夜中に寺務室で書類作成をしていた。
坊さんにも事務仕事が沢山ある。
私は、あまり得意ではないが……。
同じくらい掃除仕事も多い。
こちらは身体を使うこととなる。
だから、比較的上手にこなせると思っている。
(もう1時かぁ)
時計をみて時間を確認した。
すると、その時、急に部屋が薄暗くなった。
(えっ?)
いい大人が恥ずかしいのだが、ちょっと怖くなった。
(おっ!)
まもなくして、またもとの明るさに戻る。
電球が古くなっていたようだ。
(なんだ)
理由がわかればなんてことはない。
安心してパソコンを打ち続ける。
しかし、取替える電球がない。
ひととき薄暗くなり、つかのま明るくなる。
(ん~)
気が散るとはいえ我慢するしかない。
「点いたり消えたり」
そんなことをつぶやいていると昔の出来事を思い出した。
20年位前のことである。
寺の仕事を始める前のことだ。
夜、友人と仕事場のテニスクラブにいた。
練習を終え、ロビーで雑談していた。
すると、突然、トイレのハンドドライヤーが動きだした。
「誤作動かな」
他に誰もいないことはわかっている。
ならば、誤って反応したとしか考えられない。
ところが友人は……。
「来たな」
予想外の発言をした。
私には言葉の意味がわからなった。
「誰が?」
質問をする。
「凉心には見えないかもしれないけれども、いるんだよ」
いわゆる霊的存在のようだ。
「また帰ってきたよ」
しばらくして友人がトイレの方をみる。
同時に、再びハンドドライヤーが動きだした。
(……)
驚きである。
その後も数度、友人の「まただ」の直後にハンドドライヤーが動き出す。
(間違いない)
信じ難いことではあったが、友人の言うことは確かなようだった。
寺の仕事をしているとお参りの方などから不可思議なお話をきくことがある。
例えば、「呼び鈴がなったので玄関に行きました。ところが、誰もいなかったんです。ただ、この後、遠くにいる兄が亡くなったと連絡がきたんです。だから、きっと呼び鈴を押したのは兄だったと思うんです」などである。
私はテニスクラブで不思議な出来事を目の辺りにしている。
「間違いありませんよ」
だから心底同意している。
法然上人の伝記に以下の説明があります。
『建暦二年正月十一日の午前八時頃に、法然上人は起き上がられ、大きな声で念仏をされた。聞く人はみな涙を流した。上人は弟子たちに告げて、「お前たちも大きな声で念仏するがよい。阿弥陀仏がお迎えに来られた。この仏のみ名を称えれば、ひとりも往生しないということはない」と、念仏の功徳をほめたたえられること、あたかも昔の通りであった。また「観音菩薩、勢至菩薩などの聖衆がここに現れておられる。お前たちにも見えているか」とお尋ねになられたが、弟子たちは「見えておりません」と申し上げた。上人はこれを聞いて、「もっともっと念仏しなさい」と勧められた』
【現代語訳 法然上人行状絵図 浄土宗総合研究所編P400】
*建暦二年(1212)正月二十五日は法然上人が極楽に往生なさった日です。
ありがとうございました。