青森県の恐山は、先亡者の霊が集まるところと信じられている。
先亡者と交流できる霊場としても信仰されている。
私も恐山を参拝し、賽の河原にて読経を勤めたことがある。
まことに厳かな聖域であった。
以前、やはり恐山をお参りされた女性に話を伺ったことがある。
「亡くった叔父さんと話がしたかった」
イタコに口寄せをお願いしたくて参詣したと教えてくれた。
イタコには叔父さんの「生年月日と名前」だけを伝えたそうだ。
後はただ降臨してくるのを待つのみだった。
「いろいろと世話になったね」
しばらくするとイタコが口を開いた。
「妻と娘のところに行きたかった。あなたには迷惑をかけたね。感謝している」
イタコはそう続けた。
女性の目には涙が溢れてきた。
間違いなく叔父さんの言葉だった。
叔父さんには、奥さんと娘さんがいた。
仲の良い家族だったそうだ。
ところが、思わぬ事故で二人が亡くなってしまった。
叔父さんは、落ち込んだ。
食事は喉を通らない。
仕事も手に着かない。
家に籠りきりになる。
とても心配になった女性は叔父さんを励ました。
週に一度は自宅に行って話しかけた。
しかし、不安は現実となる。
まもなく叔父さんは病気になってしまった。
医師には心労によるところが大きいと説明をうけたそうだ。
他に身内のいない叔父さんを、女性は必死に看病した。
小さい時、娘さんとともに可愛がってくれたことへのお礼の気持ちがあった。
ところが……。
女性は叔父さんが本当はどんな思いだったのかを知りたかった。
丁寧に支えてあげられなかったのではないか、と気にかかっていた。
「だから、叔父さんの心のうちをきけたことで少し安心しました」
最後にそう話してくれた。
人は命を終えたならなにも残らない。
そう信じている人もいるであろう。
しかし、女性は叔父さんと話をした。
またこの女性に限らず、死者からの思いを受け取ったことのある方は沢山いる。
さて、何も残らないのであれば……。
そのようなことは起こらないはずである。
法然上人の伝記に、以下の御記がございます。
『人間は誰であっても、いつまでも生き残ることの出来る身ではありません。私もほかの人も、人より後に死ぬか先に死ぬか、という違いがあるだけなのです。その命の切れ目のことを思いましても、またいつまで生きるか定まらない上、たとえ長く生きると申しましても、この世は夢まぼろしのようなるもので、どれほども長くはないでしょう。ですから、ただ必ずや同じ阿弥陀仏の浄土に生まれ合わせて浄土の蓮台の上で、この世でも憂鬱なことや前世からの関わりを一緒に語り合い、お互いに来世で教化し合い助けることが、本当に大事なことでありますと、初めから申しておきました。』
【現代語訳 法然上人状行絵図 浄土宗総合研究所編p192】
ありがとうございました