お経の唱え方を教わるために本山に定期的に通っている。
稽古の第一の目標は、本山の大法要に式衆として出座できるようになることだ。
式衆とはお経を唱える役のことである。
本山大法要で唱えるのは、いわゆる声明である。
読経法の基礎は僧になる際の修行で習った。
しかし、声明はそれよりも複雑なものとなる。
よんでいる経文は同じものも多いが、節回しが変ってくる。
音程の幅は広くなり、技法も増える。
だから、声明を一人前に唱えられるようになると大きな自信となる。
とうぜん、日常のお勤めにもよい影響となる。
ところが……。
これが難しい。
少なくとも私にはとてもハードルが高い。
第一の難関は、大きな声を出すこと。
「モゴモゴしていてわからないよ」
一メートルくらいの距離で会話していても、よく友人から指摘されてしまう。
それくらい声が通らない。
そこへきて、お堂はテニスコート三面分くらいある。
したがって、「小さな声では何を唱えているのかわからないぞ」と先生には四六時中叱られることとなる。
第二の難関は、息を長持ちさせること。
声明では息継ぎをする箇所がすべて決められている。
そして、息継ぎから息継ぎまでが長い。
しかも、その間、音程を上下させたり、咽を閉じたり開いたりさせる。
大きな声を出そうとして、すでに息を沢山使っている状態だ。
それに加えて、色々な技法を行うとなると、私にはもう余力がない。
第三の難関はリラックスである。
心身がほぐれていれば、声に伸びがでる。
息も長く続く。
そんなことはわかっている。
わかっているけれども、何故か心身は言うことをきいてくれない。
何百人も居られるお堂にて一人で唱えるのである。
唱える前から脂汗が出てくるし、唱えている最中も上手く出来るか不安で仕方がない。
あげくには、過度の緊張が理由なのか、たった数文字の偈文の記憶が頭からなくなってしまうことさえある。
急に辺りの音が突然きこえなくなり、自分の声だけがかすかにきこえてくる。
「どうしよう。何て唱えるんだっけ……」
しかし、ときすでにおそし。
まるで頭の中が金縛りにあったようで、もがいてもなにもできない。
こんな格好なので、運良く式衆の役をいただけても、まともに出来た例しがない。
「やってしまった……」
毎回、奈落の底に落とされた思いになる。
それでもこれまでは「なんとか上手に唱えられるように」とか「人なみに出来るように」とか「失敗しないように」などと考えて頑張ってきた。
いつかはビシッと唱えられるようにと励んできた。
ところが、この前の稽古で「醜態をさらすことは避けられないのかもしれない」と突然、変に悟ってしまった。
だったら……。
「これからは残念な自分を抱えるための心の稽古も重ねておこう」
もちろん全力でお唱えはする。
しかし、奈落の底に落ち込む準備もしておくのだ。
備えあれば憂いなし……、で上手いこと唱えられるようになればいいのだが。
法然上人の伝記に、以下の御記がございます。
『後白河法皇の十三年のご遠忌にあたり、土御門院が元久元年(1204)三月に追善の仏事を行われたところ、法然上人は蓮華王院において「浄土三部経」を書写され、良い声の者を選んで六時礼讃を勤めて、丁寧にご菩提を弔われた』
【現代語訳 法然上人行状絵図 浄土宗総合研究所編p107】
ありがとうございました。