布切れを足先に巻くだけで済まし、移動を繰り返す。自衛と生存(食糧強奪)の戦闘に明け暮れていた。銃はあっても弾が勿体ない。カートでラリった人間は感覚が麻痺してるから、数発の弾傷くらいでは死なない。戦場で何より怖い流れ弾を避けるにも接近戦が一番だ。野球のバットは、頭をカチ割るには最良の凶器である。ゾンビとヤク中は、頭を叩き潰すに限る。
人殺しの罪悪感など、欺瞞に過ぎない。ハエや蚊を叩き殺して良心が痛むのか?
一寸の虫にも五分の魂という。命の貴重さは同じはずだ。人間だけが特別な訳じゃない。すべて話し合いで解決できるなら、そもそも戦争は起こらない。
ソマリアには、水源となる川は2つしかない。移動を繰り返す難民キャンプは、その川や遊水池の水源から離れられない。その都度、井戸を掘る訳にもいかない。そんな時間も労働力も無い。デモや暴動、抗争が激しい都市部には近付けない。物資が出入りする港湾地域も危険極まりない。寄る辺のない俺ら難民は、右往左往と惑うばかり・・・
俺を派遣した民間軍事会社とは、とっくに音信不通。ギャラも振り込まれない。現地へ送り込まれる以前の訓練中からパスポートは取り上げられていたから、ソマリア駐在の大使館に逃げ込む事すらできない。
言い訳になるが、当時の俺は、その年の春、日本の定時制高校を卒業して、勤労学生からタダの社会人になった、若干二十歳のガキである。手取り足取り面倒見てくれる親切な案内人などいない。誰も教えちゃくれない、助けちゃくれない。俺が、ここにいる事すら、身内でさえ知る者は無い。
戦争や人殺しが悪いって事は、誰でも知ってる。だが、目前に待ち構える死の恐怖から逃れられる人道的で、倫理に適った最良の方法なんて、誰も知らないのだ。
市街戦に巻き込まれ、味方側に撃たれた。恨みを買った覚えはないが、多分、味方だとは知らなかったのであろう。敵味方入り乱れての混戦では、自分の生き残りさえ考えてる余裕はない。
小銃弾とはいえ、0.22口径の豆鉄砲だから、急所を外れれば致命傷にはならない。だが、頭の中が真っ白になるくらいのショックと痛みで一時的にせよ、身動きできなくなった時は、さすがに死を覚悟した。遮蔽物から遮蔽物へ移動していた街路の真っ只中で止まる事は、射的屋にあるキャラメルのサービス標的になったようなものだ。
ま、俺だって、何人も殺してる。殺されても仕方がない。
死に水代わりに、コーヒーかタバコ、できれば両方欲しいと思った。仰向けに、大の字になって空を見る。雲ひとつないラベンダー色の空に、昼間の星が見えた気がする・・・
神妙な覚悟を抱いた俺だったが、蹴飛ばされ、寄ってたかって小突き回されて覚悟も何も吹っ飛んだ。たが、殺されはしなかった。当時は、まだ物珍しい東洋人ということで捕虜になった。この虜囚の間、俺がゲロした米軍のコンバット・スキルや戦略が、92年のPKF哨戒戦、93年のPKOでの米軍のブラックホーク・ダウンに繋がってるのかも知れないが、それより2重スパイを企んだCIAや抗争の火種に油を注いだSISの方が罪は重いかも・・・だが、五十歩百歩だな。
(この辺の詳細は明かせない。心底、食うに困ったら、連中からカツアゲするネタに使う)
捕虜収容所、とはいっても専用の施設がある訳ではない。外から鍵のかかる物置のような小屋に捕縛されていた。
5.56ミリの小銃弾を右肩甲骨上部と右大腿内側に食らってできた傷は、数日で塞がった。俺の怪我の回復力は、トカゲの尻尾並みである。
二歳の頃、交通事故で死にかけたが、これも一週間足らずで退院した。この世に生まれてから今日まで、数々の負傷を経験したが、俺は不死身の宿命を背負っているようだ。
さて、虜囚の間に受けた尋問の衝撃は一々語らないが、それすらも休養として回復した俺は、脱走した。小学生の頃に読んだ本の、忍者の縄抜けの術が役に立った。
雑学博識、博覧強記は、何かと役に立つ。
鉄は熱いうちに打て。ガキには知識と経験を詰め込んでおけ。ゆとり教育なんてのは、仕事サボりたいアホ教師の浅知恵だ。
収容所から出た俺は、武器・弾薬・水・食糧を奪って、ソマリアを脱出した。
キャンプに残していくガキどもに後ろ髪を引かれたが、俺は自分の保身を優先した。
俺はスイミーじゃない。そもそも通常じゃ稼げない大金を稼ぐ為に、命と体を張って来た。その肝心の金が稼げないなら、こんな所に居残る意味はない。
神が死に、良心を殺して、俺は、自分が何者なのかに目覚めた。自分の無力と限界と。人間の愚かさと残忍さを。
結論。人間は、出来損ないのサルである。引き合いに出されたサルが怒り狂うぐらい、どうしようもない屑である。百害あって一利なし、である。
(こう言われて腹を立てるアナタは、処女の腹(股ではない)から生まれた聖人君子なのであろう。畏(かしこ)み、畏み・・・)
日本を旅立ってから、約8か月。激動の日々を経験して、俺は一生分の悲喜劇を味わった。たった8ヶ月である。1日が24時間、1か月が30日ちょいだとは、到底信じられない。天国がどうなのかは知らないが、地獄の責苦の数々に匹敵する苦難は存分に味わった。
ソマリア脱出から北を目指して遁走し、アルジェリアの港からオンボロ漁船でフランスとイタリアの国境に位置する港町まで地中海を渡った。
サハラの砂と垢と漁船のグリ-ス、魚油の汚れに塗れて、疲労困憊の俺を鄙びた港で待っていたのは、ジョギング大好きな馬鹿者であった。
(15)了
(14)
1991年1月、反政府勢力統一ソマリア会議(USC)が首都を制圧。バーレ大統領を追放し、暫定大統領にアリ・マハディ・モハメドが就任した。しかし、暫定政権発足に際し、各勢力の内部抗争が表面化し、6月には北部の旧英国領地域がソマリランド共和国として独立を宣言し、南北は再び分裂した。バーレ元大統領はナイジェリアのラゴスに亡命した。
USC内でも、アイディード将軍派がモハメド大統領派と対立。アイディード派の攻撃で首都を脱出したモハメド暫定大統領は、1991年12月に国際連合に対し、PKO部隊派遣を要請した。アイディード派は、その後、武装勢力4派と政治組織ソマリア国民同盟(SNA)を結成、モハメド派も11派を傘下に入れ内戦が激化した。
政治には興味も関心もなかったが、後に自分が味わった苦難の原因を知る為にも、歴史や政治状況といったものを学ぶ重要性を身を以て知った。
もっとも、時すでに遅しではある。訳も分からず右往左往する動乱の最中では、自分を取り巻く薄皮1枚の情報が優先で、対岸の火事を眺めるような野次馬の下馬評は、何の役にも立たない。
雑多な背景を持つ民兵組織、というより当時のソマリアの国民の大多数は、自ら武装した自衛軍である。それぞれの思惑で集団と化した戦闘集団が混在する、文字通りの混沌である。
無政府状態の各地域は、武闘派グループが弱肉強食の縄張り争いを繰り広げていた。
圧倒的な暴力は、理性も倫理も退ける。
群雄割拠する動乱の時代は、能書きだけが1人前の役立たずや頭脳・腕力の無い弱者に生き残るチャンスはない。対話による相互理解など、寝言に等しい。力の無い者は、話し合いの端緒にも列席できない。
中でも、よそ者の難民キャンプは、無用な物の代表である。
援助の食糧、医薬品が届かない。国連派遣の医者が真っ先に逃げ、続いてボランティアが避難を始める。
キャンプに残された難民は、戦々恐々の時間を過ごす。餓死者が増えるにつれ、キャンプの規模は縮小し、移動を余儀なくされた。別の難民キャンプと併合される毎に、窮乏や飢餓状態は深刻化していく。俺は、自分の傭兵としての報酬を食い物に変えて、自分とガキどもの空腹を埋めていたが、銀行口座に新規の入金も途絶え、あっという間に残額も底を尽いた。
街へ行っても、デモばかり。
知人も、頼るツテもない俺は徒労を繰り返す。港へ行き、貨物船から降ろされる荷が食糧だと見当を付けると、倉庫からの強奪の機会を窺う。
だが、考える事は皆、同じ。他の強奪グループによる激しい銃撃戦のドサクサに紛れて盗んできた米袋を担ぎ、命辛々キャンプへ逃げ帰る。
キャンプへ戻るタクシーの運転手は、いつかの俺に脅された、あの運チャンである。
数日ぶりの食糧である。キャンプへ戻る道中、俺は、袋から一掴みの生米を頬張る。危ない橋を渡ったのだ。これくらいの褒美はあっても良いだろう?
キャンプに着くなり、盗んできた米を袋の上から叩いて砕き、粒を小さくする。大量の水で茹でてドロドロの重湯のような粥にする。そうやってカサ増しした粥でも、キャンプの全員には行き渡らない。まだ体力の残っている者は、子供優先で自重する。一足先に盗み食いしている俺は恥入る。
何度も再編したキャンプだが、最初のキャンプにいた頃から俺の膝の上がお気に入りだったガキが、いつものように膝の上に乗ってくる。粥を汲んだカップからスプーンで掬い、口へ運んでやる。2、3回それを繰り返し、次を催促するのを待つ。
膝に乗せたガキの尻の辺りが生温く濡れ、排泄物の悪臭が臭ってくる。
「おいおい、クソ漏らしてんじゃねえぞ!」
俺は、カップを置いて、抱き直したガキの顔を覗き込む。クタリと力なく、体に張りの無いガキは土嚢に詰めた砂のように重かった。周りにいた他のガキどもも異変に気付いたようだ。それでも食事の手を休める事はなく、黒い顔に白目が目立つキョロリとした目で様子を窺っている。
俺は、息絶えたガキを片腕に抱き、キャンプを離れる。
例によって、死体を焼却する穴まで来て、俺は、ガキの死体を思いっ切り抱き締める。脆い骨がボキボキと砕ける音が肌に伝わってくる。もう一度、ガキの顔を見つめ、込み上げてくるものを押し殺し、穴に放り投げた。
乾いた土を濡れたズボンに擦り付け、それを何度も繰り返す。
天にまします我らが神よ。何故に、あなたは我に過酷な試練を与え給う?
エリ エリ サバクタニ・・・
この日から、永遠に、俺の神は死んだ・・・!
(14)了
1991年1月、反政府勢力統一ソマリア会議(USC)が首都を制圧。バーレ大統領を追放し、暫定大統領にアリ・マハディ・モハメドが就任した。しかし、暫定政権発足に際し、各勢力の内部抗争が表面化し、6月には北部の旧英国領地域がソマリランド共和国として独立を宣言し、南北は再び分裂した。バーレ元大統領はナイジェリアのラゴスに亡命した。
USC内でも、アイディード将軍派がモハメド大統領派と対立。アイディード派の攻撃で首都を脱出したモハメド暫定大統領は、1991年12月に国際連合に対し、PKO部隊派遣を要請した。アイディード派は、その後、武装勢力4派と政治組織ソマリア国民同盟(SNA)を結成、モハメド派も11派を傘下に入れ内戦が激化した。
政治には興味も関心もなかったが、後に自分が味わった苦難の原因を知る為にも、歴史や政治状況といったものを学ぶ重要性を身を以て知った。
もっとも、時すでに遅しではある。訳も分からず右往左往する動乱の最中では、自分を取り巻く薄皮1枚の情報が優先で、対岸の火事を眺めるような野次馬の下馬評は、何の役にも立たない。
雑多な背景を持つ民兵組織、というより当時のソマリアの国民の大多数は、自ら武装した自衛軍である。それぞれの思惑で集団と化した戦闘集団が混在する、文字通りの混沌である。
無政府状態の各地域は、武闘派グループが弱肉強食の縄張り争いを繰り広げていた。
圧倒的な暴力は、理性も倫理も退ける。
群雄割拠する動乱の時代は、能書きだけが1人前の役立たずや頭脳・腕力の無い弱者に生き残るチャンスはない。対話による相互理解など、寝言に等しい。力の無い者は、話し合いの端緒にも列席できない。
中でも、よそ者の難民キャンプは、無用な物の代表である。
援助の食糧、医薬品が届かない。国連派遣の医者が真っ先に逃げ、続いてボランティアが避難を始める。
キャンプに残された難民は、戦々恐々の時間を過ごす。餓死者が増えるにつれ、キャンプの規模は縮小し、移動を余儀なくされた。別の難民キャンプと併合される毎に、窮乏や飢餓状態は深刻化していく。俺は、自分の傭兵としての報酬を食い物に変えて、自分とガキどもの空腹を埋めていたが、銀行口座に新規の入金も途絶え、あっという間に残額も底を尽いた。
街へ行っても、デモばかり。
知人も、頼るツテもない俺は徒労を繰り返す。港へ行き、貨物船から降ろされる荷が食糧だと見当を付けると、倉庫からの強奪の機会を窺う。
だが、考える事は皆、同じ。他の強奪グループによる激しい銃撃戦のドサクサに紛れて盗んできた米袋を担ぎ、命辛々キャンプへ逃げ帰る。
キャンプへ戻るタクシーの運転手は、いつかの俺に脅された、あの運チャンである。
数日ぶりの食糧である。キャンプへ戻る道中、俺は、袋から一掴みの生米を頬張る。危ない橋を渡ったのだ。これくらいの褒美はあっても良いだろう?
キャンプに着くなり、盗んできた米を袋の上から叩いて砕き、粒を小さくする。大量の水で茹でてドロドロの重湯のような粥にする。そうやってカサ増しした粥でも、キャンプの全員には行き渡らない。まだ体力の残っている者は、子供優先で自重する。一足先に盗み食いしている俺は恥入る。
何度も再編したキャンプだが、最初のキャンプにいた頃から俺の膝の上がお気に入りだったガキが、いつものように膝の上に乗ってくる。粥を汲んだカップからスプーンで掬い、口へ運んでやる。2、3回それを繰り返し、次を催促するのを待つ。
膝に乗せたガキの尻の辺りが生温く濡れ、排泄物の悪臭が臭ってくる。
「おいおい、クソ漏らしてんじゃねえぞ!」
俺は、カップを置いて、抱き直したガキの顔を覗き込む。クタリと力なく、体に張りの無いガキは土嚢に詰めた砂のように重かった。周りにいた他のガキどもも異変に気付いたようだ。それでも食事の手を休める事はなく、黒い顔に白目が目立つキョロリとした目で様子を窺っている。
俺は、息絶えたガキを片腕に抱き、キャンプを離れる。
例によって、死体を焼却する穴まで来て、俺は、ガキの死体を思いっ切り抱き締める。脆い骨がボキボキと砕ける音が肌に伝わってくる。もう一度、ガキの顔を見つめ、込み上げてくるものを押し殺し、穴に放り投げた。
乾いた土を濡れたズボンに擦り付け、それを何度も繰り返す。
天にまします我らが神よ。何故に、あなたは我に過酷な試練を与え給う?
エリ エリ サバクタニ・・・
この日から、永遠に、俺の神は死んだ・・・!
(14)了
(13)
1991年、11月。
ソマリアの首都に、キナ臭い雰囲気が流れ始めた。内戦に明け暮れるソマリアでは、誰もが銃で武装している。男は言うまでもなく、女子供とて油断はできない。事実上の無政府状態にある中で、主流を成している複数の勢力・派閥の対立が激化していた。
飢饉による飢餓救済を謳った国連の食糧援助も不公平極まりない。食いっぱぐれたグループによる強奪。奪われたグループによる報復。異なる部族、言語、経済格差が生む無秩序な混乱と破壊。中途半端な教育水準の市民に対する、先進国からの主義や価値観の押し付け。政治的謀略・・・
ルワンダから来た難民キャンプにも、更なる暗雲が立ち込めていた。
国籍も経歴も様々な傭兵たち。俺も、その一人であった。
俺は、「俺は俺、他人は他人」と、一匹狼でいる事に疑問は持たない。だが大抵の人間は仲間外れや集団への帰属意識から、孤立する事を嫌う。
ま、当然だな。
何かと目の敵にされたり、嫌がらせはされるが、しばらくすると無くなる。俺を敵に回した奴は、ただじゃ済まない、済ませない。よって、触らぬナントカに祟りなし、と無視される様になる。
それでもチームを組んで派遣されているからには、単独行動は許されない。
いつものように、郊外での死体焼却に向かうと思っていたトラックは市街地へ向かい、いきなり市街での抗争のど真ん中で戦闘開始となった。どっちが敵で味方なのかも知れないが、俺に向けて撃ってきた来た奴は敵である。皆殺しにすれば良い。
自慢になるが、俺は直観力と切り替えの早い頭脳と並はずれた運動能力の持ち主である。
同士討ちが相次ぐ混戦の最中でさえ、俺は1発も弾を食らった事がない。1対多数のケンカは、ガキの頃から日常茶飯事。いちいち頭に血が上ってたら袋叩きのタコ殴りにされる。
待機モードから、即、戦闘モードに移行。研修で受けてきた軍隊訓練もあって、パブロフの犬を笑えない条件反射となっていた。
イスラム教の断食の月(ラマダン)である。それでなくても、夕刻から宵にかけての戦闘では、現地人の民兵はカート(別名、チャット)と呼ばれる麻薬でラリってるのが多い。隣国エチオピアはコーヒー豆の原産地なのだが、ソマリアではコーヒーのコの字も見当たらなかった。コーヒー(カフェイン)中毒の俺が2日以上もコーヒーに餓えたのは後にも先にも、この時ばかりだった。
ソマリア人が カートに耽溺するのはコーヒーが無いからとも思える。アルコールやニコチン、カフェインに慣れた俺には、さっぱり効かなかったが・・・
しかし、カフェインの渇望状態で駆け巡ったアドレナリンの威力は恐るべきものだった。アドレナリンで運動能力がブーストされ、周囲の景色の動きは緩慢となり、銃声さえも間延びして聞こえる。自分で撃った銃の弾丸が飛んで行くのさえ見える。それがもどかしくて、敵の懐に突撃してパンチでアバラ骨ごと心臓を破裂させる。間合いを読み違えると肘近くまで相手の胸に突き刺さる。お陰で俺の前腕や拳は、折れた肋骨の角で付いた傷跡だらけだ。長らく内戦の続くソマリアだが、HIV感染者が異常に少ないのは今もって幸いだった。
これぞ、火事場の馬鹿力。リミッターの切れた俺は、最早、人間ではなかった。
俺を知る者は、長く付き合うほど、俺の極端な性格を垣間見てる事だろう。
無口で大人しい、穏やかな人柄かと思えば、才気煥発、のべつ幕なし喋り続け、毒舌が立て板に水の如しで、冗談なのか本気なのかさえ区別できない、英雄と道化が同居する複雑怪奇な性格。等々を・・・
夜闇が濃くなり、道路を塞ぐバリケードの近くで、燃えるタイヤの赤い炎がチラチラと舌なめずりしている。黒煙は闇に紛れて見えない。栄養失調で鳥目がちな兵たちは戦闘を終える。
抗争の騒ぎが収まると、怪我人を運ぶ者や死体の身包みを剥がす者に混じって俺も見つけた銃の弾倉や弾薬を拾い集める。
飢餓や貧困に喘ぐソマリアの市街地だが、武器・弾薬は腐るほどある。自動小銃も古いのはソ連諸国製だが、新しい銃ほどメイド・イン・チャイナが多くなる。アメリカを始めとする西欧諸国製の武器を多く装備している勢力のバックは、やはりCIAか?
人道支援を表で謳いながら、裏では武器供与、である。
政治というのは、二枚舌を如何に巧妙に駆使して世論を欺くか、なのであろう。
自分の銃の弾倉を満たし、キャンプへ持ち帰る必要物資を集め終えた俺は、行きに乗ってきたトラックが無い事に気付いた。置き去りにされたか、破壊されたかの、どちらかだろう。
「ま、いいさ」
俺は、能天気な通常モードに復帰していた。隣のブロックまで歩き、タクシーを探す。
「You want killing? or Keep quiet,do take reward?
jy wil doodmaak? of Bly stil, doen beloning?」
(お前、殺されたいか?大人しくしてたら、褒美をやるぞ)」
ブロークン・イングリッシュと片言のアフリカーンスで言い、何より問答無用の銃でタクシーの運転手を脅し、自分で運転してキャンプまで戻った。俺に脅された哀れな運転手には、先程拾い集めたカートの束をプレゼントして帰らせた。この運転手は、その後も何度か置いてけぼりを食った俺をキャンプまで送り届けてくれた。現金より、現物がものをいう紛争地帯である。
短期間で周囲の人間の顔ぶれが入れ替わる日常にも慣れてきた頃、決定的な変化が訪れた。
(13)了
1991年、11月。
ソマリアの首都に、キナ臭い雰囲気が流れ始めた。内戦に明け暮れるソマリアでは、誰もが銃で武装している。男は言うまでもなく、女子供とて油断はできない。事実上の無政府状態にある中で、主流を成している複数の勢力・派閥の対立が激化していた。
飢饉による飢餓救済を謳った国連の食糧援助も不公平極まりない。食いっぱぐれたグループによる強奪。奪われたグループによる報復。異なる部族、言語、経済格差が生む無秩序な混乱と破壊。中途半端な教育水準の市民に対する、先進国からの主義や価値観の押し付け。政治的謀略・・・
ルワンダから来た難民キャンプにも、更なる暗雲が立ち込めていた。
国籍も経歴も様々な傭兵たち。俺も、その一人であった。
俺は、「俺は俺、他人は他人」と、一匹狼でいる事に疑問は持たない。だが大抵の人間は仲間外れや集団への帰属意識から、孤立する事を嫌う。
ま、当然だな。
何かと目の敵にされたり、嫌がらせはされるが、しばらくすると無くなる。俺を敵に回した奴は、ただじゃ済まない、済ませない。よって、触らぬナントカに祟りなし、と無視される様になる。
それでもチームを組んで派遣されているからには、単独行動は許されない。
いつものように、郊外での死体焼却に向かうと思っていたトラックは市街地へ向かい、いきなり市街での抗争のど真ん中で戦闘開始となった。どっちが敵で味方なのかも知れないが、俺に向けて撃ってきた来た奴は敵である。皆殺しにすれば良い。
自慢になるが、俺は直観力と切り替えの早い頭脳と並はずれた運動能力の持ち主である。
同士討ちが相次ぐ混戦の最中でさえ、俺は1発も弾を食らった事がない。1対多数のケンカは、ガキの頃から日常茶飯事。いちいち頭に血が上ってたら袋叩きのタコ殴りにされる。
待機モードから、即、戦闘モードに移行。研修で受けてきた軍隊訓練もあって、パブロフの犬を笑えない条件反射となっていた。
イスラム教の断食の月(ラマダン)である。それでなくても、夕刻から宵にかけての戦闘では、現地人の民兵はカート(別名、チャット)と呼ばれる麻薬でラリってるのが多い。隣国エチオピアはコーヒー豆の原産地なのだが、ソマリアではコーヒーのコの字も見当たらなかった。コーヒー(カフェイン)中毒の俺が2日以上もコーヒーに餓えたのは後にも先にも、この時ばかりだった。
ソマリア人が カートに耽溺するのはコーヒーが無いからとも思える。アルコールやニコチン、カフェインに慣れた俺には、さっぱり効かなかったが・・・
しかし、カフェインの渇望状態で駆け巡ったアドレナリンの威力は恐るべきものだった。アドレナリンで運動能力がブーストされ、周囲の景色の動きは緩慢となり、銃声さえも間延びして聞こえる。自分で撃った銃の弾丸が飛んで行くのさえ見える。それがもどかしくて、敵の懐に突撃してパンチでアバラ骨ごと心臓を破裂させる。間合いを読み違えると肘近くまで相手の胸に突き刺さる。お陰で俺の前腕や拳は、折れた肋骨の角で付いた傷跡だらけだ。長らく内戦の続くソマリアだが、HIV感染者が異常に少ないのは今もって幸いだった。
これぞ、火事場の馬鹿力。リミッターの切れた俺は、最早、人間ではなかった。
俺を知る者は、長く付き合うほど、俺の極端な性格を垣間見てる事だろう。
無口で大人しい、穏やかな人柄かと思えば、才気煥発、のべつ幕なし喋り続け、毒舌が立て板に水の如しで、冗談なのか本気なのかさえ区別できない、英雄と道化が同居する複雑怪奇な性格。等々を・・・
夜闇が濃くなり、道路を塞ぐバリケードの近くで、燃えるタイヤの赤い炎がチラチラと舌なめずりしている。黒煙は闇に紛れて見えない。栄養失調で鳥目がちな兵たちは戦闘を終える。
抗争の騒ぎが収まると、怪我人を運ぶ者や死体の身包みを剥がす者に混じって俺も見つけた銃の弾倉や弾薬を拾い集める。
飢餓や貧困に喘ぐソマリアの市街地だが、武器・弾薬は腐るほどある。自動小銃も古いのはソ連諸国製だが、新しい銃ほどメイド・イン・チャイナが多くなる。アメリカを始めとする西欧諸国製の武器を多く装備している勢力のバックは、やはりCIAか?
人道支援を表で謳いながら、裏では武器供与、である。
政治というのは、二枚舌を如何に巧妙に駆使して世論を欺くか、なのであろう。
自分の銃の弾倉を満たし、キャンプへ持ち帰る必要物資を集め終えた俺は、行きに乗ってきたトラックが無い事に気付いた。置き去りにされたか、破壊されたかの、どちらかだろう。
「ま、いいさ」
俺は、能天気な通常モードに復帰していた。隣のブロックまで歩き、タクシーを探す。
「You want killing? or Keep quiet,do take reward?
jy wil doodmaak? of Bly stil, doen beloning?」
(お前、殺されたいか?大人しくしてたら、褒美をやるぞ)」
ブロークン・イングリッシュと片言のアフリカーンスで言い、何より問答無用の銃でタクシーの運転手を脅し、自分で運転してキャンプまで戻った。俺に脅された哀れな運転手には、先程拾い集めたカートの束をプレゼントして帰らせた。この運転手は、その後も何度か置いてけぼりを食った俺をキャンプまで送り届けてくれた。現金より、現物がものをいう紛争地帯である。
短期間で周囲の人間の顔ぶれが入れ替わる日常にも慣れてきた頃、決定的な変化が訪れた。
(13)了
平均0.14秒(±0.02秒)
ストップ・ウォッチのスタート、ストップの2クリックに要する時間である。
通常、親指で押すボタンだが、これを人差し指の第一関節から先でやる。
銃の引き金(トリガー)を引く動作である。2クリック(動作)なので半分なら0.07秒ということになる。1秒間に14発を撃てる計算だ。このスピードを20年以上、保っている。
早撃ちのギネス記録には到底かなわないが、これが俺の限界速度である。
ちなみに昔作った自主映画の中で、サム・ブレイクのヒップ・ホルスターから4インチ銃身のリボルバーをクイック・ドロウするシーンをやった。
VHSの29.97フレ-ム/秒を30フレーム/秒に変換した動画で観ても、スタートから抜き放つまでが1秒弱である。早撃ちのシーンではないので、ゆっくりとした動作だが、1/30秒のシャッター・スピードでは動きの全貌は捉えられないが、動作開始からグリップを握り、止め革(ストラップ)のスナップ・ボタンを外し、ハンマーを起こしつつ、ホルスターから抜くまでが16フレーム(コマ)だから、0.54秒という事になる。抜いて、撃つまでのトータルだと1.2秒だ。
国内で本物のピストルは撃てないので海外でとなるが、海外でも野外のプライベート・レンジ以外だとクイック・ドロウは禁止の所が多い。自分の脚を撃ったり、天井に穴を開けたり、何よりロクに狙いも付けずに撃った日には、弾丸(タマ)は月か火星を目指して飛んで行く・・・ならマシな方。その場に居合わせた者は、自分も含めて危険極まりない。
そんな俺だって、5メートル先の直径50センチの的を外さないのが、やっとである。
俺が書いた小説に登場するキャラの中でも射撃に長じた矢崎圭介や村上とて30センチの的が良いところ。作中では、20代後半の最盛期だった矢崎でも、3メートルの距離で落下する350ミリ・リットルのコーラ缶に秒間3発を撃ち込むのがせいぜいだ。
(これは、俺が同様に、放り投げた缶に抜き撃ちで1発目を命中させるのに掛った時間を半分にして算出した描写である。誰に習った訳でもないが、俺はガキの頃から射撃が得意だった)
さて、俺の反応速度である0.14秒(±0.02秒)であるが、0.12から0.16秒までのタイムを、連続百回繰り返して95回以上叩き出せれば、俺の中では合格である。
光速は、約30万キロメートル毎秒。
(小学校の頃、憶えさせられたね~。299,792.458 km/s・・・ニククナクニシゴヤ)
音速は、マッハの定理に従うが、凡そ340m/s。
神経の伝達速度、約30~70m/s。
(俺の場合、0.02の測定誤差範囲なら、50m/s)
大して反応速度が速い訳じゃないが、遅くもない。いたって中庸である。日常生活の役には立たないが(必要もないが・・・)、0.02秒という一瞬を意識して訓練を続けてると色々と見えてくる。
俺は、柔道、空手に合気道、少林寺拳法にボクシング等々と、ケンカの役に立ちそうな格闘技は一通りマスターしてきた。
「先の先」というのがある。相手の動きの、更に先を読んで動くという事だ。どんな動きにも予備動作がある。椅子に座った状態から立ち上がるには、座った状態では腰にある重心位置を前方の足に移動させる為に、上体を前傾させなければならない。このような予備動作をいち早く掴んで、その先にある次の行動を予測する。そんな思考パターンが身に付いている。
これが役に立つのがハンティングである。4つ脚の獲物は、固定された標的紙と違って、水平方向360度、地形によっては垂直方向にも自由に動ける。だが、実際は鼻先の向いた前方にしか進めない。4つ脚の哺乳類は、サイド・ステップが出来ない。ヒール・アンド・トウ・ターン(回れ右)が出来ない。市街地でも、道路を横切る犬や猫などがクルマに轢かれそうになった場合、一様に前方へダッシュするのが良い例である。
ハンティングでは、超音速で飛ぶ弾丸でさえ、移動する獲物の未来位置(狙い越し。リードという)を狙わねば、当たらない。
映画やマンガでは、長距離からの狙撃でターゲットのセンターを狙う映像が出て来るが、そんな狙い方では絶対に当たらない。フレッド・ジンネマン監督の映画「ジャッカルの日」でもハズしまくってるが、当然である。
(射撃能力は予知能力と関係があるのか、デジャヴ(既視感)をよく見る。デジャヴは記憶の混乱とも言われるが、詳細な夢日記をつけてる俺の場合は、どうなんだろう? ま、予知夢とデジャヴは別物だが・・・)
だいぶ横道に話が逸れたので、戻す。
俺が反応(反射ではない)速度に気を配るのは、射撃における安全確保の為である。
射撃競技や狩猟のいずれも、矢なり弾丸なりを発射した後では手の施しようがない。
銃を撃つのは簡単である。弾を装填して、引き金を引けばいい。弾がどこに飛んで行くかは保証の限りじゃないが。
毎年、猟場や射場で誤射による事故が絶えない。先日も、弓道場で標的から矢を回収をしていた高校生に、別の者が射た矢が刺さるという事故があった。
自分が狙ってる的からは距離があるし、日頃から、矢先に人がいようが、誰かが射撃中であろうが、お構いなし勝手気ままにやってたらしい。起こるべくして起きた事故であるが、安全確保という大前提を無視した行為は、競技に臨む者としては撃った方・撃たれた方どちらも失格である。
整備されてるはずの射場でこのザマだから、猟場での事故は後を絶たない。
トリガーに指を掛けたまま移動していて暴発させる。
獲物か否かを確認せず撃つ。
射線上に木の幹や枝、岩などがあっても、まずは撃つ(跳弾を考慮していない)と、自分だけが痛い思いをするなら自業自得だが、大抵は規制がうるさくなったり厳しくなったりと、無関係な者にトバッチリがくる。
撃つ直前まで、引き金には触れない。
獲物や矢先を確認してから、撃つ。
銃の所持や狩猟講習で真っ先に習う基本が出来ていない者は、銃を手にする資格はない。
自主映画の中でも、俺は撃つ時以外、トリガーから執拗に指を離している。撮影中、例え弾の出ないオモチャの銃とはいえ、銃口は人に向けない。撮影の都合で、カメラに向かって銃口を向ける場合は、カメラから離れて射線上には立たない等、かなり神経を使ってた。
「注意1秒、怪我一生」
瞬きや熱い物に触れた時、とっさに手を引っ込める延髄反射は不随意運動と呼ばれる。不随意の文字通り、意識と関係なしに体が勝手に動く。
それに対して、安全確認や障害物回避の意識的行動は随意運動である。状況を瞬時に判断して適切な行動をとる。と言うのは簡単だが、実行するのは難しい。延髄反射と違って、意識的な反応速度は年齢とともに衰えていく。過去の経験や記憶に頼った判断でしくじる事は、階段を踏み損なったり、微々たる段差で躓いたりと高齢者なら誰しも経験済みであろう。
人一倍、体力には自信がある俺でさえ、トシには勝てない。鍛えて育つ年齢じゃないから、かつて鍛えた能力を衰えさせないように維持するのが精一杯である。
山や渓流を歩いていて、段差や飛び石の数メートルの幅跳びを前に足が竦む。若い頃は助走無しでも4~5メーターの間隔なら、楽々と岩から岩へと飛び移っていたのに、歩幅よりわずかに広い1メーター弱でも足が止まる。
危険をかえりみない無謀や無茶が勲章だった「若さは、バカさ」の頃とは違うと、忸怩たる思いに悔し涙を覚える自分を押し宥めて、確実に渡れる足場を探す。
現代文明の機械や動力に頼った生活の中で、生身の自分の限界を知れる機会は少ない。「年寄りの冷や水」と言われるより、「亀の甲より年の功」と言われる方がマシだと痛感している今日この頃であった。
ストップ・ウォッチのスタート、ストップの2クリックに要する時間である。
通常、親指で押すボタンだが、これを人差し指の第一関節から先でやる。
銃の引き金(トリガー)を引く動作である。2クリック(動作)なので半分なら0.07秒ということになる。1秒間に14発を撃てる計算だ。このスピードを20年以上、保っている。
早撃ちのギネス記録には到底かなわないが、これが俺の限界速度である。
ちなみに昔作った自主映画の中で、サム・ブレイクのヒップ・ホルスターから4インチ銃身のリボルバーをクイック・ドロウするシーンをやった。
VHSの29.97フレ-ム/秒を30フレーム/秒に変換した動画で観ても、スタートから抜き放つまでが1秒弱である。早撃ちのシーンではないので、ゆっくりとした動作だが、1/30秒のシャッター・スピードでは動きの全貌は捉えられないが、動作開始からグリップを握り、止め革(ストラップ)のスナップ・ボタンを外し、ハンマーを起こしつつ、ホルスターから抜くまでが16フレーム(コマ)だから、0.54秒という事になる。抜いて、撃つまでのトータルだと1.2秒だ。
国内で本物のピストルは撃てないので海外でとなるが、海外でも野外のプライベート・レンジ以外だとクイック・ドロウは禁止の所が多い。自分の脚を撃ったり、天井に穴を開けたり、何よりロクに狙いも付けずに撃った日には、弾丸(タマ)は月か火星を目指して飛んで行く・・・ならマシな方。その場に居合わせた者は、自分も含めて危険極まりない。
そんな俺だって、5メートル先の直径50センチの的を外さないのが、やっとである。
俺が書いた小説に登場するキャラの中でも射撃に長じた矢崎圭介や村上とて30センチの的が良いところ。作中では、20代後半の最盛期だった矢崎でも、3メートルの距離で落下する350ミリ・リットルのコーラ缶に秒間3発を撃ち込むのがせいぜいだ。
(これは、俺が同様に、放り投げた缶に抜き撃ちで1発目を命中させるのに掛った時間を半分にして算出した描写である。誰に習った訳でもないが、俺はガキの頃から射撃が得意だった)
さて、俺の反応速度である0.14秒(±0.02秒)であるが、0.12から0.16秒までのタイムを、連続百回繰り返して95回以上叩き出せれば、俺の中では合格である。
光速は、約30万キロメートル毎秒。
(小学校の頃、憶えさせられたね~。299,792.458 km/s・・・ニククナクニシゴヤ)
音速は、マッハの定理に従うが、凡そ340m/s。
神経の伝達速度、約30~70m/s。
(俺の場合、0.02の測定誤差範囲なら、50m/s)
大して反応速度が速い訳じゃないが、遅くもない。いたって中庸である。日常生活の役には立たないが(必要もないが・・・)、0.02秒という一瞬を意識して訓練を続けてると色々と見えてくる。
俺は、柔道、空手に合気道、少林寺拳法にボクシング等々と、ケンカの役に立ちそうな格闘技は一通りマスターしてきた。
「先の先」というのがある。相手の動きの、更に先を読んで動くという事だ。どんな動きにも予備動作がある。椅子に座った状態から立ち上がるには、座った状態では腰にある重心位置を前方の足に移動させる為に、上体を前傾させなければならない。このような予備動作をいち早く掴んで、その先にある次の行動を予測する。そんな思考パターンが身に付いている。
これが役に立つのがハンティングである。4つ脚の獲物は、固定された標的紙と違って、水平方向360度、地形によっては垂直方向にも自由に動ける。だが、実際は鼻先の向いた前方にしか進めない。4つ脚の哺乳類は、サイド・ステップが出来ない。ヒール・アンド・トウ・ターン(回れ右)が出来ない。市街地でも、道路を横切る犬や猫などがクルマに轢かれそうになった場合、一様に前方へダッシュするのが良い例である。
ハンティングでは、超音速で飛ぶ弾丸でさえ、移動する獲物の未来位置(狙い越し。リードという)を狙わねば、当たらない。
映画やマンガでは、長距離からの狙撃でターゲットのセンターを狙う映像が出て来るが、そんな狙い方では絶対に当たらない。フレッド・ジンネマン監督の映画「ジャッカルの日」でもハズしまくってるが、当然である。
(射撃能力は予知能力と関係があるのか、デジャヴ(既視感)をよく見る。デジャヴは記憶の混乱とも言われるが、詳細な夢日記をつけてる俺の場合は、どうなんだろう? ま、予知夢とデジャヴは別物だが・・・)
だいぶ横道に話が逸れたので、戻す。
俺が反応(反射ではない)速度に気を配るのは、射撃における安全確保の為である。
射撃競技や狩猟のいずれも、矢なり弾丸なりを発射した後では手の施しようがない。
銃を撃つのは簡単である。弾を装填して、引き金を引けばいい。弾がどこに飛んで行くかは保証の限りじゃないが。
毎年、猟場や射場で誤射による事故が絶えない。先日も、弓道場で標的から矢を回収をしていた高校生に、別の者が射た矢が刺さるという事故があった。
自分が狙ってる的からは距離があるし、日頃から、矢先に人がいようが、誰かが射撃中であろうが、お構いなし勝手気ままにやってたらしい。起こるべくして起きた事故であるが、安全確保という大前提を無視した行為は、競技に臨む者としては撃った方・撃たれた方どちらも失格である。
整備されてるはずの射場でこのザマだから、猟場での事故は後を絶たない。
トリガーに指を掛けたまま移動していて暴発させる。
獲物か否かを確認せず撃つ。
射線上に木の幹や枝、岩などがあっても、まずは撃つ(跳弾を考慮していない)と、自分だけが痛い思いをするなら自業自得だが、大抵は規制がうるさくなったり厳しくなったりと、無関係な者にトバッチリがくる。
撃つ直前まで、引き金には触れない。
獲物や矢先を確認してから、撃つ。
銃の所持や狩猟講習で真っ先に習う基本が出来ていない者は、銃を手にする資格はない。
自主映画の中でも、俺は撃つ時以外、トリガーから執拗に指を離している。撮影中、例え弾の出ないオモチャの銃とはいえ、銃口は人に向けない。撮影の都合で、カメラに向かって銃口を向ける場合は、カメラから離れて射線上には立たない等、かなり神経を使ってた。
「注意1秒、怪我一生」
瞬きや熱い物に触れた時、とっさに手を引っ込める延髄反射は不随意運動と呼ばれる。不随意の文字通り、意識と関係なしに体が勝手に動く。
それに対して、安全確認や障害物回避の意識的行動は随意運動である。状況を瞬時に判断して適切な行動をとる。と言うのは簡単だが、実行するのは難しい。延髄反射と違って、意識的な反応速度は年齢とともに衰えていく。過去の経験や記憶に頼った判断でしくじる事は、階段を踏み損なったり、微々たる段差で躓いたりと高齢者なら誰しも経験済みであろう。
人一倍、体力には自信がある俺でさえ、トシには勝てない。鍛えて育つ年齢じゃないから、かつて鍛えた能力を衰えさせないように維持するのが精一杯である。
山や渓流を歩いていて、段差や飛び石の数メートルの幅跳びを前に足が竦む。若い頃は助走無しでも4~5メーターの間隔なら、楽々と岩から岩へと飛び移っていたのに、歩幅よりわずかに広い1メーター弱でも足が止まる。
危険をかえりみない無謀や無茶が勲章だった「若さは、バカさ」の頃とは違うと、忸怩たる思いに悔し涙を覚える自分を押し宥めて、確実に渡れる足場を探す。
現代文明の機械や動力に頼った生活の中で、生身の自分の限界を知れる機会は少ない。「年寄りの冷や水」と言われるより、「亀の甲より年の功」と言われる方がマシだと痛感している今日この頃であった。
中学卒業と同時に、家を飛び出して自活。昼間は会社、夜は学校の勤労学生しながら、どっかの馬鹿野郎・女郎の尻拭いで赤子背負い込んで、当時の最低賃金・時給400円そこらに、内職やら、歳誤魔化しての深夜労働で、寝る間も休みも無く働いた。
お人好しにも程があるが、そんな状況で生まれてきた娘も、来月で24歳。
娘が、ませた生意気を抜かした小学生の頃、
「血の繋がりはないが、どうせ俺が産んだ訳じゃない。他人が産んだガキを育てるのが、男の役割だ。お前の生みの親は、どうしようもない馬鹿者だったが、それがどうした?
俺の親だって、似たようなものだった。伯父さん、伯母さんの世話がなけりゃ、野垂れ死んでたかも知れん。生みの親より育ての親、って言うだろう。
俺は、お前の親になる。そう言ったし、俺が決めた。
赤ん坊のお前を、ねんねこで背負って仕事行くくらい当たり前だと思っていた。日頃、ロクに眠らずに働き詰めで、座るのさえ億劫で草臥れ惚けて寝転んでると、お前がが這い寄ってきて、構ってくれ、と仕草で催促する。それが可愛くてな。ま、憶えちゃいないだろうがな・・・
俺は、お前を励みに頑張ってきたし、お前が一刻も早く俺の手を離れてくれるのを願ってる。逞しくなれ、強くなれ!」
俺は、そう言って、娘を抱き締めた。
さて、こんな義理の親子の美談も関係なしに、世情は仕事不足である。
俺も、派遣の契約終了で、2ヶ月そこらの派遣労働は、終わりである。俺みたいに、短期であっちだ、こっちだと動き回る人間は忌み嫌われる。恐らく、チャレンジ精神のない公務員の発想なんだろうが、民間の企業でこの悪習に囚われたら、お仕舞である。本当に使える人間は、定着しない。肩書きより、実績である。履歴書提出しろという会社は、脳味噌が糠味噌か、腐ってるんだろう。
日本の常識は、世界の非常識。
(国際化というなら、外人をもっと雇え!海外に出て行け!!)
ニュースを見ても、政府の閣僚・大臣の誰が辞めろ、いつ辞める?云々だけが取り立たされる。
切れば良くなるのか?
他の奴らは、何をしているんだ!?
肩書きを背負わせた人間(面倒な役回りを押し付けた)をコロコロと変えるより、知恵を出せ!支えろ!!
それが本来の民主主義の姿だろうが!!!
・・・いずれにしろ、足の引っ張り合いしか能がない奴らが、この国を支配している。これじゃ、お先は真っ暗だ。
クーデター、起こそうか?
霞が関に原爆落としてやろうかと、オホーツクの海に潜る準備をしている俺であった。
(核軍縮とはいえ、核弾頭の解体処理は手間も金も掛る。起爆信管抜いただけで、原潜ごと沈めてある。それに、いつまた必要になるか分からんからストックしてある。それが現実よ)
お人好しにも程があるが、そんな状況で生まれてきた娘も、来月で24歳。
娘が、ませた生意気を抜かした小学生の頃、
「血の繋がりはないが、どうせ俺が産んだ訳じゃない。他人が産んだガキを育てるのが、男の役割だ。お前の生みの親は、どうしようもない馬鹿者だったが、それがどうした?
俺の親だって、似たようなものだった。伯父さん、伯母さんの世話がなけりゃ、野垂れ死んでたかも知れん。生みの親より育ての親、って言うだろう。
俺は、お前の親になる。そう言ったし、俺が決めた。
赤ん坊のお前を、ねんねこで背負って仕事行くくらい当たり前だと思っていた。日頃、ロクに眠らずに働き詰めで、座るのさえ億劫で草臥れ惚けて寝転んでると、お前がが這い寄ってきて、構ってくれ、と仕草で催促する。それが可愛くてな。ま、憶えちゃいないだろうがな・・・
俺は、お前を励みに頑張ってきたし、お前が一刻も早く俺の手を離れてくれるのを願ってる。逞しくなれ、強くなれ!」
俺は、そう言って、娘を抱き締めた。
さて、こんな義理の親子の美談も関係なしに、世情は仕事不足である。
俺も、派遣の契約終了で、2ヶ月そこらの派遣労働は、終わりである。俺みたいに、短期であっちだ、こっちだと動き回る人間は忌み嫌われる。恐らく、チャレンジ精神のない公務員の発想なんだろうが、民間の企業でこの悪習に囚われたら、お仕舞である。本当に使える人間は、定着しない。肩書きより、実績である。履歴書提出しろという会社は、脳味噌が糠味噌か、腐ってるんだろう。
日本の常識は、世界の非常識。
(国際化というなら、外人をもっと雇え!海外に出て行け!!)
ニュースを見ても、政府の閣僚・大臣の誰が辞めろ、いつ辞める?云々だけが取り立たされる。
切れば良くなるのか?
他の奴らは、何をしているんだ!?
肩書きを背負わせた人間(面倒な役回りを押し付けた)をコロコロと変えるより、知恵を出せ!支えろ!!
それが本来の民主主義の姿だろうが!!!
・・・いずれにしろ、足の引っ張り合いしか能がない奴らが、この国を支配している。これじゃ、お先は真っ暗だ。
クーデター、起こそうか?
霞が関に原爆落としてやろうかと、オホーツクの海に潜る準備をしている俺であった。
(核軍縮とはいえ、核弾頭の解体処理は手間も金も掛る。起爆信管抜いただけで、原潜ごと沈めてある。それに、いつまた必要になるか分からんからストックしてある。それが現実よ)
(12)
一部の人間の勝手な都合を押し付けられ、ハズレを掴まされた者たち。
それが難民の正体である。
1990年代初頭、長く続いた東西冷戦の終結は、決してハッピーな出来事とは言えない側面を持っていた。
米ソの2大超大国が自身の威信と覇権を賭けて争っていた時代。暗黒大陸と呼ばれたアフリカが、植民地時代からの脱却と新興国家としての再出発に東西陣営は飴と蜜の助力をちらつかせて自勢力に取り込もうと躍起になっていた頃の、待遇次第でどちらにでも転ぶ、という姿勢で米ソ両陣営からの援助を引き出していた日和見主義が通用しなくなった。何より、資金や物資が融通されなくなった。
独裁であっても、市民はメシが食えているうちは大人しくしていた。国内に渦巻く格差や不公平、政府に対する不満を抑え付けていた飴玉が底を尽いた時、ついに内戦が勃発。
植民地時代の旧宗主国によって、異なる民族、部族を考慮せずに引かれた国境線のお陰で分断されたマイノリティは真っ先に戦火を逃れ国外に脱出した。だが、隣国とて状況は似たり寄ったり。他国の難民など受け入れる余地は無い。
やがて地の果てへと追い立てられた。これより先は、大海原。徒歩では渡れない。先には進めず、戻るに戻れず。かくして難民キャンプが成立した。
俺が送り込まれたソマリアの難民キャンプとは、そんな所であった。
旱魃と豪雨が交互にやって来る異常気象。ソマリア自体が食糧難に端を発した内乱の戦争状態であった。
俺には、2つの任務があった。難民キャンプを出入りする者の監視と医療ボランティアの雑用である。
早朝、気温の下がる夜間に低体温症で死んだ者の死体を集めて回る。死体から衣服を剥ぎ取り、トラックの荷台に無造作に放り込む。死者に対する哀悼の念など、ここへ来て3日と経たずに消えた。
「人間も死ねばゴミになるだけ」
俺の人生訓に書き加えられた1条である。
郊外に掘った穴に死体を捨て、大型のポリ・タンクに赤土で濁った水を汲んでキャンプに戻る。簡単な濾過器を通した濁り水を火にかけた金ダライで沸かす。脱脂粉乳か穀物粉を湯に溶かしたものが配給の食事である。穀物粉というのは、小麦粉、澱粉、ビール滓、大豆滓、挽き割りトウモロコシなど様々であるが、一番分かり易いのが日本からの援助物資である。
「くみあい配合飼料バード・ミール」「~ミート・ポーク」といった家畜の餌である。
日本は当時、まだバブルの余韻に浸っていた頃である。ODAなどの政府の資金援助は、供与された国の政府上層部が着服するものと相場が決まっている。どこに消えたか、何に使われたか不明の義援金や寄付金の残り滓しか、本来必要とされる現場には落ちてこない。
海外からのボランティアや支援団体が扱う難民など、俺がいたキャンプに比べれば天国とまではいかないが、マシな部類である。何しろ、あちらは募金集めの広告塔である。先進国の茶の間のテレビに流せる映像となれば、同情を誘う程度の軽い悲惨でなければならない。
タライに一杯の配給食が出来上がったところで、「メシの時間だぞ!」と、俺は日本語で怒鳴る。言葉は通じなくても、意味は通じる。
腹を空かした者たちが、手に手に器を持って集まってくる。この際、自力で配給食が摂れない衰弱者や病人は、残念だが見捨てる。元々、見捨てられた存在なのだから仕方がない。
難民キャンプが出来てしばらく経つと、キャンプに残っている者は女子供と一握りの年寄りだけになる。働ける男は、鉱山や農場に行くか、兵士として国へ戻る。女は、売春宿か工場か、である。年寄りは、働きに出る女の代わりに育児をするか、餓死するしかない。
親は死んだか、捨てられたガキどもの一団が、俺を取り囲んで粉ミルクのメシを舐める。図々しいヤツだと俺の膝の上に座り込んで、飲ませろと催促しやがる。
ガキどものメシの世話をしながら人数を数える。キャンプには、人身売買のブローカーが出没する。子供が欲しい金持ち相手に、さらってきた子供を売るのだ。子育てが趣味のような物好きもいるが、成長したら捨てる不届き者が多い。子供はペットじゃない。また、ロリコン趣味の異常性愛者の餌食というのもある。
ま、こんな難民キャンプで野垂れ死ぬよりはマシかも知れないが、不幸には違いない。が、何より俺が注意しなきゃならんのは、乳児の誘拐である。こちらは言語道断である。
どこの国だか知れんが、赤ん坊のエキスを若返りの薬と称して売り捌く鬼畜がいる。処女の生き血をすするドラキュラじゃあるまいし、何故そんなオカルトめいた悪行が蔓延るのか?
迷信を信じる未開の人間ならいざ知らず、れっきとした先進国の人間がやる事とは思えない。
昼過ぎ、巡回の医師団がやって来る。やる事といえば、疫病の気配がないか見て回るだけ。残念ながら、抗生物質タップリの家畜の餌を食わしてる限り、病原菌による疫病の心配はない。怪我の功名とはいえ、皮肉なものである。
日が傾き、気温が下がってくる頃、俺は郊外の死体を放り込んだ穴へと向かう。
日中の熱気で程良く干乾びた死体にガソリンをぶっかける。乾いたスポンジが水を吸うように、ガソリンを吸って膨れ上がった死体に火を点ける。オレンジ色の炎と黒煙を上げて、ガソリンがまず燃える。次第に、肉の焼ける香ばしい匂いと脂肪が燃える甘ったるい匂いが漂う。やがて死体の膨れた腹が破裂し、内臓が弾け出る。腸が焼けてくるとアンモニア臭が鼻をつく。大小便が沸騰し、燃える悪臭だ。
こうして死体を焼却するのも日課である。放置すれば病原生物の温床となり、疫病の原因になる。また、餓えた者たちが死肉を漁らないようにする為だ。
炎が衰え、消し炭のようになった物体を棒で突き崩し、再びガソリンを注いで、骨も残さず灰と化すまで焼き尽くす。これが医療ボランティアの雑用仕事である。
水を汲み、キャンプへ戻る。ガキどもに餌のメシを食わせながら、沈む夕日の赤さに目を焦がす・・・
(12)了
一部の人間の勝手な都合を押し付けられ、ハズレを掴まされた者たち。
それが難民の正体である。
1990年代初頭、長く続いた東西冷戦の終結は、決してハッピーな出来事とは言えない側面を持っていた。
米ソの2大超大国が自身の威信と覇権を賭けて争っていた時代。暗黒大陸と呼ばれたアフリカが、植民地時代からの脱却と新興国家としての再出発に東西陣営は飴と蜜の助力をちらつかせて自勢力に取り込もうと躍起になっていた頃の、待遇次第でどちらにでも転ぶ、という姿勢で米ソ両陣営からの援助を引き出していた日和見主義が通用しなくなった。何より、資金や物資が融通されなくなった。
独裁であっても、市民はメシが食えているうちは大人しくしていた。国内に渦巻く格差や不公平、政府に対する不満を抑え付けていた飴玉が底を尽いた時、ついに内戦が勃発。
植民地時代の旧宗主国によって、異なる民族、部族を考慮せずに引かれた国境線のお陰で分断されたマイノリティは真っ先に戦火を逃れ国外に脱出した。だが、隣国とて状況は似たり寄ったり。他国の難民など受け入れる余地は無い。
やがて地の果てへと追い立てられた。これより先は、大海原。徒歩では渡れない。先には進めず、戻るに戻れず。かくして難民キャンプが成立した。
俺が送り込まれたソマリアの難民キャンプとは、そんな所であった。
旱魃と豪雨が交互にやって来る異常気象。ソマリア自体が食糧難に端を発した内乱の戦争状態であった。
俺には、2つの任務があった。難民キャンプを出入りする者の監視と医療ボランティアの雑用である。
早朝、気温の下がる夜間に低体温症で死んだ者の死体を集めて回る。死体から衣服を剥ぎ取り、トラックの荷台に無造作に放り込む。死者に対する哀悼の念など、ここへ来て3日と経たずに消えた。
「人間も死ねばゴミになるだけ」
俺の人生訓に書き加えられた1条である。
郊外に掘った穴に死体を捨て、大型のポリ・タンクに赤土で濁った水を汲んでキャンプに戻る。簡単な濾過器を通した濁り水を火にかけた金ダライで沸かす。脱脂粉乳か穀物粉を湯に溶かしたものが配給の食事である。穀物粉というのは、小麦粉、澱粉、ビール滓、大豆滓、挽き割りトウモロコシなど様々であるが、一番分かり易いのが日本からの援助物資である。
「くみあい配合飼料バード・ミール」「~ミート・ポーク」といった家畜の餌である。
日本は当時、まだバブルの余韻に浸っていた頃である。ODAなどの政府の資金援助は、供与された国の政府上層部が着服するものと相場が決まっている。どこに消えたか、何に使われたか不明の義援金や寄付金の残り滓しか、本来必要とされる現場には落ちてこない。
海外からのボランティアや支援団体が扱う難民など、俺がいたキャンプに比べれば天国とまではいかないが、マシな部類である。何しろ、あちらは募金集めの広告塔である。先進国の茶の間のテレビに流せる映像となれば、同情を誘う程度の軽い悲惨でなければならない。
タライに一杯の配給食が出来上がったところで、「メシの時間だぞ!」と、俺は日本語で怒鳴る。言葉は通じなくても、意味は通じる。
腹を空かした者たちが、手に手に器を持って集まってくる。この際、自力で配給食が摂れない衰弱者や病人は、残念だが見捨てる。元々、見捨てられた存在なのだから仕方がない。
難民キャンプが出来てしばらく経つと、キャンプに残っている者は女子供と一握りの年寄りだけになる。働ける男は、鉱山や農場に行くか、兵士として国へ戻る。女は、売春宿か工場か、である。年寄りは、働きに出る女の代わりに育児をするか、餓死するしかない。
親は死んだか、捨てられたガキどもの一団が、俺を取り囲んで粉ミルクのメシを舐める。図々しいヤツだと俺の膝の上に座り込んで、飲ませろと催促しやがる。
ガキどものメシの世話をしながら人数を数える。キャンプには、人身売買のブローカーが出没する。子供が欲しい金持ち相手に、さらってきた子供を売るのだ。子育てが趣味のような物好きもいるが、成長したら捨てる不届き者が多い。子供はペットじゃない。また、ロリコン趣味の異常性愛者の餌食というのもある。
ま、こんな難民キャンプで野垂れ死ぬよりはマシかも知れないが、不幸には違いない。が、何より俺が注意しなきゃならんのは、乳児の誘拐である。こちらは言語道断である。
どこの国だか知れんが、赤ん坊のエキスを若返りの薬と称して売り捌く鬼畜がいる。処女の生き血をすするドラキュラじゃあるまいし、何故そんなオカルトめいた悪行が蔓延るのか?
迷信を信じる未開の人間ならいざ知らず、れっきとした先進国の人間がやる事とは思えない。
昼過ぎ、巡回の医師団がやって来る。やる事といえば、疫病の気配がないか見て回るだけ。残念ながら、抗生物質タップリの家畜の餌を食わしてる限り、病原菌による疫病の心配はない。怪我の功名とはいえ、皮肉なものである。
日が傾き、気温が下がってくる頃、俺は郊外の死体を放り込んだ穴へと向かう。
日中の熱気で程良く干乾びた死体にガソリンをぶっかける。乾いたスポンジが水を吸うように、ガソリンを吸って膨れ上がった死体に火を点ける。オレンジ色の炎と黒煙を上げて、ガソリンがまず燃える。次第に、肉の焼ける香ばしい匂いと脂肪が燃える甘ったるい匂いが漂う。やがて死体の膨れた腹が破裂し、内臓が弾け出る。腸が焼けてくるとアンモニア臭が鼻をつく。大小便が沸騰し、燃える悪臭だ。
こうして死体を焼却するのも日課である。放置すれば病原生物の温床となり、疫病の原因になる。また、餓えた者たちが死肉を漁らないようにする為だ。
炎が衰え、消し炭のようになった物体を棒で突き崩し、再びガソリンを注いで、骨も残さず灰と化すまで焼き尽くす。これが医療ボランティアの雑用仕事である。
水を汲み、キャンプへ戻る。ガキどもに餌のメシを食わせながら、沈む夕日の赤さに目を焦がす・・・
(12)了