子ども達とテニスをした。
今、私は寺に勤めている。
坊さんである。
以前は、テニスコーチをしていた。
その折にお世話になった先輩コーチがいる。
先輩コーチは、現在、ジュニア選手育成スクールを開いている。
そのスクールの練習に混ぜてもらったのだ。
小学生から高校生まで20名程所属している。
始めたばかりの子もいれば、全日本ジュニア選手権に出場している子もいる。
「次は、ゲーム形式練習ね」
先輩コーチが練習内容を端的に指示する。
「凉心さん、お願いします」
すると、特に元気のよい中学生の男の子がすぐさま声をかけてくれた。
練習相手として私を選んでくれたのである。
「はい。頑張るよ!」
こちらも勢いで押されないよう気合いを入れる。
「ラスト!」
15分経つと先輩コーチから合図がでた。
ゲーム形式練習の1回目を終えた。
皆でボールを集める。
「ほら、そこ!」
高校生にもなると、黙々とボールを拾っている。
しかし、小学生はふざけてしまう子もいる。
「だってコーチ、こいつが!」
注意をされたことが不服なようである。
「もう、いいから急いで拾え!」
先輩コーチは、その子のところへ近づき一緒に集める。
体力がある子ども達である。
コーチも一筋縄にはいかないようだ。
拾い終えたら2回目を開始する。
「お願いします」
今度は中学生の女の子が声をかけてくれた。
ところが、少々うつむき加減である。
「どうしたの」
気にかかったのでたずねてみた。
「なかなか自分のスタイルが見つからなくて……」
なるほど。
悩みごとがあったようである。
詳しくきいてみる。
「早く自分のテニスを確立するべきだ」
このような内容を学校の練習でアドバイスされたらしい。
これは難しい課題である。
たとえば、自分で「こうだ!」と決め込む。
しかし、相手がいる。
となれば、沢山対戦する中で勝てる道を模索していくことになる。
特に若いうちはそうであろう。
だいいち、一番の資本である身体がどのように成長していくのかがわからない。
「無我」と似ているようにも思えるのだが……。
「そう言われてしまうと、キツいよねぇ」
だから、情けないが私は明確な回答が出せなかった。
お釈迦様の御教えに、以下のお言葉があります。
『「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそが人が清らかになる道である』
【岩波文庫 ブッダの真理のことば・感興のことば 中村元先生訳P49】
ありがとうございました。