郵便局で順番待ちをしていると、70才位の二人の男性がお墓の話をしていた。
別に聞き耳をたてていたわけではない。
あまりに大きな声だったので、きこえてきただけだ。
「この前、母親の納骨を済ませてきたよ。その時に、しみじみと考えたね。俺が往った後、息子は墓を守ってくれんのかなって」。
息子さんは外国で暮らしているらしい。
なるほど、そうなれば気持ちが云々ではなく、物理的な問題だ。
心配になるのもうなずける。
「わかるわかる。だから、俺は骨になったら寺の永代供養塔に納めてもらうつもりだ。いま墓に入っている骨も一緒にそこへ納めてもらうよ」。
解決策をみつけてあるようだが、もう一人も同じような悩みを持っているらしい。
お墓の悩みといえば、こんな相談をうけたことがある。
その方は次男なので新たに墓を建てることを考えていた。
そんな折、たまたま郊外の霊園の募集を目にする。
住まいのある都心からは車で一時間半程だ。
早速見学へ行ってみると、緑が多く、空気もよい。
広々としており、とても清々しい。
とても気にいったので、お墓を建てることにした。
ところが、それから数十年が経ち、夫婦ともども歳をかさねてきた。
すると、予想外の課題があらわれる。
若い頃にはなんでもなかったその距離が、心身ともに遠くに感じられてきたそうなのだ。
これでは、どちらかが先に亡くなっても気軽にお墓参りには行かれない。
「そんな訳で、家から容易に行ける墓所を改めて探しているのだが、どこかよい所を知らないか」。
おおむねこのような内容だった。
お墓の悩みは、色々とありますね。
お寺を管理している私だって考えてしまうことがある。
なんてったって、開発が進む都心では、墓地そのものの存続が怪しいんですから。
浄土御門主・伊藤唯真猊下の2001年の御著書に、散骨についてのお話がございます。
『自然に還ることが自然の摂理で、自分にとっての葬儀とは遺族が遺骨を粉にし袋に入れてくれる時だという人がいます。誰かが自分のことを思い出してくれる時、そこが自分のお墓ですと語る人もいます。心情的にはそうでしょう。しかし、本人は割り切っても、遺された周囲の人びとはその気になれるかどうか。本人と周囲の人びととの間に、生前どれだけ葬送についての思想的な共鳴がなされていても、散骨後、墓や仏壇といった故人を偲ぶよすがが何もないということに何年も耐えていけるかどうかは、長い目で見ていかないとわからないと思います。当然、祭祀の心はわいてくるはずですし・・・。私は、遺骨を入れなければ墓にあらずというわけではないので、散骨をした故人を祈念し、偲ぶための石塔なり仏壇があってよいと思うのです。地方の習俗には、遺骨を納めない詣り墓というものがあるくらいですから』
【法蔵館 日本人と民俗信仰 伊藤唯真猊下・著p107】
ありがとうございました。