家のようなお墓 | 「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

「念死念仏 常途用心」
仏さまの御教えを、拙僧のエッセイとともに紹介しています。
ほとんど与太話(^_^;)ですが、法話らしきものも書いています。
つたない文章ですが、笑ってもらえたり、うなずいてもらえたりしたら嬉しいです。
毎週水曜日に更新しています。

北関東のお寺さんへお手伝いに行った。

 

終日、御祈願法要をお勤めするためだ。

 

それでも、昼食後は空き時間があった。

 

周りを散策してみることにした。

 

(ここちいいな)

 

空気が澄んでいる。

 

辺りは静かである。

 

しばらく歩いていると別のお寺さんがあった。

 

墓所も併設されていた。

 

昔の墓石が多くならんでいる。

 

(見学させていただこう)

 

おそるおそるみてまわる。

 

坊さんをしていても他のお寺さんへ伺うと緊張する。

 

(あれっ?)

 

見たことのない石造物が設えられていた。

 

一族の墓石が建並んでいる。

 

その一画に祀られていた。

 

縦横30センチくらいである。

 

高さは60センチほどであろう。

 

形状は家型だ。

 

お社(やしろ)のようにもみえる。

 

(だめだ)

 

しばらく眺めたが、知識不足でなにもわからない。

 

夕方、お手伝いが終わり、勤めている寺に戻る。

 

家型の石造物が気にかかる。

 

(しらべてみよう)

 

早速、寺にある本をいくつか引っ張りだしてきた。

 

(これだ!)

 

似た形をみつけた。

 

「廟墓ラントウ」と書かれていた。

 

廟墓ラントウには、石像や五輪塔が納められているらしい。

 

豊臣秀吉は豊国廟に祀られている。

 

徳川家康は日光東照宮に祀られている。

 

いずれも美しい霊廟にてお祀りされている。

 

このような祭祀方法が大名や武士、やがて庶民にも影響を及ぼす。

 

しかし、庶民が霊廟を建てるのは難しい。

 

そこで、それを模した石造物を建てて先祖の霊を祀る。

 

江戸時代初期のことである。

 

かつては村社会だった。

 

それを支えたのは家々である。

 

家が継続していくことは重要だった。

 

つないできて下さったのはご先祖さまである。

 

ならば、ご先祖さまを大切にしなければならない。

 

こうした思いが「廟墓ラントウ」にも現われているように感じる。

 

現代は個人を前面にだす風潮となった。

 

家の継続に対しての考え方も変ってきた。

 

お墓に対してのとらえ方も以前とはことなってきている。

 

時はことなれども、同じ「人」の行いである。

 

それなのにどうして、こんなにちがうのか。

 

興味深いことである。

 

 

法然上人と甘糟太郎忠綱さまとについて、以下の御記がございます。

 

『「この忠綱は、武士の家に生まれ、戦の道にたずさわってまいりました。従って、第一義には、先祖の残した名誉をつぶすことなく、第二義には、子孫の栄えを後に伝えるために敵を防ぎ、捨て身にならなければなどと悪心が盛んに起こって、往生したいと願う心が起きてこないのです。もし、この世ははかないものだというわけを思い、極楽往生の勤めに精を出さねばならないという道理を忘れないとしたならば、かえって敵に生け捕りにされてしまうでしょう。いつまでも卑怯者だったという汚名を残して、たちまちのうちに先祖代々伝わってきた家柄をつぶしてしまうことになります。どちらを捨て、どちらを取るべきか、私の心では判断しかねます。武士の家柄を捨てることなく、往生したいという平素の願いをつらぬき通す方法がございましたら、どうぞ一言、お教え願います」と申した。そこで上人は、「阿弥陀仏の本願は、素質がよかろうが悪かろうが、称える念仏の数が多くても少なくても、またその身が浄らかであってもなくても関係なく、いつどこでも、どのような場合であろうと、念仏を称えさえすれば往生できるのですから、どのような理由によって死ぬかということには関係がないのです。罪びとは罪びとのままで、念仏を称えて往生します。これが阿弥陀仏の本願の不思議というものです。武士の家に生まれた人が、たとえ戦場に出て戦い、討ち死にするとしても、念仏を称えたならば、仏の本願に乗って、お迎えいただくことを決して疑ってはなりません」と、懇切丁寧にお教えになったので、忠綱は疑いの心が晴れ、「これでわたくし忠綱の往生は、今日をもって間違いないとわかりました」と喜び申し上げた。』

 

【現代語訳 法然上人行状絵図 浄土宗総合研究所編p278】

 

ありがとうございました。