海辺の道を散歩した。
厳密には運河沿いの道かもしれない。
少し前にみつけた。
人事の中にいることが多くなると、潮風にあたりたくなる。
人気のないところで自然に触れたくなる。
山でもよいのだが、気軽に行かれる距離にはない。
遊歩道は木々がおおいかぶさるように茂っている。
ただし、眺めは良好である。
運河の向こうにはモノレールが走っている。
さらにずっと遠くには富士山がみえる。
足もとにはカタバミの黄色い花が綺麗に咲いている。
水路の中央には鳥が群れていた。
近くに浄水場がある。
その還水口付近には小魚が集まりやすい。
これをおめあてに鳥があつまる。
ブラブラと1km程進むと開けた公園になる。
公園の対岸は羽田空港である。
大きな写真機を構えている人がちらほらといる。
航空機を写すのであろう。
(なにかいるかな?)
時折足をとめる。
公園の岸から海中をのぞきこむ。
(ずいぶんと潮が引いているな)
その日は、法面に近い海底部分は露出していた。
ゴツゴツとした岩肌がみえた。
(きれいだな)
潮の流れが影響しているのだろうか。
海水はいつになく透き通っていた。
(いっぱいいるな)
黒い魚影がちらほらとみえる。
模様から推測するに黒鯛だと思われる。
(こんなにいるのに……)
釣りをするときには別の公園に行く。
しかし、この公園から、さほど離れてはいない。
釣りの公園にだって魚は沢山いるはずだ。
それなのに、未だ釣れた例しがない。
余程センスがないのであろう。
昼間なので月はない。
しかし、花鳥風は楽しめた。
世間さまに入っていくと色々なことがある。
人事の世界での考え方や、ものの見方があるようだ。
一掃除、二勤行の寺勤めの身である。
それでも世間からの影響は多くある。
人事から離れた感性を養いたい。
そう思えば、物理的に距離をおくことは有効なのではなかろうか。
私のようなものでは頭で考えてみてもわからない。
もちろん、花鳥風月も過ぎては事を失するに違いない。
お釈迦さまのお言葉です。
『賢者は、両極端に対する欲望を制し、感官と対象との接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない』
【岩波文庫 ブッダのことば 中村元先生訳P176】
ありがとうございました。