学生の頃、よくテニスの練習をしてもらった秀才の友人がいる。
現在は日本最高峰の大学で教鞭をとっている。
その彼とは、昔は練習が終わるとコートの近くの食堂へ行き、いっぱい話をした。
そして、色々なことを教えてもらった。
「現代人は、情報処理は速い。でも、考える力がある人は少ない」などと、少し難しいことも。
「具体的には」と質問すると。
テニスの例を用いて、次のように説明をしてくれた。
「例えば、サーブで的を狙う練習をしたとする。
ここで大切なことは、常に威力を維持したまま毎回的に当てることだ。
しかし、普通はいきなりそんなことは出来ない。
ボールのスピードも回転量も変ってしまうし、飛んでいく場所もバラバラになる。
つまり、思い通りに打てないのだ。
さて、ここで上手くなる人は考える。
「結果が悪いのは、身体の使い方が間違っているからだ」と。
そして、直ちに今までの身体の使い方を分析したり、上手い人のフォームなどを解析したりして修正案をいくつも編み出す。
しかも、よい結果が出てくるまで何度も何度もこの作業を繰り返す。
一方、多くの人は「へんだな」などと言いながら、何の変化も加えずただひたすら打ち続ける。
何も変えないのだから、もちろん上手くなることもない」と。
「なるほど」とその観察力に感心するとともに、自分のことを言われているようでちょっと情けなかった。
さらに続く。
「先輩やコーチに指摘をうけても、結果がよくないならば指摘の詳細を自分で分析しなければいけない。
なぜならば、先輩やコーチは単に最終的な結果を指摘しているだけのこともあるからだ。
「スピンをもっとかけろ」とか、「タイミングを上げろ」とか。
もし、このような指摘を受けて直ぐに治せるのであれば、問題は何もない。
しかし、多くの場合はこれだけでは何も変らない。
指摘を素直に受け入れたとしても、言われた通りの結果は出せない。
そう、身体の使い方に問題があるのだから。
コーチや先輩がそのことに気がつき、身体の使い方を修正してくれるのであれば有り難いが、あまり期待ばかりしてもいけない。
だから、自分を変えるためには自分で考えることが大切なんだ」と。
「さすがに頭のいい人の言うことは違うなぁ」と、気合いばかりの練習をしていた自分にもよく理解ができた。
この理論は、色々なことに適応できるのが有り難い。
実際に、社会人になった今でも様々な場面で応用するようにしている。
「あったまばかりでも、からだばかりでもだめよね」と歌いながら。
法然上人の御教えに、以下のお言葉があります。
『学問を修めるにあたっては、あらたに見定める事がきわめて大切です。師匠の説をそのまま伝え習うだけならたやすいことです』
【法然上人の御法語2 浄土宗総合研究所編 P40】
ありがとうございました。