子供が生まれる時、その子は生そのものだ。生命が脈動している

何のとどこおりもなく自由に動くエネルギー

子供というのはエネルギーだ
エネルギーの中の歓喜ーーー

何の訳もなくただ跳びはねている
そして、実に幸せだ
それに比べたら
極楽に行ってもあんなに跳びはねはすまい。

それを、子供は何でもないのに跳びはねているのだ。
あるいは、いくつかの小石を集めては
もう歓喜に狂っている

小さな子供達がただ座っているのを見守ってごらん

何もしているわけじゃない
なのに、彼らは実に幸せそうにみえる

全然何の理由もなしに!

自分自身を分析すれば、
もし深く見通したならば

自分が、何ひとつ知らないという事を理解するにいたるだろう

情報なら沢山持っているかもしれない
しかし、それは「知」じゃない

いかに人格というジャングルの中に失われてしまっているかーーー
幾重もの人格
仮面、装いの中に
それは失われてしまっている。





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生と同化する人々は、とてもオーガズミックな生を送り続ける。
全身が途方もなく優雅に機能する。

彼は小さなものごとを楽しむ
食べること
そよ風のなかの散歩
日向ぼっこーー
人生の小さなものごとが
途方もない楽しみを与えてくれる

こういう人間には、喜びという言葉が
ふさわしい。
あるいはそれを歓喜と呼んでもいいが、至福ではない。
彼には至福は得られない
彼は楽しむ
が、至福にみちてはいないのだ

よろこびと至福の違いは何だろうか?
何かを楽しむとき、喜びはそのものに依存している。
それは対象を持っている
愛すべき美しい女性がいると
喜びを感ずる。しかし、その美女がいなくなってしまうと、悲しみが降りてくる。
天気が良く脈動し、生き生きとしていれば、足どりは踊っている
ところが、天気がどんよりと曇っていると、喜びもすべて消し飛んでしまう

喜びの人は、悲しみも感ずる
そこには浮き沈みがある
絶頂に登りつめては谷底へ帰って来る
そこには夜と昼がある
二元対立が残る

もし、生の起こる瞬間に目を見張り続けていられたならば、
覚めて、気を配り、意識的で居られたならば、
人は生をも超越する。
そうしたところに至福があるのだ
至福とはなんら目に見える原因の無い
目に見えない原因も無い喜びを言う
至福とは言われの無い喜びなのだ





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まず第一に、愛は愛する者をたすけ

第二に愛される者を助ける

ところが見ていると、人々はこうこぼす
「 相手が私のことを愛してくれません」ーーー

「私は相手のことを愛していません」
と言いに来る人は一人もいない。
愛が一つの要求になっている

相手が自分を愛してくれません!ー
相手のことなど忘れるがいい!

愛というのは実に美しい現象だ
もし愛すれば、それを楽しむのはあなたなのだ。

そして、愛すれば愛するほど
それだけあなたは愛されるようになる

自分では愛さずに
人から愛してもらうことを要求すればするほど、

あなたはだんだん愛されない人間になってゆく。
なおさら閉じて
自我に閉じこもった人間になってゆく

しかも、あなたは過敏になる
たとえ誰かがあなたを愛そうとして接近して来ても、あなたは怖くなっているのだ

というのは、どの愛の中にも
必ず拒絶、撤回の可能性があるからだ

誰も自分のことを愛してくれないーー
この考えがあなたの頭に刻み込まれている。

「この人はどうやって私の心を変えようというのかしら? 自分のことを愛そうなんて何か嘘っぱちにきまっている、私のことを騙そうとしているんじゃないかしら? きっとずる賢い人に違いない」ーーー

あなたは自分を守る
誰にも自分を愛する事をゆるさず
自分も他人を愛さない。

そうすると、恐怖が出てくる
そうなったら、あなたは
世界の中で一人ぼっちだ
本当に一人っきり
本当に孤独だ
つながりがない
なんの接触もなく
誰一人守ってくれる人がいない
誰一人慰めてくれる人がいない
誰一人愛してもくれない
孤独
あたり一面広大な孤独ーー
これが恐怖の状態だ

こんなことになるのは
あなたが、愛が起こるのを許さないような育てられ方をしたからだ

人類全体、ほかの訓練はできても

愛の訓練ができていない
計算の訓練は受けて来た
何年も何年もひたすら計算する練習をして
誰も自分を騙せず、自分が人をだませるようになる

しかし、どこにも
愛する事を許される機会
しかも、自由に愛する事を許される機会は用意されていない

実際のところ、そればかりじゃない
社会は愛そうという努力をことごとく阻む
社会は愛を許さない
なぜならば、もし一人の人間が本当に深く恋をしていれば、

彼を操作することはできないからだ

彼を戦争に駆り立てる事などできるものじゃない
彼は言うだろう
「僕はこんなに幸せなのに!
どこへやろうっていうんだ?
それに、なんで家庭で幸せにしているかもしれない見知らぬ人達を殺しにいかなくちゃいけないんだ
僕らは別にいさかいもないし、
利害の衝突が在るわけでもないじゃないか、、」

もし若い世代がもっともっと愛への中へと深入りしてゆけば
戦争は消え失せるだろう
戦争に行くような狂人の頭数をそろえることができないからだ。

もし愛したら
あなたは生の何かを味わっている
死や人殺しなど好まない

愛を知らないと
あなたは生の味もわからず
死を愛するようになる

恐怖は人を殺す
殺したがる
恐怖は破壊的だ

愛は創造的なエネルギーだ
愛している時には
あなたは何かを創造したい
歌を歌いたくなるかもしれないし
絵を描くか、詩を作りたくなるかもしれない
が、銃剣や原子爆弾を手に取ろうとは思わない

何一つしていない、まったくの未知の人々、その人達があなたのことを知らないのと同様、あなたもその人達を知らない未知の人々を殺しに、がむしゃらに飛びたして行こうとは思わない

世界に再び愛が巡ってはじめて
世界は戦争を放棄するだろう

あらゆる恐怖を捨てて
もっと愛しなさい
それも、無条件に愛しなさい
待たないこと
他人が愛してくれたら自分も愛する
などと言わないこと
愛こそ唯一のエネルギーだから




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大地との調和と生命への祝福

1.箱船に乗ったら、創造主とマサウウに、あなた自身の誓約を立てなさい。

 それはあなたの宗教を変えることではない。
 箱船が創造主とのつながりを持つための働きをするからといって、特定の宗教の場ではないし、また他の宗教に優る宗教だと見なされることもない。
 あなたは特定の宗教に加わる必要さえない。
 神聖なる創造主を信じるだけで充分。

 このメッセージは、永遠がどうこうとか、来世はどうとかいう類のものではない。
 ただひとつ「生き残り」のためのものなのだ。

2.質素に生きよ。マサウウがそうするように。物質文明に溺れてしまってはならない。

3.自制しなさい。

4.自給自足しなさい。

 ひとりひとりが、来るべき山を越えるための準備をせよ。
 準備してしすぎることはない。
 それが長きにわたるかも知れないからだ。
 都会に住んでいる者は、もし明日、全ての食料供給が絶たれたらどうするのか、考えておかねばならない。

 これはホピが生活の中で自然に考えてきたことで、数千年にもわたって生き延びることを可能にした戦術のひとつでもあるのだ。
 ホピは長い経験から、環境というものは1年1年大きく変わりうることを知っており、毎年秋には翌年1年間充分に食べてゆけるだけの食料を備蓄する。
 だからもし何か悪いことが起きても、大丈夫なのだ。

 我々も予言にあるような災害に襲われた時に備え、家族が生き延るために充分の腐らない食物を備蓄しておかねばならない。

5.優先すべきものを、見直せ。注意深く選ぶのだ。

6.創造主の願いは、我々を救うことにある。ホピと共に世界を救おう。

7.心で思うことは、それを実行することと同じだと思え。

 何かすることを頭に思い浮かべるのは、それを実際に行動におこすより重要な意味を持つこともあるのだ。

8.命を尊重し、環境を神聖なものと考えよ。

9.一連の儀式を通じて、箱船でダンスをすることがある。

 我々がしようとしていることは真剣そのものだが、うまくいくはずだ。
 それを知っていれば、我々は歓びと充実感に浸ることができる。

 だから、ソヤル(翌年の準備をするための儀式)を行っている16日間以外は、いつでも好きな時に音楽を聴き、また踊ればいいのだ。
 カチナ(霊人の踊り)や仮面なしの踊りも、元は創造主が造ったものだから。
 ホピはほとんど一年中社交のためのダンスを行っている。

 創造主は、セックスを楽しむことも許している。
 それが健康的で、責任感のあるものならば。

10.12月の初めには、全世界のために祈りをささげよ。

 この季節に行われるのは、翌年を迎えるために、気持ち、心の準備をすることなのだ。
 この期間、あなたは世界と調和することになり、この時の意識があなたを包み込み、翌年のあなたの行動に影響を与えるのだ。

 もし世界中の人々がこれを行えば、どれほど素晴らしいことになるか。

11.12月21日、他の人たちを「ホピの魂の箱船」に案内しなさい。


12月21日みなさん後存知のマヤ暦終わりのときです。何も起こらなかったと思われる方は
多かったと思いますが、確実に起こっています。3月に続き4月もオーロラの爆発が起こり、これは、太陽活動が大きく関係しています。テレビ、新聞ではなく興味がある方はご自分で調べられることをお勧めします。
恋に落ちた時には、何もかも素敵に見える
それは、そうした瞬間には

あなたが条件を設けないからだ

二人の人間が、無条件でお互いに近づく
   ところが、一度落ち着いてしまうと

一度お互いを当然のようにみなしはじめるといろいろな条件がおしつけられる。あなたはこうでなくちゃいけない
君はこう振舞わなくちゃいけない

そうしたら愛してあげるーーー

まるで愛が取引のようだ

あなたは自分のハートから愛しているのじゃない

取り引きしているのだ
あなたは相手の人に自分のために
無理やり何かさせたがる
そうしてはじめて愛するのだ
さもないと、あなたは自分の愛を
裏切ったりする

これでは、愛をひとつの懲罰として
あるいはひとつの強迫としてつかっているに等しい

愛を差し控えようとするか

愛を与えるか

とにかく、どちらの場合でも
愛そのものは目的ではない

目的は何かほかのものだ、、

この続きは又、、

あいがとう



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