5月28日に開催された、「茶坊えにし~ブラえにし@吉原~」に参加してきました。茶坊えにしは、浅草周辺の浄土宗のお坊さんが集まって、一般の人向けにワークショップをしているグループです。私は、興味がひかれるテーマのワークショップがあると、ちょこちょこ顔を出してしています。
今回のテーマは、吉原! 昔は遊郭、今は風俗街。決して、女性1人で取材に行ける場所ではありません。「赤信号、皆で歩けば怖くない」じゃないですが、お坊さんに引率されて集団で行くなら安心かも! 好奇心が先に立って、「いいいいい…、行ってみたい!」と思い、Facebookの参加ボタンをポッチリしました。
歴史上、二つの吉原があることは、あまり知られていないかも知れません。一つ目は、1617年にできた吉原(現在の中央区日本橋掘留1丁目付近)で、1657年の明暦の大火によって全焼して浅草観音の裏手に移転。それが浅草新吉原で、今回はその地域を歩きました。
当日は、かっぱ橋にある正定寺さんから出発。弁天池、吉原神社を経て、遊郭のあった地域へ潜入!というコースです。
遊郭のあった地域は、盛り土をして周辺よりかなり高くなっており、お歯ぐろ溝(どぶ)と言われる幅約9メートルの堀に囲まれていました。その名残は、遊郭のあった地域にできた吉原公園が、幅の広い道路(お歯ぐろ溝)を隔てて、周辺の地域より一段と高くなっていることからもわかります。浅草新吉原だった地域を貫く仲ノ町通りを歩くと、両側は風俗街! 怖そうなお兄さん達が、それぞれのお店の前に立っています。一眼レフで無遠慮に写真を撮ったら、きっと叱られるだろうなと想像して、取材魂を封印。一枚も撮りませんでした。
仲ノ町通りが終わるあたりが、吉原大門跡。江戸時代、庶民の住む地域から悪所である遊郭が見えないように、あえて吉原大門へとつながる道を蛇行させていたそうで、現在もそのままの形で道が残っています。見返り柳は、ちょうどそのあたりで客が後ろ髪を引かれる思いで吉原大門の方を振り返ることから、その名がついたそうです。
このあとは、土手通りをひたすら歩いて浄閑寺へ。このお寺は、別名「投込寺」と言われ、その名の由来は、安政2年の大地震の時に亡くなった遊女500名ほどがお寺の門前に投げ込まれたことからついたそうです。その後、浅草新吉原が昭和33年に廃止されるまでの380年あまりの間に、遊女、遊女の子、遣手婆など遊郭関係者のほか、大地震で亡くなった周辺地域の人々を含めて約25000人がこのお寺に葬られたと言われています。
浄閑寺の墓場に行くと、新吉原総霊塔というものがあり、こちらのお寺に投げ込まれた人々を弔っているそうです。真新しい櫛や髪飾りも供えられていて、お坊さんが言うには、現代の風俗街で働く女性たちが、「守ってください」と手を合わせ、供えていくこともあるそうです。浄閑寺に行くまでは、吉原って時代劇で老舗の若旦那が長逗留して親から勘当されちゃったりするところでしょ~?というややミーハーな気持ちもありましたが、なんだか苦界に身を沈めた女性達の悲しみがひしひしと伝わってくるような気がして、写真を撮る気になれませんでしたよ。。新吉原総霊塔を見学した後は、本堂でお坊さん5~6人による読経があり、参加者全員が手を合わせました。
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