比較的質素な生活なのではないかと思っている。
車、洋服、時計、旅行、酒などの嗜好品にはあまり興味がない。
食べ物も、缶コーヒーと甘い菓子パンを好んでいる程度だ。
ただし、学生時代から続けているテニスの用具は性能がよいものがほしくなります。
だから、こうした生活を継続していれば暮らしに苦しむことは避けられるのではないだろうか、と考えている。
とは言いっても、何がきっかけで自分が変ってしまうかわからない。
不安はつきまとう。
以前、とても裕福だった方のから話をきいたことがある。
ご自身で起こした会社の采配が上手くいき、沢山の資産が有ったそうだ。
家賃が何十万もする世田谷の高級マンションを借りる。
自動車は外国の高級車に乗る。
奥さんの洋服や宝石、自分の時計も高価なもので揃える。
子供も私立の中学校に通っている。
そのような暮らしでも、当時は経済的に余裕があった。
また、自分は才覚が豊かなのだから、仕事に行き詰まることなど想像もしなかった。
ところが、年月が経つにつれ仕事が上手く回らなくなってきた。
会社の負債が増えていく。
色々と手を施してみるが好転しない。
ついには、会社を閉めることになった。
さて、こうなると、多くの場合、以後は生活水準下るはずだ。
収入が大幅に変るのだから当然である。
しかし、この方は、会社を閉めた後も、以前と同じように暮らしていたそうだ。
「自分は裕福な生活をしてよい人間だ」。
そう信じ込んでいたらしい。
何を信じ込んでも自由なのだろうが、物事は信念通りには進まない。
すぐにお金が底をつく。
どん底である。
ところが、そのときに「社会福祉協議会」へ相談に行ったのがよかったらしい。
公的機関であり、お金を貸してくれることをきいたので、たまたま足を運んだそうなのだ。
「今の水準だと、生活はしていけませんよ」。
窓口ではそんなようなことを言われた。
もっともな指摘である。
その方は、そこでのやり取りが契機となり、今まで避けて来た現実と向き合うことができるようになった。
「今は、つつましく暮らしています」。
最後は笑顔でそう教えてくれた。
人の欲望を制御するのは難しい。
いつコントロールがきかなくなるかもわからない。
だれもが気をつけなければいけない事だと、つくづく感じる次第である。
《無量壽経》に、以下のお言葉がございます。
『〔いかなる〕欲望をも満たす華やかな日々が〔実現できても、それが〕いつまでも続くはずはない。〔せっかくの栄華も〕すべて〔手元から〕離れ去り、何一つとして楽しむべくもないのだ。〔私が〕仏としてこの世に生きている間に励んで精進せよ。〔無量壽仏の〕安楽国に心底往生したいと願うものは、〔必ず往生して〕聡明なる智慧のはたらきと、ことのほかすぐれた功徳を得る。欲望の赴くままに〔振る舞い〕、私の教えや私が定めた生活規範を踏みにじり、〔往生する〕人の後〔姿を眺めること〕があってはならないのである』
【現代語訳 浄土三部経 浄土宗総合研究所編p136】
ありがとうございました。