「挨拶のうどん」~意気地なしのドコドコ日誌③~【へっツー日誌】 | Jinkhairのバイカーへの道

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こちらは香川県坂出市にある理容室「Jinkhair(ジンクヘアー)」のブログです。店主が好きな「80年代HR&HMのアルバム紹介、ライブレポ」や「カメラ」「バイク」のことなど、日々の出来事などを気ままに書いております。

半島をグルッと回って「宇野港」に向かう。

 四国に住む者として、かつては本土に出ようとすれば必ずと言って良いほどこの「宇野」を経由しないといけなかった。(フェリー&飛行機は除く)

瀬戸大橋開通前、鉄道で直接本土に渡ることは当然できず、高松からこの宇野まで「連絡船」に乗らなければならなかったのだ。

宇高連絡船「讃岐丸」

 

「連絡船」とはその名の通り鉄道では直接乗り入れることができない部分を「連絡」する「船」の事で「カーフェリー」とはちょっと違う。

なので当時はまず国鉄予讃線、もしくは高徳線で「高松駅」まで行き、その高松駅から歩いてすぐの高松港から「宇高連絡船」に乗り約1時間かけて「宇野港」へ、そこから再び「宇野線」に乗り換えて「岡山」に。

その岡山で新幹線、もしくは在来線に乗り換える必要があった。

 

この「宇高連絡船」を語る上で忘れてはならない出来事がある。

1955年(昭和30年)5月11日、濃霧をついて出港した連絡船「紫雲丸」と第三宇高丸が衝突して女木島沖で沈没。

修学旅行生100人を含む168人が死亡する日本海難史上に残る「紫雲丸事故」が発生した。

この紫雲丸事故が瀬戸大橋構想を更に推し進めることになったのだ。

 

「宇高連絡船」と言えばもう一つ思い出深いことがある。

それは連絡船のデッキで提供された「連絡船うどん」である。

この「うどん」がどんな「うどん」だったか。

 

映画「UDON」の中で編集長役の升毅がこんな風に語っている。.

升「みんな知ってるか?瀬戸大橋が出来る前は『宇高連絡船』ていうのがあってやな、そのデッキでうどんが食べれたんや」

「へぇ~そんなんすか?で、どんなうどんやったんですか?」

升「それがな~、作り置きでコシもツヤもない、そんな麺をチャチャ~ッと湯で湯がいただけのどこにでもあるうどんやった」

「なんだ、じゃあそんなにおいしくなったんですね?」

升「それがなぁ~ うまかったんや~!」

「えっ?どういうことですか?」

升「あれは思い返してみると、『食事』やなかったんやろな、故郷を出てゆく者、また帰って来た者たちが『行ってきまーす!』やら『ただいま~!』っていうみたいな…そう…『挨拶』みたいなうどんやったんかもしれんなぁ~」

「挨拶みたいなうどん?」

升「あぁ、そういう普段とは違うシチュエーションが普通のうどんをウマイと思わせたんやろな~」

 

そういや、東京の大学に行った親友のH田君が東京かぶれしながらもこんなことを言っていた。

「東京のうどんはさ~、不味くってさ~、とっても食べられないんだよね~、でさ~、帰る時『連絡船』でソッコーうどん食べたんだよね!」

「H田、頼むけん、その『さ~』と『だよね~』をやめてくれ!(笑)」

 

当時は「関東のうどんはマズイ」というのが我々の通説であった、関東のうどんの出汁は真っ黒でしょっぱいと。

関東の人がわざわざマズイうどんを作って食べているとは思わないから、それは単に「口に合わない」だけだったのだろう。

うどんの麺は出来立て(茹でたて)ならどこでもおいしいと思うし、作り置きなら関東でも香川でもマズイ(笑)

 

昭和57年坂出高校の修学旅行、連絡船の上で(M屋氏提供)

私の同級生、40年前の女子高生である。

美少女らの顔を隠さねばならないのは心苦しいが肖像権の関係上やむを得ない(笑)

 

 

瀬戸大橋が開通しその橋梁を通る「瀬戸大橋線」が開通したことによって「宇高連絡船」は廃止。

その後は「宇高(うたか)国道フェリー」「四国フェリー」などの民間の航路が宇野と高松を結んでいて、瀬戸大橋の通行料金が高額だったことで運送業者などが利用してきたのだが、橋の通行料金の値下げ、また高速道路の休日1000円などの政策の影響で利用客が激減、採算が取れないという理由で相次いで廃止、最後に残った「四国フェリー」も2019年に廃止された。

かつては賑わった高松のフェリー乗り場

 

現在は宇野港からは直島への航路しか残っておらず、宇野駅から岡山行きの列車は1時間に1本程度(朝夕は2本)のダイヤしかない。

 

宇高連絡船が去り、宇高航路も消滅した今、「宇野」はさぞかし寂れているだろうと当然予想した。

 

しかし…