電車やバスに乗り、なんとなく外を眺める。
すると、いつのまにか自分の内面に意識が向いていることがある。
「将来はどうなるだろうか」「どうして仕事が上手くいかないのだろうか」「もっと楽しく生活出来たらいいのにな」。
考えたところでよい答えをみつけられたためしはない。
ただ、今ならそんなことが頭の中でめぐり始める。
「どうして勝てないんだろう」「いつか勝てるようになるのだろうか」「才能がないのかもな」。
テニスをしていた頃は、よくそんなことを考えていた。
「どうして子供の頃から続けている人は強いのだろうか」。
これは、インカレ選手や実業団の選手に負けた後の帰りの列車における定番思案である。
もちろん、それに答えがだせても次の勝利へはつながらない。
それはわかっている。
おそらくは、「大学同好会でテニスを始めたのだから仕方が無いよ」と、負けた理由があたかも自分の責任ではないかのように感じたかったのだと思う。
ただ、このことは勝負とは関係なく興味本位で考え続けた。
小さいときから始めていれば、確かに積み重ねてきた総練習時間は長くなる。
なるほど、長く繰り返していれば、より上手くなであろう。
でも、幼い頃は筋力が弱く、身体は細い。
大人だって下手な技でボールを打っていると、すぐに負傷する。
子供なら尚更だ。
子供は全員が先天的に素晴らしい技術を持っている、なんてことはあり得ない。
怪我をする子だって多くいるはずだ。
不思議だ……。
数ヶ月して「そうか」と、ようやく腑に落ちるときがきた。
子供の頃から社会人になるまで続けている人は、初めから上手かったのだ。
筋力のない子が怪我をしないで練習を続けられるのは、適切な技術があるからだ。
不適切で負荷のかかる技術しかなければ、大人になる前に大怪我をしていたに違いない。
よって、社会人などで活躍している人は、小さい頃にすでに自然節理のフルイにかけられて選び抜かれた精鋭なのだ。
「子供の頃から始めたら上手くなる」のではない。
「子供の頃から素晴らしい技術があった」ので、上手くて強いのだ。
一応の答えが出せてスッキリした。
さて次は、「では、この答えをどう自分の上達に活かすのか」と意識が動き始めた。
何度も電車の中で考えた。
しかし、結局解決できないままテニス選手生活は終わってしまいました。
悔しいけれども、才能がなかったのである。
お釈迦様の御教えに、以下のお言葉がございます。
『みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。修行僧よ。自己を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう』
【岩波文庫 ブッタの真理のことば・感興のことば 中村元先生訳p63】
ありがとうございました。