12/18(土) 。
こちらの演技ワークショップが開催となります!!👇
→→募集は終了致しました。ありがとうございました。
前回記事で、12/16に一旦ご応募締切と告知させていただきましたが。
現在、あと1名様のみ枠が空いておりますので、そちらが埋まり次第の終了とさせてくださいませm(_ _)m
(12/16が過ぎましたが、引き続きお申込み受付をさせていただきます!)
ご参加、お待ちしております!!
さてさて。
先日、某声優事務所の養成所に、演技の特別講師として1日だけお邪魔させていただきました。
(外画吹き替えのクラスでした。)
その際、参考までに。
声優の方々から挙がっている、演技に関してのご質問・お悩みを伺ったのですが。
その中で、複数の方が、こんな声を寄せられていました。
「自分の個性や感情を演技に乗せようとすると、元の映像の外国人俳優さんの演技から外れてしまい、うまく声を当てられない。
ところが、元の俳優さんをマネて声を当てようとすると、自分自身の個性や感情が出なくなる。
この二つを両立させるには、どのようにすれば良いでしょうか?」
このご質問に対し、僕はこうお答えしました。
「思いっきり、マネをしちゃってください!!」
この回答。
決して、適当に答えたワケではありません(笑)
実は、このお悩み。
声優さんに限ったことではありません。
僕ら、生身を使った俳優の場合でも、同じ演技である以上、基本的には状況は同じなのです。
考えてみましょう。
生身の演技だからといって、俳優の個性や感情を自由気ままに表現して良いのか??
マネ=カタチの指定という縛りは、ないのか??
もちろん、そんなことはありません。
「ここは、こうやって動いてください」と、演出家から細かな指示が出ることはたくさんあります。
「バミリに立って、身体はこの向きで。」
「このタイミングで、右手をこんな感じで挙げてください。」
「セリフは、もうちょっとこんな風に喋ってください。」
「声は、もっと低い感じでお願いします。」
映像の場合は、カメラアングル等の問題もあるので、そうした指定はさらにシビアです。
▲自由に動いたら、フレームからはみ出ちゃう……
何よりも、セリフ。
俳優自身が感情と個性に任せて勝手気ままに喋るわけにはいきませんよね。
「セリフを一字一句、台本の通りに喋る」という指定・制約が、そもそも常に存在しています。
これ。
セリフ一字一句は当たり前すぎて、むしろ気にしていなかったかもしれませんが。
実は、俳優にとって、とてつもなく大きな「カタチの指定・制約」なんですよね。
「セリフを自由に」なんてこと、できない。
立ち位置を自由に、なんてワケにはいかない。
身体を使った表現であっても。
指定・制約されたカタチの中で演じるというのは、同じことなんです。
……確かに。
声優の場合は「声」だけで表現するものですから、生身よりもはるかに繊細な作業になるかもしれません。
でも。
マネを含めた「カタチの指定・制約」と「俳優自身の個性・感情」ということに関しては、声優も、生身の俳優も、大なり小なり、まったく同じ条件だと言えるんですね。
それならば、まず。
マネや決め事のせいで自分の個性が潰されるという発想自体、いっそのこと、やめてしまいましょう!!
いつまでも、それをトレードオフの関係で抱えていたら、一向に演技はできなくなってしまいますからね。
では、どうすれば良いか?
その2つがどうしてもトレードオフの関係に感じてしまう場合と、両立できている場合の違いは何なのか??
まず、一番重要なことは。
そのセリフを「言わされている」のか、「自分事として感じられている」か。
「とりあえず、台本にこう書いてあったから、喋る。」
この程度の理解度や感じ方で挑むと、俳優の内面的な後ろ盾(つまり、心。セリフが腑に落ちているかどうか)がありません。
そうすると、俳優は、ただただ表面的な言い方だけに頼って表現をしようとします。
しかし、その時点で。
言い方や声色は、こうしなくてはいけないという、相反する指定があったら??
……はい。
俳優の「こんな風にやりたい」というプランと、「こんな風にやってください」という指定が、同じ「言い方」の土俵の上でバッティングしますよね。
トレードオフの関係になってしまうのです。
しかし。
役の状況や感情をきちんと「感覚的に、具体的に」捉えると。
そこから想像が広がり、心がブルブルと震え始めます。
俳優が、役の状況を「信じられている」という状態が起きるのです。
この「信じられている」かどうか、というのが、非常に重要なポイントになります。
つまりこの “内面的な充足” が、「他人事ではなく、自分事として感じる」ということになるのです。
すると。
この時点で、「言い方や声色の指定・制約」という表面部分と、「心」という別の階層に問題が切り分けられたので。
「マネをすること」と、「俳優自身の個性・感情」は、共存できるようになるのです。
……言うなれば。
1階に「ココロくん、コセイさん夫婦」が住んでいて。
2階に「カタチくん、モノマネさん夫婦」が住んでいるお家みたいなものです。
これを、1つの階だけで部屋の取り合いっこをしようとするから、トレードオフの感覚になってしまう。
でも、俳優のパフォーマンスを「内面と表面」という2階建てだと考えれば、共存は可能です。
こうして、2つの階層に問題を分離してあげれば、あとはこっちのもの!!
内面という土台さえしっかりしていれば、その表面は、いっくらでも「マネしちゃってOKです!!」。
ただし、どちらもおろそかにしてはいけません。
片方の夫婦が家の手入れを怠ったら、あっという間に俳優という家はギシギシと傷み始め、やがて崩れてしまいます。
実はもう一つ、「マネ・カタチ」と「俳優自身の個性・感情」が共存するために必要なことがあります。
それが、前回記事でもお伝えした、演技の「インプロビゼーション性(即興性)」です。
……これ。
世に言う「即興劇」とは、ちょっと違います。
あくまでも「即興性」という話です。
指定されたカタチや外国人俳優の演技をマネて演じる時でも。
この「即興性」の感覚、意識状態は、常にキープしていなくてはいけません。
形だけをなぞった「予定調和」の感覚で演じると、途端に、俳優自身の個性や感情が消え失せてしまいます。
舞台の話ですけれど。
僕は『エリザベート』というミュージカルの舞台で、ハンガリー革命家シュテファンという役を、7年間、通算約500ステージ演じました。
これ、かなりの回数です。
それでも、1回たりとも「飽きる」という感覚は味わったことがなく。
同じセリフ、同じ段取りが、毎回、新たな瞬間として感じられていました。
もちろん、アドリブはやりません。
例えば、毎晩同じ演技を繰り返すという、舞台俳優の場合で言えば。
一番重要なことは、
「観客から見たら、毎回同じ演技」
でありながら、俳優自身は
「毎回、新しい瞬間」
に感じられること。
言ってしまえば、今日の演技は、昨日の演技のマネと同じことですよね?
表面的には。
毎回、同じセリフ。
毎回、同じ動作。
ミュージカルだったので、毎回、同じメロディーを歌います。
膨大な音階の一つ一つが、500回の「指定・決め事」だったわけです。
でも、自分自身は一度たりとも「マネ」という意識はありませんでした。
なぜなら。
毎回毎回、同じ場面を。
毎回毎回、新しい瞬間として受け取っていたから。
では、どうして毎回、新しい瞬間として受け取ることができたのか?
マネの演技をしていても、初めての瞬間を生きている感覚になる「インプロビゼーション性」は、どうすれば手に入るのか??
だいぶ長くなりましたので、こちらのお話は、また改めてこのブログでもさせて頂きますが。
すぐに知りたい!!という方のために……
この方法、明日開催される演技ワークショップで、詳しくお伝えする予定でおります!!
タイトルは「エチュード」となっていますが、単に即興劇をやるクラスではありません。
話をどんどん展開させていく、一般に行われているようなエチュードの内容ではなく、あくまでも「演技のインプロビゼーション性を磨く」ことと「状況を自分事として積み上げていく」ためにエチュードを用いるという内容になっています。
残り1名様のみご参加いただけますので、ご興味がある方はぜひともご参加くださいね!!
→→募集は終了致しました。ありがとうございました。
また、2022年1月からの3ヶ月ワークショップでも、この訓練はバッチリ実施します。
こちらもまだご参加いただけますので、ぜひ、学びにいらしてくださいませ!!👇
→→募集は終了致しました。ありがとうございました。
役を「本当に生きる」ために
▼演技講座を配信中【演技向上チャンネル】
▼人気ミュージカル作品を徹底解説【ミュージカル探偵社】