KOKOROアカデミー「こんなにも落語が仏教的なわけがない!?」に行きました | 寺社イベント研究家・福田祥子

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寺社で行われるイベントを取材・記事を執筆するかたわら、マンダラエンディングノートのファシリテーター、終活カウンセラー初級としても活動しております。

 

先日、築地本願寺のKOKOROアカデミー「こんなにも落語が仏教的なわけがない!?」に行ってきました。

 

内容は二部構成で、前半は三遊亭春馬師匠による落語「松山鏡」、後半はお坊さんの多田修さんによるレクチャーでした。

 

落語「松山鏡」のもとになったお話は、中国に伝わる、古代インドの寓話を集めた仏典「百喩経(ひゃくゆきょう)」に載っている、「宝篋(ほうきょう)の鏡の喩(たと)え」とのこと。「宝篋の鏡の喩え」について簡単に調べてみましたが、このお話自体についてはあまり詳しいことはわからなかったので、後日、図書館にでも行って調べてみようと思います。

 

「松山鏡」のストーリーは、次のようなものです。

主人公の正助は、親孝行だということで領主から褒美をもらうことになり、何が欲しいかと問われ、「亡くなった父親に一目会いたい」と答えました。死んでしまっている父親とどうやって会わせるか…。聞けば正助は、ちょうど父親が死んだのと同じぐらいの年齢だといいます。悩んだ領主にひらめいたのが、鏡を与えることでした。「決してほかの者には見せるな」と言い添えて。正助は鏡を見たことがなかったので、鏡に写った自分の顔を見て、父親が会いに来てくれたと思い、日夜、鏡にうつった父親に話しかけていました。

ところが、女房が夫・正助の様子のかわりように不信感を持ち、正助の留守中に鏡を見つけてしまいます。鏡には見知らぬ女の顔(=女房の顔)がうつったため、夫が浮気相手を家に連れ込んだとけんかになりました。そこに通りかかった尼僧が仲裁に入り…、というストーリーです。

 

ひととおり落語を聞いて笑った後で、それが仏教という話とどう関係するのかな?と興味津々。お坊さんのお話では、現実にないこと(=正助の浮気)を想像して振り回される女房の姿に、学ぶべきことがあるということでした。確かに、「こうなったらどうしよう」「ああなったらどうしよう」と先々を思い悩むことによって、大切な「今」が損なわれてしまうことってあるなと思いました。実体のない、まだ実現してもいない未来に振り回されて、心がかき乱されるという経験、私もあるなぁ…。最近は、「今に集中、今に集中」と繰り返し思うことで、悩みのループにはまることはあまり無くなりましたが。「今に集中」っていうのは、お坊さんたちの取材をしていく中で学んだいちばん大切なことかも知れません。

 

そのほか、「お坊さんはなぜ髪を剃るのか?」「頭髪の長さについて、戒律の規定」など、お坊さんの髪の毛に関するレクチャーがあり、儒教とのかかわりあいも聞けて、勉強になりました。