Jinkhairのバイカーへの道

Jinkhairのバイカーへの道

こちらは香川県坂出市にある理容室「Jinkhair(ジンクヘアー)」のブログです。店主が好きな「80年代HR&HMのアルバム紹介、ライブレポ」や「カメラ」「バイク」のことなど、日々の出来事などを気ままに書いております。

今日、3月20日は何の日か?

そう!「地下鉄サリン事件」が起こった日である。

「麻原彰晃」率いるカルト教団「オウム真理教」による、日本中を震撼させた前代未聞の凶悪テロ事件であった…

 

イヤイヤ!

「地下鉄サリン事件」の事を書きたいわけじゃなくて、その一日前。

3月19日は私の60歳の誕生日だったのだ!

いや、昨日アップするはずが今日になってしまっただけなのである(笑)

 

そう!遂に「還暦」を迎えたのである。

同級生と話をすると必ず出てくるのが…

「まさか自分が60歳になるとは思わなかった」

 

若い人が聞いたら「何言ってんの?」って笑うかもしれないが、そんな彼らも

「まさか自分が30歳に…」

「まさか自分が40歳に…」

「まさか自分が50歳に…」

と私たちと同じように感じながら、そして私たちもまた

「まさか自分が70歳に…」

「まさか自分が80歳に…」

と言いながら老いて行くのだろう。

 

歳を取ることが全部悪いわけじゃない。

しかし、体力、気力、容姿は衰え、病気にもなる。

 

若い頃よく年寄りから「若いなぁ~、若い頃が一番ええわ、わたしらもう年寄りはなんもええことないわ~」と言われたときは「何言ってんの?」と思ったものだが、今になればその気持ちはすごくよくわかる。

 

若い女の子は美しい。

若い男の子もカッコいい。

それに比べたら今の自分は頬はたるみ、眼は腫れぼったく、ほうれい線は深く刻まれ、シミは出るわで鏡を見るのも嫌になる。

私は自分の顔を男前だとは一度も思ったことはないが、20歳の頃の写真を見ると「オッ!イケメンやん!」って思う(笑)

この頃もっと積極的に女にアタックしてればよかったかな?(笑)

20歳の頃、当時働いていた大阪福島区野田の店の2階の寮にて

 

そんな若い時でも「オレは若い!若いって素晴らしいんだ!」って思いながらその時を生きている人はまずいないと思う。

若いときは若い時でそれなりの悩みや苦しみがある。

私も仕事の事、将来の事、経済的なこと、人間関係などで色々思い悩んでた。

森田公一とトップギャランの「青春時代」の歌詞にこうある。

 

♪青春時代が夢なんて

後からほのぼの思うもの

青春時代の真ん中は

道に迷っているばかり

(胸にとげ刺すことばかり)♪

 

あぁその通りだなと思う。

だって思い悩んだ末、自ら命を絶つ若者さえいるんだから。

大人からすると「もったいない!」と思うけど、本人にとっては目の前の悩みや苦しみが大きすぎてそういう風にはとても思えないのだろう。

 

歳を取って若い頃を振り返り「あの頃に戻りたい」と思うことは当たり前に抱く感情だろうと思う。

私も若い頃を懐かしくは思う。

私が今あの若い顔、若い身体を取り戻せたら…

とは確かに思う。

しかし、「あの頃に戻りたい」とは決して思わない。

あの頃は確かに若い顔に若い肉体。

しかしその代わり今思えば恥ずかしいほど「未熟」な自分がいた。

 

その未熟さ故、色んな悩み、苦しみに囚われていた。

その未熟さ故、色んな人に嫌な思いをさせ、迷惑をかけた。

そんな自分には戻りたくない。

 

歳を取ったらいいことは一つもない。

 

そうだろうか?

歳を取ったらいいこともあるんじゃないかな?

 

「いい年の取り方をしている」という表現をすることがある。

それって、ただ「若く見られる」と言うことだけじゃないと思うのだ。

歳を取れば精神は鍛えられ成熟する。

少しの事で動揺する事がなくなる。

私も若い頃はよく怒っていた。

しかし、今は滅多に怒ることはない。

怒る感情を無くしたわけではなく、怒る状況になってもそれを抑えようとする心が働くという感じかな?

いい年をして幼稚な振る舞いや、言動をする人は凄くみっともなく見える。

歳を取り、肉体や容姿が衰える代わりに精神は成熟するべきで、そうなってない人は軽蔑される。

「いい年の取り方をする」とは私が考えるに、年齢よりも精神の成熟が勝っている人の事を言うのではないだろうか?

 

多くの同級生は今年定年を迎え、すぐに退職はせずとも大きな環境の変化を余儀なくされる。

私のような自営業は当然定年はない。

身体が動く限りいつまででも仕事が出来る。

それがいい事なのかどうなのかは別にして、私は自分の仕事が全く苦ではないので他人に引き際を決められるより、自分が納得するまで仕事を続けられると言うことはありがたい。

「もう早く辞めたいわ~」

と言う人もいるが、私はできる事なら長く仕事を続けたい。

高校を卒業してもう42年、この仕事一筋でやってきた。

そして独立してJinkhairを設立してもう19年。

来年には20周年を迎える。

お客さんは小さなお子さんからお年寄りまで。

開店当時、中学生、高校生だった男の子が今では子供を連れてきてくれる。

「生まれてからここでしか髪を切ったことがないんやないかなぁ~」と言いながらずっと来てくれる若い男の子。

「社長(私)がおる限り俺はここに来るから」と言ってくれるお客様。

もう60歳のおじさんなのに今でも中学生や高校生の男の子がやってきてくれる。

私の技術がまだまだ求められているんだと思うと嬉しい。

話は勿論合わない(笑)

それは若い女性スタッフに任せている(笑)

 

私の技術自体はまだまだ衰えていないと思う。

衰えないばかりか、最近では「フェードカット」などの新しいカット技術も取り入れ、新規のお客様も増えている。

そんな難しいカットをうまくできたときは楽しいし嬉しい。

色々あったが、やっぱりこの仕事を選んで良かったと思う。

高校3年生の時の選択は間違っていなかったんだ!

 

もっと儲かれば言う事ないんだけど(笑)

 

私は60歳を過ぎてもまだまだ社会において、この店を通じてできる事、やるべきことがまだある。

そう思うと、気力と勇気が湧いてくる。

 

まだまだ老け込むわけにはいかない。

「楽をしたい」などとは決して言うまい。

 

オレはまだまだやれる!

 

と、いう訳ですので、これをご覧のお客様、これからもよろしくお願いいたします!(笑)

昨年9月「一人SSTR」と称して石川県の「千里浜なぎさドライブウェイ」までバイクでツーリングする計画を立てたものの気力の低下で結果的に4輪で行った私。

そんな根性なしではいかん!と今年は密かに「SSTR」本番にチャレンジするつもりであった。

 

今年のSSTRは5月24日(土)から6月1日(日)までの9日間(最終日はイベントのみで出走はなし)。

自分の都合に合わせて出走日を決められる。

やはり金曜日、土曜日に出走を希望する方が多いのでその日は定員があって早いもん勝ちらしい。

 

だから皆さんエントリー受付の2月23日の午前6時37分をまるで人気アーティストのライブのチケット発売日のように緊張感をもって迎えるのだ。

私の場合毎週火曜日水曜日が定休日だから5月27日火曜日一択である。

5月26日(月)から5月29日(木)までの平日4日間は「オープン制」と言って日にちを限定して申し込む必要はない。

皆さんのブログやYouTubeを見ていると朝、エントリー受付が始まると同時にエントリーサイトで申し込まれているようだが、私の場合「平日だから大丈夫だろう」と高をくくっていた。

 

 

当日エントリー操作する前にエントリーシートの下書きをしておいた方がいいとのこと、エントリー時必要事項の書き込みに時間を取られていたら先を越されてしまうからだろう。

私の場合一分一秒を争うわけではないが、一応下書きをしておく。

 

 
 
 
 
もちろん出走のエントリーも大事なのだが、当日千里浜に着いてからの宿泊地を確保していないと困るのでじゃらんで近い所にある宿泊施設を予約しておいた。
準備万端!
さぁいよいよエントリー開始の2月23日がやって来た!
しかし私は全く忘れていて、気が付いたのは仕事が終わった18時ごろ。
「まぁ、平日だし大丈夫でしょ♪」
 
 
あらかじめ下書きしておいたので必要事項の記入はなくサクサク進む。
 
出走時の日にちを指定しない「オープン制」の「ソロ」を選択して…と。
 
ん?
受付終了 (゚Д゚)ハァ?
 
どうゆうこと?
受付終了?
もう?
平日なのに?
 
うそでしょ?
いや!何度やっても結果は変わらない!
 
 
試しに他の曜日でやってみる。
 
 
参加の集中が予想される曜日を見たらこちらはまだ受付中になっている。
えっ?なんで?
 
こっちは「キャンセル待ち」みたいな状態か?
 
一体これはどうしたものか?
 
各曜日の定員はどうなってるの?
説明を詳しく読む。
 
アァッ!
エントリーが集中する土曜日の定員3700台に対してオープン制の26日から29日までは4日間で1600台、と言うことは一日当たりわずか400台!
なんという台数の差!
こりゃ、埋まるはずだよ!
これは平日組を差別しすぎじゃないのか?
実際土日はまだ余裕があるのに平日のオープン制は早々に終了している。
しかし、今更気付いても遅い…。
平日のオープン制こそ、朝からスタンバっておかなくてはならなかったんだ!
 
ですので、タイトルの続きは「SSTRエントリーできま~~~~せんでした~!」です(笑)
 
 
SSTRに参加されるライダーの皆さん、どうぞ運転には気を付けて楽しんできてくださいね!
私はまた来年チャレンジいたします!

 ヘッドライトと補助灯が点かなくなったGN125h。

配線の確認やバルブ交換など、素人がやれることはやったが万策が尽き、途方にくれる私だったが…。

そんな時、私が気付いた悪夢のような可能性とは…

 

これだ!

 
これはハンドル右部にあるスイッチ。

 

 

今のバイクはキーオンすれば自動的にヘッドライトが全灯になり、消すことはできない。しかしGN125hは古い設計のバイクなのでヘッドライトを消したりスモールにしたりできるスイッチがあるのである。
そのスイッチがスモールの位置になっているではないか!

 

試しに全灯の位置にしてみると…。

ピカ~ッ!

 

無事ヘッドライトもトンネル殺しも点灯!

 

ばんざ~い!

 

って、なんで今まで気づかなかったの~!

バラして調べたり、バルブ変えても点かないはずだよ、これじゃあ!

あぁ~、たったこれだけの事だったのに気が付かず四苦八苦してたなんて!

息子もこのスイッチの事は覚えてなくて、なんかの拍子に触って位置が変わったんだろう。

あぁ「愚か」ってこういうことを言うのね(笑)

 

あ~、でも点いてよかったよ。

バイク屋の世話にならずに済んだ。

剥き出しにした配線をまたテープで巻いて保護する。

 

前回の記事のコメント欄で原因の予想をしてくださった方、正解でしたか?(笑)

 

そうだ!タンクを外したんだったらこの機会にまた赤のGNに戻そう!

前にガソリンが漏れた赤いタンクの前に使ってた赤いタンクがもう1個あり、デカールの剥がれた左サイドカバーもメルカリで中古で入手済みなのだ。

ヤンキーみたいなシールを貼っているのは元々の注意書きのシールを剥がしたらそこだけ凹んでしまったから(笑)
 
黒のタンクからガソリンを抜き、一旦ガソリン携行缶に移す。
そして赤タンクにガソリンコックを取り付けバイク本体に取り付ける。
サイドカバーははめ込むだけ。
シートを戻すのに少々手間取る。
何度もやっている内にネジ穴がダメになったらしい。

 

 タップを切って何とかねじ込む。

 

こうしてまた「赤のGN125h」が復活した。

 

これでもう何も心配ない筈、と思ったら今度はタンクキャップの隙間からガソリンが漏れるとの報告!

再び「世界衝撃映像100連発」の危機か?

このタンクキャップは元々のこのタンクに付いていたモノではなく漏れた赤タンクのモノを流用したものだし、そもそも精度が悪いからな~。

取り敢えず融着テープをパッキンのところに巻いてかさ増ししてやった。

 

キャップが少々閉まりにくくなったがそのうち馴染むだろうけど、こんな場合どうしたら良いですか?

 

 
さて、話は変わって今日は免許センターに免許の更新に来た。

大型2輪の免許を取った際、免許が新しくなったからそこから5年行けると勝手に思ってたけどそうじゃなかったのね。

 

でもそのお陰でこのステロイドでブクブクに膨らんだ顔の免許証とおさらば出来て嬉しい(笑)

ひ、ひどい!(笑)当時ステロイド治療を行っていたせいで発症したムーンフェイス。

 

 

だいぶスッキリしたが、その代わり老けたな(笑)

 

さぁ!今度はどんな難題を持ちかけてくれるのかGN君!(笑)

 

ついでだが、店のオーディオが壊れた(笑)

 

                          おわり

切れたクラッチワイヤーを紆余曲折ありながら何とか交換を完了し、ホッと一息のはずが今度は「ヘッドライトと補助灯が点かない」との報告に「一難去ってまた一難」のことわざを思い出す素人メカニック(去ってない一難もあり)(笑)

 見てみると、確かにポジションランプは点いているものの肝心のメインのLEDが点灯していない。

そして後付けの補助灯(トンネル殺し)も消えたままだ。

息子はこの状態で夜に帰って来て「ライトがメッチャ暗い」とこぼしていたがそりゃそうだ(笑)

 

さて、これは一体どうしたものか?

まず疑ったのは「配線の断線」だ。

実はこのGNの配線はこの素人の私自身がかなり弄っているのだ。

前に記事にもしたのだが、ハンドル左のスイッチボックスを交換した際にも配線を加工しているし、トンネル殺しを付けたときにはキーオンで点灯するようにヘッドライトの配線に「割り込ませている」のだ。

~「バッ直」解決!~⑨「GNカスタム日誌」 | Jinkhairのバイカーへの道

 

正直、小学校の理科で習った「直列、並列」程度の知識しかない私にとってこんな配線図を見てもチンプンカンプンなのだが、その時は何とか接続に成功したものの、もう2年半も前の事なのでどこをどうやったのか正直あまり覚えていない。

 

とりあえずシートとタンクを外して丸裸にする。
 

バッテリー周りは純正ハーネス、後付けのライトのハーネス、グリップヒーターの配線などでグチャグチャ!一体これどうなってんの?(笑)
 

この辺が一番疑わしい部分、当時は(今もだがw)電工ペンチの使いかたがよくわからないためカシメが不完全で断線のリスクを指摘されていたからだ。
 
自己融着テープでぐるぐる巻きにしていたためそれを取り除くのに一苦労。
しかし見たところ配線が切れたりギボシ端子が外れているような箇所は見当たらない。
もし、コードの中で断線していればこれは全くお手上げ状態になる。
こういう時プロはテスターなんかを使って通電しているかどうか調べるんだろうけど、テスターは持っていても使いかたが分かんない。これぞ「宝の持ち腐れ」(笑)
 

ヘッドライトも外して中を見るも異常は見当たらない、というかチンプンカンプン(笑)
 
あと残されたのはヘッドライトのLEDバルブの交換くらいか…
もしそれが原因でヘッドライトが消え、その配線に割り込ませているトンネル殺しも同じように点かなくなったと考えられなくはないか?
 

約3年前純正の暗い電球からLEDバルブに換えたのと全く同じものをアマゾンで購入2000円ちょっと。
 

こんなの。
 
交換して…と
 
頼むぞ!点いてくれ~!
 
なむさん!

あぁ~!ダメだった~!
バルブが原因ではなかった~!
 
もうおしまいだ!
素人の私にはもうこれ以上出来ることはない!
しかし、こんな状態のバイクをバイク屋に持って行っても嫌がられるだろうなぁ~。
 
買ったままのノーマルの状態なら何も問題なかろうが、こんな素人がいじくりまくった配線なんか見たくもないだろう。
散髪屋に例えると、家でムチャクチャに切った子供の頭を「直してくれ」と連れて来るようなモノだ。
モチロン私は全力で修正する努力はしますよ(笑)
ただその時に変に注文つけられたらムッとするかも知れん。
以前メタメタに切ってもうボウズにするしか手がないような子供を連れてきたヤンママさん。
こんな感じで全体がガタガタ(笑) ~画像お借りしました~
 
こんな状態なのに「梳いてなるべく長めで直してくれ」と言われたときは「当店の技術では難しいですね~、他の上手なお店なら可能かも知れませんのでそちらに行かれることをお勧めいたします~」と丁重にお断りさせて頂いた(笑)
 
万策が付き、もうバイク屋に頼むしかなくなった。
どうやって説明して頼んだらいいんだろう…。
とにかく低姿勢でお願いするしかなさそう…。
 
と、途方に暮れる素人メカニックだったが、ある瞬間、フトある悪夢のような可能性に気付いたのだった!
 
まさか…
まさか…
あれが原因だったのか?
 
もしそうだとしたら…
 
あぁ…
 
                   引っ張ります(笑)
 
  わかった方もバラさないでくださいね~(笑)

さてクラッチワイヤーの交換に取り掛かった素人メカニック。

果たしてどうなることやら…。

まずは切れたワイヤーを抜き取らないといけない。

ワイヤーを止めている金具を外しワイヤーを抜き取る。

 

さて新しいワイヤーだが、ハンドル側、エンジン側、どっちから取り付けるのか?

 

まぁどっちからでもいいだろうとハンドル側から付ける事に。

新しいワイヤーの「タイコ」にグリスを塗り、クラッチレバーの裏の穴にねじ込もうとするのだが全然入らない。

おかしいな?と思って下から覗き込むと、切れたワイヤーのタイコがめり込んだままになっているではないか!

精密ドライバーの先で何とかほじくり出そうとするのだが、キッチリはまり込んでいて全然出てこない。

これをどうやって抜こう?

両面テープかなんかで引っ付けて抜くか?

裏からレバーの穴を見たところ。
 
しばらく弄っていると切れたワイヤーの端が出て来たのでそれをペンチで摘まんで…

やっと抜けた…。
 

なるべく最短距離でワイヤーを這わせて…と。
 
こっちがエンジン側、まだ切れたワイヤーが着いた状態。
見えにくいが矢印の所に割ピンが入っていてこれを引き抜けば外れる。
 

割ピンを抜いて…。
 

外れた。
 

この調整位置を記録しておいた方が良さそうなので写真に撮っておく。
 

新しいワイヤーをねじ込んでゆく。

 
あれ?届かない?
どうやってもさっき切れたワイヤーが収まっていた所まで新しいワイヤーの先が届かないのだ!
色々調整したり、ワイヤーが通っていた所を見直すがダメ!
ハンドル側からじゃなくてこっち(エンジン側)から付けるのが正解だったか?
仕方がない、一旦クラッチレバーに収まっていたタイコを外し、やり直すことに。
 

まずこのレバーにワイヤーの先を取り付ける。割ピンを通した後左右に曲げるのが大変だった。
 
さて、ハンドル側、これでもう大丈夫だろう…
 
否!
 
また届かない!
どうして?
どうやってもタイコがレバーの穴まで届かない!
 
さては規定より短いワイヤーを掴まされたか?
ちゃんとGN125h用のワイヤーを買ったはずだが、怪しい中国製だからな!それもありうるかも知れない
 
仕方ない、一旦外して切れたワイヤーと長さを比べてみよう。
苦労して割ピン曲げたんだけどなぁ~。
ワイヤーが短いんじゃ仕方ない。
 
外したワイヤーを切れたワイヤーと並べて長さを比較してみる。
 
ほうら!こうしたら一目瞭然!
新しい方が短い……。
 
全くおんなじ長さじゃん!
 
エ~ッ!
じゃあ、なんで届かんかったん?
やり方がマズいんか?
 
最短距離取りまわしてるはずだし、やり方が間違ってるとは思えんのやけどなぁ~。
 
仕方ない、もう一度チャレンジや!

 

今回はまたハンドル側からスタート!

レバーにタイコを嵌めて…と。

 

ここら辺から息子参戦!(笑)

いっちゃんややこしい割ピン曲げを担当させる鬼父(笑)
 
と…あれ?
今度は何故か届くやん!
 
なんで?
なんでかわからんけど、まぁ届いたからいいか(笑)
 

ハンドル側もうまく出来た!
 
 
まぁ色々あったけど無事作業は終わった…。
中国ワイヤー君、疑ってすまなかった(笑)
980円で無事直りました!
Jokerさんに教えてもらったようにもう一本スペアを買っとくかな?
 
これでGN君の修理は完了!
 
と思っていたのだったが…
 
「父さん、今度はヘッドライトがつかんのやけど…」
 
えっ!また?
ポジションランプは点灯するのだがメインのLED球が点灯していない。
 
ヘッドライトが一見点いているように見えるが実際はポジションランプのみ。
 
そして後付けした補助灯(トンネル殺し)も消えたままだ。
これはどうした事だろう?
このままでは夜は絶対走れないし、そもそもヘッドライトが消えていれば昼でも違反になってしまう。
 
 
「一難去ってまた一難」
さて、素人メカニックはこの難題を解決することはできるのか?
 
                    つづく

現在、我が家また我が店では「多発性不具合症候群」が発生し、様々な機械ものが故障、不具合を起こす事案が続発している。

 

まずは先月、自宅の給湯器が故障し風呂に入れなくなった。

その際はお客様で店のプロパンガスでもお世話になっている方にお願いしてとりあえず仮の給湯器を設置していただき急場をしのぎ、その後新しい給湯器を設置してもらったのだが、都市ガスからプロパンに換えたため、ガスコンロも交換せざるを得なくなりパロマの新品に交換、そしてついでにレンジフード(換気扇)も交換…

 

約20年ぶりに買い替えたコンロ、機能も凄く進化している。

 

こういう形のレンジフードに憧れていたんよね。なんといってもフィルターレスなのでフィルターを磁石とかで張り付ける必要がなく定期的に中の油の溜まった所を掃除するだけでよいのが凄く助かる。

 

高くついたが、これらも耐用年数を過ぎ、不具合もあったのでタイミングとしては良かった。
 

次に自宅のガレージの電動シャッターがある休日突然開かなくなった。

人間は別の出入り口から出入りできるが、車やバイク、自転車が出られない。私の車はバイクを置くため別の駐車場に停めていたので大丈夫だったが妻は昼まで出られなかった。

朝、三和シャッターに連絡するも出張は午後1時ごろになるという。

年配の作業員があちこち弄っているうち動いたが、原因はわからない、何らかのエラーが起きてセンサーが誤作動したのだろうと。

本格的に修理しようにももうだいぶ古い機種のため部品がなくモーターやセンサーなどをそっくり交換せねばならないから費用は40万以上になるとのことだった。






とりあえず動くようになったので今は様子見、もしまた再発するようだったら本格修理せねばならない。出張費19800円。

 

 

次は店の椅子、開業してもう18年、やはり色々不具合が出てきた。

使えないことはないが椅子のメーカーに相談すると高知に納品するついでに見に来てくれるという。

そして帰ってきた答えはお決まりの「もう部品がないので本格的な修理はできない」というもの。

調整だけしてもらって何とか普通に使えるようになった。

これは料金は請求されなかった。

 

次は店の洗濯機、これはまだ購入して4年ほどなのだが最近不具合が出るようになった。

洗濯はできるのだがその後エラー表示が出てピーピーピーピー!とうるさく、いちいちコンセントを抜かないと鳴りやまない。
 
もし洗濯機が壊れたら我々の業種では死活問題だ(笑)
どうも基盤の故障らしく東芝のサービスを呼んで修理してもらう。

部品代、出張費合わせて24000円也。

 

そしてやっとバイクの話になるのだが、やはりトラブル続きの問題児GN125H君である。

前回はタンクからガソリンが漏れ、あわや「衝撃映像100連発」級の大惨事になるところだった(笑)

漏れたガソリンがデカールを伝いデロデロに剥がれている。

 

タンク上部の溶接部分から漏れたようだ。

 

GNは高専に通う息子に貸しているのだが帰りに自宅のすぐ近くまで来たところで車に驚いてクラッチを離したところ本人曰く「クラッチがスカスカになった!」と言うではないか。

見てみるとやはりクラッチワイヤーが切れている。

 

無残にも切れたワイヤー。

 

この部分は前にクラッチレバーを折った時や、交換した際にも色々負担をかけているし、切れても仕方がないか。

さてどうしよう。

聞くと息子は明日から学校が休みで三日間ほど旅行に行くと言ってるから、そう慌てて直す必要もない。

じゃあバイク屋に取りに来てもらうより自分でやった方が安上がりだなと、Amazonで互換のクラッチワイヤーを購入。

 

2日で届いた。980円(笑)
 

なんか怪しげな漢字やな~(笑)

 

その夜に早速作業に入るものの、そこは素人メカニック、すんなりいく筈もなくとんだドタバタ続きの作業になる(笑)

                         つづく

2015年に公開された映画「海難1890」は日本とトルコの合作と言う形で日本人の映画監督田中光敏によって撮られた史実を基にした作品である。

 

前回のブログタイトル「日本人が知らない奇跡の実話」と言うのはこの映画のキャッチコピーでもあったのだが、この映画が完成に漕ぎつけるまでの話がそもそも「奇跡」なのである。

 

きっかけは当時の串本の田嶋正勝町長が2001年に偶然100年以上も前の「エルトゥールル号」に関する資料を発見したことから始まった。

その資料とは当時の村医による生存者50数名の診断書、そしてトルコと交わした手紙だった。

それによるとトルコ側から「エルトゥールル号の乗組員の治療にかかった治療費を払いたい」との申し出に対し「遭難者を一人でも救いたいとの思いだったので治療費を払っていただく必要はない、その分は遺族や生存者に使ってほしい」との返答であった。

この話にいたく感動した田嶋町長は2005年、大阪芸術大学の同級生だった映画監督田中光敏「我が町にはこんな美しい話、素晴らしい先祖がいた、これをなんとか映画化できないか」と熱い手紙を送った。

後に田嶋町長、和歌山県知事との面談で「この話が映画化できる確率はどのくらいか?」と聞かれた田中は「1パーセントもない」と答えたという。

確かにどんないい話でも「映画化」出来るか、と言うと話は変わってくる。

映画化には巨額の製作費が必要で、いったいどこがその製作費を出してくれるのか?そして観客は集まるのか?

それにこの題材で映画化するとなったらトルコの協力は不可欠だ。

ビジネスとして成り立たなければ映画化など夢のまた夢である。

しかし田中と田嶋は諦めなかった。

各所にお願い、説得を続けたところ、一人また一人と賛同者が増えていったのだ。

 

田中はトルコに実に10回以上渡り、関係各所を回り、お願いと交渉を続けた。

当時のトルコの法律では合作映画の監督はトルコ人が務めなければならないという決まりがあったが、トルコ文化観光大臣エルトゥールル・ギュナイが「君がラッキーなのは私の名前が“エルトゥールル・ギュナイ”ということだ」と述べ協力を約束し、法律が改正され田中が監督を務めることが出来るようになった。

またトルコ文化観光省が後援に名乗りを挙げることになり、トルコ側の供出する製作費も当初予定の20万ドルから700万ドルに増額された

更に日本国外務省が後援に入り、内閣総理大臣安倍晋三トルコ首相エルドアン(後に大統領に就任)との間で合作について議論され、「海難1890を成功させる会」の最高顧問に安倍が就任することも発表された。

そして最終的に1,500万ドル以上の製作費をかけて製作することになったのだ。

映画製作に取り掛かった時には実現できるかどうかすら危ぶまれ、単館上映のマイナー映画にでも出来たら…といっていた話が、国家レベルまでの事業に発展し、壮大なテーマの元、俳優を含めたスタッフ、チームが結成され日本とトルコでの大掛かりな撮影がスタートしたのだ。

 

 しかし製作がすべて順風満帆だった訳ではない。

映画制作に取りかかった6年後、東日本大震災が発生、原発事故も起こり、東北を中心に日本は近年経験したことない深刻な状況に陥ってしまう。

映画監督田中光敏は日本がこんな大変な時期に今、この事業を継続すべきなのかと思い悩んだと言う。

そんな時ある大臣経験者に相談した際、こんな話を聞かされたと言う。

東日本大震災が発生した際、世界中から救援隊が来てくれたのだが、原発事故を受けて殆どの国が帰ってしまったんだと。

でも帰らなかった国が2つだけある。

その国とは、一つはアメリカ。

そしてもう一か国は?

そう…

トルコだったのだ!

 

元大臣は「エルトゥールル号遭難事件もテヘラン日本人救出劇の事もあった、しかしそれだけじゃない、今もずっと日本とトルコの友情は続いている、あなたのやっている事は素晴らしい事なのだから頑張りなさい!」と田中を励ましたのだという。

 

それを聞いて田中はこの史実を未だ知らない日本人、特に若い人にも知ってもらい、日本とトルコとの友情をこれからも繋いでいくであろう作品を作ることはとても意義のある事なのだと確信したという。

 

そうして10年の月日を要して完成した映画「海難1890」

これは是非皆さんに見ていただきたい素晴らしい映画だと断言できる。

史実をテーマとしているのでなるべく史実に忠実に作られてはいるが、ノンフィクションのドキュメンタリー映画ではないため「映画」「物語」にするために架空の人物、または演出はある。

串本編の医師「田村(内野聖陽)」、助手の「ハル(忽那汐里)」

トルコ軍人「ムスタファ(ケナン・エジェ)」、水夫「ベキル(アリジャン・ユジェソイ)」

テヘラン編の日本人学校の教師「晴海(ハル役の忽那汐里の一人二役)」、トルコ大使館の職員「ムラト(ムスタファ役のケナン・エジェの一人二役)」

しかし、彼らに相当する人物が実際にいた事は間違いない。

そして実際にはもっと、もっとすごい物語、ドラマがあったに違いないのだ。

映画は決してハリウッド映画に負けない出来になっている。

エルトゥールル号の遭難シーンは迫力満点、そして村民の救助のシーンも極めてリアルに描かれている。

 

実際の遭難現場に当時の漁村を完全再現。

 

串本での撮影では実際にエルトゥールル号の乗組員の救助に当たった村民の子孫がエキストラとして参加。

 

 

救出の場面は京都で大量の水を使用しての大迫力の壮絶な撮影となった。

 

トルコ航空のCAのうち一人は実際に日本人救出劇の際トルコ航空に登場していたCAの娘なのだ。

 

トルコ在住の日本人約200名もエキストラとして参加し、総勢1000人で挑んだクライマックスシーン。

 

 

「うろたえるな!深手を負ったものが先だ!」と檄を飛ばし、蘇生に躊躇する助手ハルを怒鳴りつける田村医師の凄み。

更に献身的に遭難者に寄り添う村民の行動に本当に心を打たれる。

 

この助手「ハル」演じる「忽那汐里」がいい!

ハルは海でいいなずけを亡くし、それ以来口がきけなくなっている。

なので一切セリフはないのだが、自らが蘇生して助けたムスタファを気遣うその姿は奥ゆかしくも芯の強い健気で美しい日本女性を演じている。

 

そしてテヘラン編、日本人学校の教師「晴海(忽那汐里)」は今度は勇敢に日本人家族の救出に奔走する。

そして偶然トルコ大使館の職員ムラト(ケナン・エジェ)」と出会う。

晴海と日本人家族は空爆におびえながらムラトと空港に向かうが、空港のロビーは帰国できずにいるトルコ人で埋め尽くされ、日本人は飛行機に乗せてくれそうにない。

そこでムラトの感動の演説が始まるのだ!

 

って、あまり書きすぎるとネタバレになってしまう。

と言いながら結構書いてるけど(笑)

 

ラスト…

 

ムラト 「なんだろう? どこかで君に出会ったような気がする、ずっと昔に…」 

晴海  「そうね…私もよ…」

 

 

あぁ…もうあかん!

思い出しただけで涙が出てくる…。

 

この二人を一人二役にしたことによって95年前の串本と現在(テヘラン)の出来事を繋いだのだ、憎い演出である。

この日本とトルコ、2つの国を平等にリスペクトするために色々工夫され演出がなされている、そういう意味でも実に良く出来た映画である。

 

 

是非是非皆さんもこの映画を観ていただきたいと思います。

「Amazonプライム」に入っていれば追加料金なしで全編見られます。

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そしてAmazonプライムに入っていなくてもYouTubeでレンタル視聴できます。高画質版で400円です

 

購入後30日以内視聴できますが、視聴を始めてからは3日間の有効期限になります。

「U-NEXT」「Hulu」「FOD」などの有料サブスクリプションでも観れるようですのでそれらに入っている方は追加料金なしで観れます。

 

是非観て、よろしかったら感想を教えてくださいね!

 

そしてもし機会があったら、この大島の「トルコ記念館」を是非訪れてみてください。

記念館を訪れた者しかわからない映画の中での秘密が分かってニヤリとすること請け合いです(笑)

 

トルコ記念館の後に35年ぶりに立ち寄った「橋杭岩」
エルトゥールル号の生存者たちもこの橋杭岩を見ただろうか?
 
 
 
                  
                             終わり

これからバイクとは全く関係のない長いお話となるが、皆さんはお付き合い下さるだろうか?

 

もし、このお話をご存じないのならこの機会に是非知っていただきたい!

「日本」と遥か9000km離れた遠い異国「トルコ」との深い友情が生まれた奇跡の物語を!

 

そう!私が行きたかったのは大島の東端にある「トルコ記念館」なのだ。

美しい「串本大橋」を渡り東端の「樫野崎」という所にそれはある。

 

駐車場からしばらく歩くと一風変わった建物が見えて来た。

しかしなぜ、こんなところに縁もゆかりもなさそうな「トルコ記念館」があるのか?

 

 

それは今から135年前、明治23年にこの地で起こった~悲劇のトルコ軍艦「エルトゥールル号」~の遭難事故がきっかけとなったのだ。

 

時は1890年、かつてはヨーロッパ、アジア、アフリカに跨る広大な領地を有し栄華を極めた「オスマントルコ帝国」。

しかしこの頃はその領土を西洋列強に次々と奪われ「瀕死の病人」と揶揄される程国力は衰退していた。

一方、欧米諸国と結んだ不平等条約に苦しんでいた日本も同様な背景を持つトルコとの関係を深めようとしていたのだった。

 

日本の皇族がイスタンブールのトルコ皇室を訪問したことの返礼として当時のトルコ皇帝は日本に友好使節団を派遣することを決定した。

それが「エルトゥールル号」だったのである。

しかしその航海は最初から不安視されていた、それはエルトゥールル号が古い木造の船だったからである。

 

実際トルコから日本に来るまでに何度か船はトラブルに見舞われ大掛かりな修理を強いられるなどの足止めを食いながらなんとか日本に到着できた。

日本に到着した使節団長オスマン・パシャ一行は熱狂的ともいえる大歓迎を受ける。

明治天皇と面会しトルコ皇帝からの親書、オスマン帝国最高勲章を献上、これに対し明治天皇も一行に勲章を授与、晩餐会を開催、また博覧会に招待されたりと約3か月間一行は日本に滞在した。

 

無事、その使命を果たしたエルトゥールル号一行だったが悲劇はその帰路に起こる。

 

1980年9月15日、この時期は台風が多く発生するから危険だとの日本側の忠告に耳を貸さずエルトゥールル号はイスタンブールに向けて出港した。

背景には船員の中にコレラが発症したとの説がある。

そしてその不安は的中し、翌9月16日エルトゥールル号は和歌山県の熊野灘付近で台風に捕まってしまう。

山のような高い波に飲まれてエルトゥールル号は航行不能になり、未明ついに大島の樫野崎沖の「船甲羅」と呼ばれる数多くの船を難破させてきた岩礁に激突、船は真っ二つに折れ、乗組員656名は荒れ狂う夜の海に投げ出されてしまったのだ。

乗組員656名中587名の命が奪われ、生存者わずか69名と言う日本近海の海難史上未曽有の大惨事であった。

わずかな生存者は樫野崎灯台を目指し助けを求めたという。

 

 

この海域を航行する船に怖れられていたという「船甲羅」、現在も当時と全く変わらないその姿を見せている。

 

当時小さな漁村だった大島村の人々の驚き、混乱はいかばかりだったろうか、今のような情報や通信手段もなく医療設備もない状況に数百人もの言葉の通じない異人の遭難者。

しかし彼らは命がけで遭難者を救助、手当をし、衣類や布団を持ち寄り、ただでさえ台風で漁ができず食料が困窮していた中。各戸に蓄えていた芋や飼っていた鶏などの食料一切を遭難者に提供したと言われる。

生存者の救護と同時に行方不明者、遺品の捜索も行われ、発見された239体の遺体は樫野崎の丘に埋葬された。

 

その後、国もこの事態を重く見て軍艦「比叡」「金剛」を生存者を本国に送り届けるためイスタンブールに派遣、更に全国から今の価値として約一億円弱の義援金が寄せられ遺族へ届けられた。

 

こうした異国の遭難者に対する日本人の深い思いやりはトルコの人々に深い感銘を与え、今日まで続く日本への親愛の念を根付かせたのである。

 

 

話はここで終わらない。

 

 

時は流れて1985年、「エルトゥールル号」の遭難事故から実に95年。「イラン・イラク戦争」が激化、イラクによる空爆によりイランの首都テヘランは非常に危険な状況にあった。

更にイラクの独裁者サダム・フセイン「イラクの上空を飛ぶ航空機は軍用、民間機を問わずすべて撃墜する」と宣言した。

各国はイランに在住する自国民を帰国させるため救援機をテヘランに派遣したが、日本政府は安全が保障されないとして尻込みしてしまう、自衛隊も当時の法律で国外での活動が制限されていたため国会の承認なくては動けない。

 

結果、テヘランに残された250名以上の日本人だけが取り残され、命の危険にさらされてしまうという最悪の状況になろうとしていた。

 

その時立ち上がったのが「トルコ」だった。

 

当時のトルコ首相トルグト・オザルは自国民がまだ多くテヘランに取り残される中、救援機に日本人を優先的に乗せると英断、そのトルコ救援機のおかげで日本人は無事全員帰国することができたのだ。

フセインの無差別攻撃開始のわずか1時間半前だった。

 

当時の様子を報じる朝日新聞。
 

 

「KUSHIMOTO号」と名付けられたトルコの救援機。

 

その救援機につけられた名前は「KUSHIMOTO(串本)号」

戦火の中危険を承知で日本人のために救援機を派遣したトルコは串本での「エルトゥールル号遭難事故」の恩義を忘れてはいなかったのだ!

 

両国の友情はこれで終わらず、災害が発生するたびにお互いを支援し合うようになった。
 

当時のトルコ軍人

 
 
後に引き上げられた遺品
 

記念館より少し離れたところにたたずむ、慰霊碑。
239名の遺体は正にこの付近に埋葬されたと伝えられている。
最初の慰霊碑建立は明治24年、今の慰霊碑は昭和12年に除幕の日を迎えた。
 

更に東に歩くとエルトゥールル号の生存者が真っ先に助けを求め目指したといわれる「樫野崎灯台」がある。
 

灯台から見下ろした太平洋は135年前「エルトゥールル号」が遭難したあの嵐の夜を全く想像できないほど穏やかだった。

 

日本とトルコとの友情がこれからもずっと続くことを願ってやまない。
 
 

次の回では前回のブログで予告編だけ紹介した映画「海難1890」について詳しく紹介する。

この映画は今から10年前、日本とトルコの合作という形で日本人の監督のより、これらの史実に元づいて撮られた非常に素晴らしい作品となっている。

 

 

もう一度予告を貼っておくので是非ご覧いただきたい。

 

 

                    つづく

ツーリング2日目、バッテリー上がりのトラブルはあったもののJAFのおかげでタイムロスは最小限に抑えられた。

さぁ!気を取り直して串本に向かおう!

 

途中、景色の良い所は沢山あるのだが、なかなかいい撮影スポットが見つからず、撮れたのはここだけ。

 

そして串本町にイン!

何か食べようとここ「串本海中公園」に。
ここは確か35年前にもあった、入ってはないが。
 
「海中展望塔」という海の中を観察できる施設があったり、水族館もある。ご家族連れには良さそうだがオッサン一人ではな…。
 
むう!どれも高い!通常の5割増し、観光地価格か?
 
 

「唐揚げ定食」1100円なり~(笑)

 

 

「串本町」は和歌山県の最南端に位置し、本州最南端として有名な「潮岬」や奇岩「橋杭岩」などの観光地があり、多くの観光客を集めている。

前にも書いたが、実は35年前の大阪時代、ここ串本を訪れていて、その潮岬も橋杭岩も見ているのだ。

だけど、それらを再び訪れたいという感情はそれほどない。

しかし、ここ串本には35年前の当時、下調べで知ったものの行くことのできなかった場所がある。

 

その場所とは「紀伊大島」(以下大島)

「大島」は潮岬のある半島の東に位置する面積9.68㎞の島、香川県で例えると「本島」より少し大きく「広島」より少し小さい島である。

串本町と紀伊大島

 

この大島は位置的な事もあり、釣りやダイビング、また海鮮グルメ等を求めて訪れる県外客もいるが、特別有名な観光地があるわけではない。

そんな「大島」に何故私が行きたいと願っていたか?

感の良い人はここまで読んでピ~ン!と来たかも知れない。

 

35年前に串本に来た時は本土と大島には橋はまだかかってなく、フェリーで往来するしかなかったのだが、平成9年に「串本大橋」が完成し、本土と大島は陸続きになり島民の生活は大いに改善したという。

ループ橋とアーチ橋とで構成される美しい「串本大橋」

 

大島に行きたいところだがまずは「潮岬」へ。

 

潮岬灯台はスルーして本州最南端の碑がある広場へ。

結構な人が来ている。

中には外国人観光客の姿も。

今回紀伊半島ツーリングに当たって改めて京都や奈良、東京、大阪などの有名観光地だけではなく日本の津津浦浦まで外国人観光客が来ているんだなと感心?した(笑)

 

お約束の本州最南端の碑
 

展望台から、真っすぐの水平線が清々しい!
 
これもお約束~(笑)
 

展望台から再び、ん?、真ん中左側の岩の上に人がいるような…!
 
ズーム!
 

うわぁ!あんなところで釣りをしてる!
 
どうやってあんなところまで行ったんだろう?
海はそれほど荒れてないけど、落ちたら命の危険もあるのに怖くないのかな~?

 

全く「趣味」ってやつは凄いよな。

人をそんなにも駆り立てるんだもの。

私から見ればあんなところまで行って釣りをするなんて狂気の沙汰としか思えないが、彼らからするとなんてことのない事かもしれない。

この私だって真冬の正月にバイクでこんなところまで来るなんて普通の人から見れば「変人」だろうな。

同じように命の危険もあるし、何より「寒い」(笑)

車で来れば何の苦労も無いんだろうけど、それでは意味がないのだ!(キッパリ)

 

さて、お約束の潮岬の後はいよいよ目指す「大島」に向かう。

 

なぜ、私がその「大島」に行きたかったか。

それを説明するにはこれから長い、長い話をせねばなるまい…。

 

話は今から135年前の明治23年。

日本から西に実に9000キロ、はるか遠い国「トルコ」との深い絆が結ばれたある出来事がここ「大島」で起こったことから始まる。

 

まずはこの動画を観て予習?していただけると幸いである(笑)

 

                 つづく

エンジンがかからない!
なぜ?

ツーリング2日目、なんの疑いもなくセルスイッチを入れたものの、いつもとは違う弱弱しい反応を示して停止するエンジン。
信じられぬ思いでもう一度…。
少し時間を置いてもう一度…。
ダメだ!

 

ドンドン反応が弱くなる。
これは典型的なバッテリー上がりの現象だ。
しかしなぜ?
何か機器をつけっぱなしたわけでもない。
まだ新車で買って2年、走行は8000キロちょっと、それに昨日は何百キロも走ってここまで来ている。
バッテリー上がりなんて夢にも思わなかった。
 
しかしどうしよう…
 
JAFには入っているし任意保険のロードサービスもあるが、ここはJAFを呼ぶことにしよう。
 
電話するのかと思ったら今はスマホで全部出来るのね。
 
 
 
 
 

 

位置は説明しなくてもGPSでこちらの位置を知らせることが出来るのね。

ちなみに今は多度津の「富家ラーメン」の前で待ちながら書いているので当時とは違います(笑)

 

しかし今は正月、車等のトラブルも多いだろうし、こんな知らない土地で一体どれだけ待てば来てくれるのだろうか、と思ったらチャットでは30分程で到着すると書いてある。
本当だろうか?
 
チェックアウトしたばかりのホテルに戻り、事情を説明してロビーで待たせてもらう。
程なくJAFの担当者から電話が入り、正確な位置、症状の確認があった。
何だかホッとする。
 
しばらくロビーで待っていると再び担当者から電話があり到着したとの事。急いで駐輪場に向かうとJAFの担当者が白いジムニーで待っていてくれた。
でももし本当に動かなかったらジムニーに乗るのか?(笑)
 
事情を説明するとバッテリー上がりで間違いないだろうと言うことで「ジャンプスターター」と言う機器を使ってエンジン始動を試みる。
しかしこのレブル、バッテリーにアクセスするためにはシート下のBOXをネジを4個外して取り外さないといけない。
プラス、マイナスの端子を繋いでスイッチオン!
「ギュギュ!ブオン!」
おぉ!一発始動!
やっぱりバッテリー上がりだったんだ。
逆にそれ以外だったらどうしようもないところだった。
正月でバイク屋は皆休みだろうし。
 
「なんでバッテリーが上がったんでしょう?」
「そうですね~、昨日まで正常でも急に上がってしまう事もありますしね~。今は色んな電機機器を使っていますから徐々にバッテリーが弱っていた可能性もありますね」
 
確かに昨日は標準装備のグリップヒーター、補助灯(トンネル殺し)、そして充電機能付きのスマホホルダーを使っていたが、あれだけ走って来たのだから十分バッテリーには充電で来ていると思っていた。
それにレブルは平常でも「キュキュキュ!」と軽快なセルの音で始動するわけではなく割と「モッサリ」したかかり方をするのでバッテリーの劣化を予測するのが難しい。
この「モッサリ」したかかり方はもちろん私の個体だけではなくレブル1100共通で噂では「レトロ感を出すためにあえてこの仕様にしている」などとまことしやかな説もあるくらいなのだ。
 
「今電圧を計ってみたところバイクのレギュレーター、充電機能には異常は無いようですので、このまましばらくエンジンを掛けておくか、走れば充電できると思いますよ」
「しかし、もうガソリンが残り少ないんですよね、ガソリンを入れる時にはエンジンを止めないといけないので、また掛からなくなりませんか?もし可能なら近くのスタンドまでついてきてもらえませんか?」
私はそう提案したのだが、本来JAFとしての任務はここでエンジンをかけるまでなんだろう。
担当の40代の担当者のお兄さんはしばらく考えたのち。
「じゃあ、今から5キロほど離れたガソリンスタンドまで先導しますから、ついてきてください。そのくらい走った方が充電できるでしょうから」と提案してくれた。
 
彼の言う通り白のジムニーの後をついてゆく。
しばらく走ったところで一軒のスタンドにウインカーを出して入ってゆくので、あぁここだな、とバイクを停め給油する。
車はエンジンを切らなくても給油できるが(本来は禁止)バイクはエンジンを切りキーでタンクを開けなくては給油できない。(一部キーを刺さなくても給油できる車種もあるらしいが)
 
さて、一旦エンジンを切ってしまったが果たして再始動は出来るのか?
JAFの兄さんの見守る中、エンジン始動!
「ギュギュギュ!ブオン!」
かかった!
難なく再始動に成功!
「いいですね!これなら串本までのツーリングも大丈夫そうですね!」
「わざわざ、ここまで付き合ってくれてありがとうございました!」
 
彼は爽やかな笑顔を残して颯爽とジムニーで去って行った。
またこれからも困ったドライバー達を助けるのだろう。
 
さて、これからどうしようか…
 
今日はエンジンは大丈夫だろう。
しかし予定はあと2泊。
串本で迎えるはずの明日の朝は?
そして明後日の朝は?
今日の朝と同じようにバッテリーが上がってしまう可能性は大いにある。
 
このまま香川に帰ってしまおうか…
 
もちろんその選択肢もある。
しかしせっかくの正月、滅多にないロングツーリングの機会に恵まれてここまで来たんだ!
明日かからなければ、明後日かからなければまた呼べばいいだけじゃないか!
 
よし!
予定通りツーリングを続けよう!
 
串本に向かって再出発だ!
 
                                                    つづく