「死に往く者への作法~医療の現場で期待される僧侶の力~」について | 寺社イベント研究家・福田祥子

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寺社で行われるイベントを取材・記事を執筆するかたわら、マンダラエンディングノートのファシリテーター、終活カウンセラー初級としても活動しております。

去る6月9日、護国寺で開催された法話研鑽会の「死に往く者への作法~医療の現場で期待される僧侶の力~」というワークショップに参加してきました。講師は、看護師の経験もある尼僧の玉置妙憂さん。

 

 

玉置さんは、現代医学の根幹をなす西洋医学は、延命至上主義で、体の一部しか診ないことが問題点だと言っていました。これは私自身、体調を壊していた時期に痛感していたことで、大いに同意しました。私も科とつく診療科はほとんど回ったのに原因がわからず、その場その場で適当な薬を処方され、最終的に頼ったのは、体全体を診る東洋医学、具体的に言えば漢方治療と鍼治療でした。

 

 

結局、東洋医学にいくらお金をつぎ込んでも大して元気にならない日々を4年ほど送ったあと、ひょんなことからある医師に体調不良の原因を見つけてもらって人生が変わりました。原因は、てっきり内臓が問題だとばかり思っていたけど、まさか考えもしなかった骨…。その医師は、こう言いました。「あなたの辛さを分かってくれる医師は、これまで一人もいなかったと思います。大変でしたね」と。私はその時、もし、病院が体の部位別に診療するのではなく、体の各パーツが互いに関係する一体のものとして診てくれるものであったなら、こんなに色んな病院をジプシーしなくて良かったのになぁと思ったものです。ま、治ったから儲けものですけど(^o^)

 

 

また、玉置さんが挙げていた、「『看取り』の時期に発生する問題」のうち、非常に共感できたのが、「親族間の感情のずれ」という項目でした。この「ずれ」というのは、どれだけ患者のお世話をしたかで生まれてくるといいます。たとえば、十分お世話をした家族は、患者の状態も分かっているし、お世話をやりきった感があるから、やがて訪れる「死」というものを心静かに受け入れられます。でも、患者との接触が少なかった人は、心の準備ができていないゆえに取り乱し、患者が死ぬ前も後も、いつまでも「死」を受け入れることができないとのこと。確かにそうかも知れないな…、と思います。介護する人・される人の大変さを分かっていない人に限って、感情論に走りがちだったりして。

 

 

あとは、「スピリチュアルペイン」という言葉も印象に残りました。死を前にした人が口にする、「私の人生は何だったのでしょうか」「死んだらどうなるのですか」といった問いのもととなる、心の痛みを指すそうです。この痛みに対応できるのが、仏教であり、僧侶であるのでは?というお話もありました。なるほどそうだねと思うのと同時に、答えのない問いにお坊さんたちはどう答えるのだろう…という疑問も持ちました。 「私の人生は何だったのでしょうか」と口にするってことは、その人が人生を生ききっていなくて心残りがあるってことで、それはその人自身が解決すべき問題だろうし。「死んだらどうなるのですか」って質問には、「わかりません」と答えるしかないのではと思います。だって、生きている人は、誰も極楽浄土を見た人はいないですしね。「わかりませんけど、私は、極楽浄土に行くのだと思います」なんて答えるのかな…。いずれにしても、お坊さんにとっては非常に厳しい局面ですね。だからこそ、あえて終末期医療に関わろうとするお坊さんの思いは、尊いのだろうと思います。

 

 

玉置さんのお話を伺っていて一つだけ気になったこと。それは、国や社会に在宅介護を後押しする動きがあることです。介護保険の仕組みも、在宅を猛プッシュですしね。でもこれって、介護される人が単なる病気なのか認知症入っているのかで、介護する人の負担はだいぶ違ってくると思います。そこを踏まえて在宅介護について議論しないと、在宅介護がマストという社会的圧力が、お世話する人に重くのしかかってくるのではと懸念しました。

 

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