自己の変容(再掲) | 太陽の船に乗る

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ディオニュソスの白夜をゆく

 

「自己」と名づけるものの変容

 

(*再掲です。K とはクリシュナムルティです。)

 

K は言う:

 「自己というとき、私は観念、記憶、結論、経験、

 いろいろな形の名づけられる意図や名づけられない意図、

 

 何かであろうとしたり、あるいは何かであるまいとする

 意識的な努力、

 

 無意識、民族、個人、一族のものの蓄積された記憶、

 

 それが行為として外部に投影されたものか、

 徳として精神的に投影されたものかを問わず、

 その全体すべてのことを意味しています。

 

 

 このすべてを求める努力が「自己」なのです。

 

 その中には、競争や何かでありたい欲望が含まれています。

 

 

 この全体の過程が「自己」なのです。」

 

 

 

 K の言うことは大変重要だとわたしは思います。

 

 K 以前に、「自己」をこのように捉えたり、

 このようにアプローチした人は、

 わたしの知る限りは、仏教徒の暁烏 敏(あけがらす はや)だけです。

 

 

 彼ら以外の人たちは、

 「自己とはこのようなものである」とか、

 「自己をこのように定義する」、

 と言うような人たちばかりでした。

 

 

 例えば「自己は自我への執着である」とか、

 「自己の本質は

 自分の中に都合の良いものを独占しようとする欲望である」

 とか言うものです。

 

 

 それらはどれも間違っているわけではありませんが、

 単なる定義、単なる説明です。

 

 K はそれらとは全く別に、「自己」を限定もせず、

 観念化もせず、

 ただただ総体的に捉えよう、

 あるがままに深く観察して、

 その動きのすべてについて行こうとしました。

 

 その時、確かに「自己」が見えてくるのです。

 

 

 見ているわたしの考えでも、

 良し悪しのわたしの判断でもなく、

 「自己の働き」のすべてが見えてくるわけです。

 

 

 K は、自分の中で現在進行形のことばかりを、

 何の観念化もせずに、深く深く観察して述べています。

 

 これは画期的な現象です。

 

 

 自己(エゴ)と分離せずに、一緒に動く様が見えてきます。

 

 この時、人の世界は変わります。

 

 

 人は今まで見えてはいなかったものが、はっきりと見える時、

 俄然変わってしまうのです。

 

 

 そして、彼がそれにすべてを委ねているほどに真剣なら、

 もう前に戻ることは決してないほどに変わります。