白瀬中尉の南極探検でも犬を置いていかざるを得なかった。
明治45年(1912年)1月21日、白瀬中尉率いる日本初の南極探検隊7名が南極に正式上陸し、鯨湾に根拠地の小屋を作りました。白瀬隊長ら5名(白瀬、武田、三井所、花守、山辺)は突進隊を編成し、南極点へ向かいます。残り2名(村松、吉野)は氷提上根拠地観測を行いました。
突進隊は1月28日、南緯80度5分に到達。食糧を考えるとここが限界で引き返すことになります。引き返すのも大変なことです。同じ時期に南極探検にやってきていたイギリスのスコット隊は南極点に到達しながら、帰路で全滅しています。
突進隊の犬ぞりは帰路快調に進み30日に氷堤を発見。鯨湾に近いと判断します。そのうち濃霧が襲ってきてむやみに動けなくなりました。31日、濃霧が晴れ、遂に根拠地の小屋を発見します。
根拠地の天幕にいた村松隊員は人間の足音に気がつき、外を見ると、そこにやってきたのは真っ黒な顔から両岸を光らせ「ホーホー」とアイヌ流の挨拶をして駆けてくる花守隊員でした。そこへ吉野隊員もやってきて3人で抱きあがって喜び、しばらくすると武田部長、白瀬隊長と山辺隊員の犬ぞり、三井所部長の犬ぞりが到着しました。
白瀬中尉「留守を預かり居たる村松書記は、之(これ)を認めて迎えてくれた。吉野隊員も雪下駄を穿きつつあわただしく走り出でて迎えてくれた。ああ、このときの喜び!!生涯忘るるを得ざる喜びであったとは、一同の語るところである」
一方、白瀬隊の別働隊「沿岸隊」は開南丸に乗り、エドワード7世ランドを目指しました。ここはイギリスのスコット隊もシャクルトン隊も上陸を諦めていたところです。開南丸は1月23日、アレキサンドラ山脈を望むビスコー湾に投錨します。そして7名が上陸。西川源蔵と渡辺近三郎は雪崩に遭遇しながらも三つの頂がある山の中腹まで登り、「大日本南極探検隊沿岸隊上陸記念標」と書いた木標を建てました。帰途、西川隊員がクレバスに落ちるというハプニングがありました。幸いクレバスの幅が狭く、背負っていた外套が亀裂の淵にひっかかり、渡辺隊員が救出することができました。開南丸では両名の帰りが遅いので、二度も捜索隊を出していました。もうほとんど諦めていた頃、西川、渡辺両名が開南丸に帰着します。みな「万歳!」を叫び、野村船長は喜びのあまり涙を流したといいます。
開南丸はその後、白瀬中尉らを迎えに鯨湾に向かいます。しかし、鯨湾は以前とは様相を異にしており、白瀬中尉らの上陸地点が判明できなくなっていました。2月3日に短艇で5名が捜索に向かいますが、氷提に乗り移ったとたん氷が砕けて2人が水中に落ち、そのうち吹雪が烈しくなったので、いったん開南丸に引き返しました。
2月4日、天候が回復し、白瀬中尉、武田部長、三井所部長が開南丸に収容されます。しばらくすると天候が悪化し、村松、吉野、山辺、花守と樺太犬6頭が収容されました。流氷が湾内に続々と流れこんできて、所構わず氷が張り始めます。その変化は恐ろしく迅速でした。ここまでが限界で20頭の樺太犬は置き去りにせざるを得ず、陸の氷堤上には残された犬たちが鯨湾から去る開南丸を見ながら、シッポを振りなつかしげになき、また悲しげにうなだれていました。開南丸上では犬係の花守隊員がシクシクと泣き、山辺隊員は毛むくじゃらの手で目を押さえていました。
山辺隊員「その時、岸の上に遺された犬どもが遠吠えに啼(な)いて吾吾(われわれ)を見送っているのを見たときには、なんとも犬どもが可愛想で、心の裏で泣くような思いをした」
山辺安之助と花守信吉の二人のアイヌ人隊員は「探検隊に貢献することでアイヌが見直され、地位の向上につながるのであれば、命など惜しくない」と言い、周囲を説得し、樺太犬を集めて探検に参加した二人でした。二人は郷里の村に戻った後、樺太犬を置き去りにした罪を問われたりしましたが、山辺はその後、金田一京助博士と「あいぬ物語」を発行し、学校を建設したり、農耕を指導したり、樺太アイヌの自立に生涯を捧げました。白瀬中尉は樺太犬を連れて帰れなかったことを悔やみ、朝晩欠かさず仏壇に手を合わせていたといいます。
平成12年(2000年)、「白瀬中尉をよみがえらせる会」によって山辺、花守、樺太犬の慰霊碑が樺太の旧落帆村に建てられました。
参考文献
新潮文庫「極 白瀬中尉南極探検記」綱淵謙錠(著)
成山堂書店「南極観測船と白瀬矗」小島敏男(著)
岩崎書店「まぼろしの南極大陸へ」池田まき子(著)
添付画像
ロス海東岸のハレット岬より望む秋のハーシェル山 AUTH:Andrew Mandemaker
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明治45年(1912年)1月21日、白瀬中尉率いる日本初の南極探検隊7名が南極に正式上陸し、鯨湾に根拠地の小屋を作りました。白瀬隊長ら5名(白瀬、武田、三井所、花守、山辺)は突進隊を編成し、南極点へ向かいます。残り2名(村松、吉野)は氷提上根拠地観測を行いました。
突進隊は1月28日、南緯80度5分に到達。食糧を考えるとここが限界で引き返すことになります。引き返すのも大変なことです。同じ時期に南極探検にやってきていたイギリスのスコット隊は南極点に到達しながら、帰路で全滅しています。
突進隊の犬ぞりは帰路快調に進み30日に氷堤を発見。鯨湾に近いと判断します。そのうち濃霧が襲ってきてむやみに動けなくなりました。31日、濃霧が晴れ、遂に根拠地の小屋を発見します。
根拠地の天幕にいた村松隊員は人間の足音に気がつき、外を見ると、そこにやってきたのは真っ黒な顔から両岸を光らせ「ホーホー」とアイヌ流の挨拶をして駆けてくる花守隊員でした。そこへ吉野隊員もやってきて3人で抱きあがって喜び、しばらくすると武田部長、白瀬隊長と山辺隊員の犬ぞり、三井所部長の犬ぞりが到着しました。
白瀬中尉「留守を預かり居たる村松書記は、之(これ)を認めて迎えてくれた。吉野隊員も雪下駄を穿きつつあわただしく走り出でて迎えてくれた。ああ、このときの喜び!!生涯忘るるを得ざる喜びであったとは、一同の語るところである」
一方、白瀬隊の別働隊「沿岸隊」は開南丸に乗り、エドワード7世ランドを目指しました。ここはイギリスのスコット隊もシャクルトン隊も上陸を諦めていたところです。開南丸は1月23日、アレキサンドラ山脈を望むビスコー湾に投錨します。そして7名が上陸。西川源蔵と渡辺近三郎は雪崩に遭遇しながらも三つの頂がある山の中腹まで登り、「大日本南極探検隊沿岸隊上陸記念標」と書いた木標を建てました。帰途、西川隊員がクレバスに落ちるというハプニングがありました。幸いクレバスの幅が狭く、背負っていた外套が亀裂の淵にひっかかり、渡辺隊員が救出することができました。開南丸では両名の帰りが遅いので、二度も捜索隊を出していました。もうほとんど諦めていた頃、西川、渡辺両名が開南丸に帰着します。みな「万歳!」を叫び、野村船長は喜びのあまり涙を流したといいます。
開南丸はその後、白瀬中尉らを迎えに鯨湾に向かいます。しかし、鯨湾は以前とは様相を異にしており、白瀬中尉らの上陸地点が判明できなくなっていました。2月3日に短艇で5名が捜索に向かいますが、氷提に乗り移ったとたん氷が砕けて2人が水中に落ち、そのうち吹雪が烈しくなったので、いったん開南丸に引き返しました。
2月4日、天候が回復し、白瀬中尉、武田部長、三井所部長が開南丸に収容されます。しばらくすると天候が悪化し、村松、吉野、山辺、花守と樺太犬6頭が収容されました。流氷が湾内に続々と流れこんできて、所構わず氷が張り始めます。その変化は恐ろしく迅速でした。ここまでが限界で20頭の樺太犬は置き去りにせざるを得ず、陸の氷堤上には残された犬たちが鯨湾から去る開南丸を見ながら、シッポを振りなつかしげになき、また悲しげにうなだれていました。開南丸上では犬係の花守隊員がシクシクと泣き、山辺隊員は毛むくじゃらの手で目を押さえていました。
山辺隊員「その時、岸の上に遺された犬どもが遠吠えに啼(な)いて吾吾(われわれ)を見送っているのを見たときには、なんとも犬どもが可愛想で、心の裏で泣くような思いをした」
山辺安之助と花守信吉の二人のアイヌ人隊員は「探検隊に貢献することでアイヌが見直され、地位の向上につながるのであれば、命など惜しくない」と言い、周囲を説得し、樺太犬を集めて探検に参加した二人でした。二人は郷里の村に戻った後、樺太犬を置き去りにした罪を問われたりしましたが、山辺はその後、金田一京助博士と「あいぬ物語」を発行し、学校を建設したり、農耕を指導したり、樺太アイヌの自立に生涯を捧げました。白瀬中尉は樺太犬を連れて帰れなかったことを悔やみ、朝晩欠かさず仏壇に手を合わせていたといいます。
平成12年(2000年)、「白瀬中尉をよみがえらせる会」によって山辺、花守、樺太犬の慰霊碑が樺太の旧落帆村に建てられました。
参考文献
新潮文庫「極 白瀬中尉南極探検記」綱淵謙錠(著)
成山堂書店「南極観測船と白瀬矗」小島敏男(著)
岩崎書店「まぼろしの南極大陸へ」池田まき子(著)
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ロス海東岸のハレット岬より望む秋のハーシェル山 AUTH:Andrew Mandemaker
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