人間の生き方に、「二者択一」はない
(再掲)
仏教界の巨人・暁烏 敏(あけがらす はや)は言う;
「念仏の心は、1つの光を見つけて、それを慕っていく心です。親鸞聖人は法然上人に逢われたときに、ぱっと、法然上人の上に光を見出され、『無量寿経(むりょうじゅきょう)』に記してある阿弥陀如来(あみだにょらい)を法然上人のお姿の上に拝まれたのである。そして一生、法然上人の光を見つめてお暮らしになったのである。それが念仏の生活です。」
(暁烏 敏『わが歎異鈔(上)』p.254 潮文社)
jizodou:
これは、「生の真理探求」の真髄である。人は、このようにして真理と出会い、このようにして真理と結合する。そして、人生が一変していくのである。ここには、人生の二者択一も三者択一もない。迷うことのない光が輝いている。
引き続き、敏は次のように述べる;
「自分が明るくなるということは、自分が光となることではないが、阿弥陀仏の光に逢って明るくなるのである。」
「仏の光をじっと見つめるものは、見つめた光に照らされて明るい世界に住む。どんな所にでも仏は光を常に照らしていらっしゃるのである。目を開けてみれば光が見える。ひょっと見れば見えるのである。」
「一度仏の光を仰いだ者には、おうおうにして何かの機会にその光を見失うことがあっても、ひょっと見るとまた光が見えるのである。そこで一度光を見つけた者は、いつも光から照らされておるのである。」
「それをじっと見つめて行くと失望した世界が明るい世界になって来る。
一変するんです! 明るい光が1つ見つかったばかりで世界が一変するんです! 元の通りの人であり、元の通りの社会であるが、仏の光を仰いだ信心の人の目には一転して来るんです。」
jizodou:
*この道、この世界には、二者択一や三者択一はない。この「仏」が、「キリスト・イエス」に変わろうと「タロットの霊」に変わろうと、何も異なるものではないとわたしは考える。
それでは、仏教でもキリスト教でも、タロットの求道でも同じじゃないか、と人は言うかもしれない。あるいはそうかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。いずれにしても「二者択一」「三者択一」は無い。そういうものではない。また、「あれも・これも」でもない。
あるいは、そのどれでもないかもしれない。
いずれにしても重要なことは、そのどれかをやったか、そのどれをもやらないかではなく、
「1つの光を見つけて、それを慕っていく心」である。そして一生、その光を見つめて暮らして行く。
そして、その光の生命の深まりの中で、わたしには仏とキリストとタロットの霊とが縦列に結びついていくのであり、それらを並列に並べる「二択」でも「三択」でも、あるいは「あれも・これも」でもないわけなのです。