仕事は坊さんである。
20年程続けている。
仕事内容は昔から決まっている。
一掃除、二勤行である。
勤行の中には年回法要や葬儀式も含まれる。
どんな仕事でもプレッシャーはあるはずだ。
亡くなられた方々を供養する仕事も、かなり緊張する。
私の場合、桂馬の高上がり状態だ。
つい先日のことである。
90才になるご婦人の葬儀式の読経を勤めることとなった。
生前はお参りの際、よくお話をした。
ご婦人は長年、看護師をなさっていた。
お産に立ち会っていた。
重い病の方に寄り添っていた。
不治の病と戦っていた方を励ましていた。
(僕なんかが……)
おこがましくて恐縮してしまう。
「人の世は定めなきこと、まぼろしのごとし」
それでも引導の文を読まなければならない。
時間にして、こちらの二倍だ。
しかも濃い人生に違いない。
(あんたに言われなくてもわかっているよ)
ご婦人からそう指摘されてしまいそうである。
声が震えてしまう。
仕事を初めて間もない頃の出来事も記憶に強く残っている。
「通夜と葬儀を手伝ってくれないかな」
先輩のお坊さんからの依頼だった。
当日、先輩とともに斎場に向かう。
「もしかして」
待合室でお茶をいただいていると、声をかけられた。
小学校の同級生だった。
しかも女の子である。
祖母君の葬儀式だった。
「20年ぶりくらいだね」
悲しみの席とはいえ、つかの間、昔をおもいだす。
(恥ずかしい)
同時に、自分の馬鹿さ加減がよみがえってくる。
(あんな子にお経を読んでもらうのか~)
彼女は優等生だった。
そんなふうに思われてやしないかと心配になった。
今思い返しても冷や汗が出てくる。
お子さんや若い方への御供養などは一層身が引き締まる。
これ以上つらいことがこの世の中にあるだろうか。
ご家族のことを思うと……。
(力不足などとは言っていられない)
とにかく全力でお経をお唱えすることしかできない。
僧侶の仕事が自分の器ではないことはわかっている。
もとより、良いことが行えるとは思えない。
だが、せめてマイナスにはならないようにしたい。
害にならないお勤めだけは出来るようにしたい。
それが精一杯のところである。
昔の法師の言葉です。
『世のためになるというわけで、ことごとく何かをしなくても、ほんとうに生死対立の世界を離れようとさえ心を決めておれば、その人その人の器量に応じて、かならず世のためになっているものだ』
【ちくま学芸文庫 一言放談 小西甚一先生校注P34】
ありがとうございました。