現代は、埋葬方法が多様化してきている。
少なくともそういうニーズがあるようだ。
「何かよい仕組みがないだろうか」
私も仕事柄考えることがある。
まずは、埋葬の歴史をざっと振り返ってみる。
鎌倉時代、庶民は近隣の人々で協力し立派な供養塔を建てていた。
そして、そのまわりに亡き方を埋葬していた。
戦国時代も立派な供養塔のまわりに亡き方を埋葬していた。
加えて、個々の埋葬地の上に小さな石塔を建てるようになった。
江戸時代は、共同の供養塔は少なくなった。
個々に埋葬地を定め、角柱型個人用墓石を建立した。
夫婦墓石、家墓石などもあった。
村民で共同に管理している山に埋葬する地域もあった。
ただし、供養するための墓石は麓のお寺や共同管理の墓所に建てていた。
その後は、最近に至るまで先祖代々と刻んだ墓石に埋葬し供養してきた。
こうしてみてみると、現代のような多様性は感じられない。
概ね共同体で埋葬地を管理している。
あるは、一族でお墓を守っていた。
もちろん現代とは社会の構造がちがう。
人々の居住地が頻繁に変ることはなかったであろう。
一つ屋根の下に親子三代で暮らすことは普通のことだった。
ところが、現代は居住地が頻繁に移り変わることがある。
実家を出て別の場所にて生涯を過ごすこともある。
個人の意見を尊重する時代でもある。
自分が好きだった海へ散骨してもらいたい。
そんな意見も何の抵抗もなく言える。
埋葬方法が多様化してくるのもうなずける。
埋葬方法が多様化すること自体は問題ない。
法整備が整っているのであればそれに従うまでだ。
ただ、一つ気にかかることがある。
それは、後の者が供養を行いたいときに混乱することだ。
個人の意見を尊重しすぎると、先祖の埋葬地があちこちにちらばることになる。
すると、孫やひ孫の代になればその所在が不明になる可能制がたかい。
とうぜん、手を合わせに行く場所がわからなくなる。
先祖に感謝や供養をしたくても、具体的にどこに眠っているのか分からない。
「そんなこと気にしていない」
供養される方はそう言うかもしれない。
しかし、後世の人たちからするとつらいことであろう。
そこで私の案だ。
ない頭で捻り出してみた。
この課題にも対応するためには、戸籍に埋葬地を記載してもらえばいい。
いまでも墓地の引越しでは遺骨の所在を役所で証明してもらっている。
火葬する際には火葬許可証を発行してもらう。
埋葬するには行政からの埋葬許可証が必要となる。
それならば、埋葬地を戸籍に記載してもらうことも難しくないはずだ。
戸籍に記載があれば後の者がわからなくなる心配はない。
これからの埋葬の仕組みの案として、いかがなものだろうか。
浄土御門主・伊藤唯真猊下の2001年の御著書に、以下のお話がございます。
散骨に関してお話くださった際の、お言葉です。
『自然に還ることが自然の摂理で、自分にとっての葬儀とは遺族が遺骨を粉にし袋に入れてくれる時だという人がいます。誰かが自分のことを思い出してくれる時、そこが自分のお墓ですと語る人もいます。心情的にはそうでしょう。しかし、本人は割り切っても、遺された周囲の人びとはその気になれるかどうか。本人と周囲の人びととの間に、生前どれだけ葬送についての思想的な共鳴がなされていても、散骨後、墓や仏壇といった故人を偲ぶよすがが何もないということに何年も耐えていけるかどうかは、長い目で見ていかないとわからないと思います。当然、祭祀の心はわいてくるはずですし・・・。私は、遺骨を入れなければ墓にあらずというわけではないので、散骨をした故人を祈念し、偲ぶための石塔なり仏壇があってよいと思うのです。地方の習俗には、遺骨を納めない詣り墓というものがあるくらいですから』
【法蔵館 日本人と民俗信仰 伊藤唯真猊下・著p107】
ありがとうございました。