大井町へ用達に行った。
勤めている寺からは6キロくらいの距離である。
車で行けばすぐである。
ただ、都内では出先での駐車に難儀する。
かといって電車を使うのははばかられる。
大井町までは、存外、乗り換えが多い。
そこで自転車で向かう。
用事を済ませた後、お得意の寄り道をする。
大井町駅から第一京浜道路へ向かう途中、適当なところで右折した。
第一京浜道路へ出る手前で小道に入ったのだ。
品川方面へ向かう。
まもなく、進行方向右手に石仏像がみえた。
(伺ってみよう)
道なりに進むと右手に寺標が建っていた。
「時宗・海蔵寺」と石柱に刻まれていた。
参道の先には説明文があった。
「本寺は江戸時代以来、身寄りのない死者や不慮の死をとげた者を供養しており、往時から「品川の投げ込み寺」といわれてきた。云々」
海蔵寺さまから第一京浜道路を3キロ程くだると、鈴ヶ森刑場跡がある。
説明によると刑場で処刑された人の遺骨が境内の供養塔に葬られているらしい。
道から伺えた石仏は阿弥陀さまだった。
こちらは関東大震災にて亡くなられた方への供養としてお祀りされていた。
寺に戻り調べてみると「新編武蔵風土記写本」にも記載があった。
「頭痛塚 墓所にあり。非人頭松右衛門願によりて元禄年中より刑人の首を爰に理む。郷人頭痛を患る時此塚に祈れば験あり。よって塚の名となれり」
(なるほど)
私は低気圧が近づくと頭が痛くなる。
手を合わせてきたので、御利益を……。
「通俗荏原風土記稿」にも目を通してみた。
すると「品川貸座敷」の項目があった。
遊郭である。
(もしかすると海蔵寺さまにも)
吉原の浄土宗・浄閑寺さま、新宿の浄土宗・成覚寺さまも「投げ込み寺」として知られている。
遊女の供養をなさっているのである。
日々、生活はどのようになるかわからない。
好んで遊女になった方は少なかったであろう。
今、平穏に暮らしていたとする。
しかし、まもなく好まざる境涯へと変らざるを得ない可能性はある。
誰しもある。
ならば、どのような境遇になろうとも、心持ちだけは清くいられることを願うばかりである。
法然上人のお言葉です。
『同じ播磨国の室津港にお着きになると、小舟が一艘上人の船に近付いて来たが、これは遊女の船であった。その遊女が「法然上人のお船だとお聞きして馳せ参じました。生活する手段はまちまちですが、どのような前世の罪があってか、このような身になってしまったのでございましょうか。この罪業の重い身は、どのようにして後生で救われるのでございましょうか」と申し上げた。上人は不憫に思って「本当にそのようにして暮らしておいでになることは、罪障の大変重いことであるので、その報いもまたはかりがたいものです。もし、このようなことをしないで、世渡りをなさることの出来る方法があるならば、すぐにその生業をお捨てなさい。もし、他の方法もなく、また身命をもきにかけないほどの道心がまだ起こりなさらないならば、ただそのままで一筋に念仏しなさい。阿弥陀如来は、そのような罪人のためにこそ誓願をお立てになっているのでございます。ただ深く本願を頼んで、決して自分を卑下してはなりません。本願を頼んで念仏すれば、往生は疑いありません」と丁寧にお教えになったので、遊女はうれしくて涙を流した。その後、上人は「この遊女の信心は堅固である。きっと往生を遂げるであろう」とおっしゃった。
【現代語訳 法然上人行状絵図 浄土宗総合研究所訳P383】
参考文献【城南古書保存会「新編武蔵風土記写本」 城南古書保存会編P112】
【荏原風土記稿編纂事務所「通俗荏原風土記稿」 中島錦一郎編P78】
ありがとうございました。