毎春、本山にて大法要が厳修される。
その際、大法要ならではのお経を唱えることがある。
いわゆる声明(しょうみょう)である。
上手なお坊さんが唱えると誠に厳かな雰囲気に包まれる。
(僕も唱えられるようになりたい)
そう思い稽古に通い始めた。
ところが、これが本当に難しい。
十五年程続けているが、一向に上達している手応えがない。
先日、本番さながらの稽古があった。
嬉しいことに、私は独唱の役をいただけた。
稽古では、時々、独唱の役をいただけることがある。
しかし、その都度何らかの失敗をしてしまう。
(今日こそ)
だから、気合いを入れる。
模擬儀式が始まる。
先輩や後輩が式次第に従って独唱を行っていく。
だんだんと、自分の番が近づいてくる。
(焦ってはだめだ)
(大きく呼吸をして)
あれやこれやと自分に言い聞かせて身心の準備をする。
それなのに、なぜだろうか脈は異常に速くなっていく。
息も満足に吸えなくなってくる。
(まずいぞ。落ち着け。落ち着け)
こうなると負の連鎖が止らない。
(決められたところ以外で息継ぎをしてしまうかも)
(喉が詰まって声が出ないかも)
頭の中もマイナス方向の考えで満ちていく。
そうしているうちに順番がくる。
「我等……」
やや震えてはいるが声は出せた。
だが、定められた音程よりもだいぶ高く出してしまった。
つまり、上ずっているわけです。
途中から低くするわけにはいかない。
恥ずかしいやら、情けないやら。
寒い堂内なのに全身から汗が噴き出してくる。
(あぁ~)
以後、模擬儀式の最中なのに放心状態である。
「音が高すぎる。前の人のお経をよくきいておきなさい」
案の上、振り返りの際、先生から注意を受けた。
失なっては困るほどの何かを持っているわけではない。
注目を集める程の実力はそもそもない。
(それなのにどうして……)
帰り道、電車に揺られながら原因を考えてみた。
が、どれも腑に落ちない。
(次回こそは)
だからそう思えるほど、まだ心が回復していない。
お釈迦さまの御教えです。
『かれらは、過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている。それだから、顔色が明朗なのである。ところが愚かな人は、未来のことにあくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、そのために萎れているのである』
【岩波文庫 ブッダ神々との対話 中村元先生訳P20】
ありがとうございました。