私の勤めている寺の横に公園がある。
そこには白木蓮がある。
毎年、彼岸になると咲き誇る。
寺の横の道には桜並木がある。
染井吉野である。
通年は彼岸が開けてから咲きこぼれる。
境内には山桜がある。
例年は染井吉野の後に花盛りとなる。
ところが、今年は全てが同時に咲きそろった。
寺の周りで色々な花が咲き乱れている。
「母が健在だったころにも、桜が満開だったことがありました」
お彼岸参りにいらした女性が教えてくれた。
二十年程前のことらしい。
「今年は桜の開花が早いね。昔を思い出すね」
お墓の前で手を合わせながら、お母さまに語りかけたそうである。
「お寺の前の坂を祖父と手をつないで歩いたの」
別の女性がお話してくれた。
やはりお彼岸参りにいらした方だ。
山門の前は急坂になっている。
雪が降った日などは、滑って登れなくなるくらいの傾斜がある。
だから、坂の下で市電を降り、そこからお爺さまと手をつないで上がってきた。
七十年前の思い出だそうだ。
「今は孫に手をつないでもらっているよ」
お墓の前で、お爺さまに伝えたそうだ。
「一人で来ちゃいました」
さらに別のご年配女性が笑顔でおっしゃった。
こちらもお彼岸参りの方である。
いつもは息子さん家族と車でいらっしゃる。
ところが今回は春分の日に息子さんは仕事となってしまった。
そこで、後日に皆でお参りすることにしたらしいのだが……。
「若い人のことなんか待っていられませんでした」
墓前にて、数年前に往生されたご主人へ、そのように語りかけたそうである。
昨今は、葬送儀礼や先祖供養儀礼への意識が薄くなってきたと言われることがある。
「儀式を行う意義がわからない」
そんな声すら耳に入る。
しかし、本当にそれでいいのだろうか。
人は言葉を発達させる前から亡き方への儀礼を行っていた。
丁寧に葬ってきた。
これが何を意味するのか。
理由を言葉で説明し尽くせなくても大切なことはある。
お参りの方々のお姿をみているとそう感じるのである。
養老孟司先生のご説明です。
『現代人に比較すれば、はるかにことばに乏しかったと思われるネアンデルタール人が、すでに埋葬儀礼を持っていた。このことは、埋葬儀礼を引き起こす動機と必要性が、かれらの脳内に、すなわちおそらく明晰な言語の発生以前に、あらかじめ存在していたことを示す。その性質をなぜかわれわれは引き継ぎ、したがって、死者への想いは、しばしばことばより脳の深部に位置している』
【法蔵館文庫 日本人の身体観の歴史 養老孟司先生P16】
ありがとうございました。