前途多難な同窓会開催に向けて歩み出した私。
一体何から手を付けたらいいのか?
プチ同窓会に参加した同級生を中心にとにかくその輪を広げてゆくことにした。
当時はラインなどはなく携帯メールが主流の時代、それらや電話で少しずつ賛同者を増やしてゆくしかない。
考えたのは最低1組男子1名、女子1名の役員を決めて、彼らにその組の男女の同級生の勧誘などを担当してもらうこと。
私たちは各組の元学級委員や役員をやってくれそうな方に連絡を取って役員になってもらえるように頼むことから始めたのだが、なかなか色よい返事をもらえない組もあって困惑していた。
ここで坂出高校の当時の私の学年の構成を説明しておこう。
組は1組から9組まであって1組から8組までが「普通科」。9組は「音楽科」と言って音楽を専門に学ぶ科。
1年時は1組から8組までの「普通科」は皆一緒、2年時から選択で「理数系クラス」と「文系クラス」に別れ、1組、2組は「理系」、3組から8組までが「文系」でそれぞれ3年時までクラス替えがある。9組は一クラスなので当然1年から3年までクラス替えはない。
私は文系なので文系の3組から8組までの同級生とは割と交流があった。
しかし1組、2組の「理系クラス」とは交流は低い。
プチ同窓会で集まった同級生は皆「文系クラス」ばかりだった。
なので必然的「理系クラス」の同級生との交流は薄く、役員任命にはてこずる結果となったのだ。
そしてもっと困難だったのは「音楽科」であった。
「音楽科」は先述の通り1年から3年まで他のクラスとの組替えもなく、普段「音楽棟」という別の校舎で音楽の授業を受けているので我々「普通科」の生徒と殆ど交流はない。
「音楽科」はその名の通り音楽を専門に学ぶ「科」であり、普通科の授業やシステムとは全く違っていて、入学時にも筆記試験の他に各々が専門にする声楽やピアノなどの楽器の実技試験があったりする。
卒業生はその後音大などに進み、著名な声楽家や演奏家になられた方も多い。
修学旅行も我々が信州などを巡る旅であったのに対してヨーロッパに演奏旅行に行くなど、同じ坂出高校の同級生であっても別の学校に通っている生徒のような感覚も正直あった。
「音楽科は今回の同窓会からは除外してもいいのではないか?」との声もあったが、それはいくら何でも気の毒だろうと、何とか音楽科の方たちも一緒に同窓会をやろうと当時の学級委員をされていた方を中心に声をかけてみたのだが「仕事が忙しい」との理由で色よい返事は得られなかった。
ある時こういうことがあった。
私は昔から扁桃腺が弱く、赤く腫れだすとすぐに悪化し高熱が出ると言うことを繰り返していた。
大阪時代からずっとそういうことを繰り返していて、当時はいつも行く耳鼻科があったのだがこちら(香川)に帰って来て、さぁどこに行こうか?となった時タウンページを見てよさげな耳鼻科を見つけてそこに通うことにしたのが丸亀の「T内耳鼻科」だったのだ。
そのT内耳鼻科は自宅からは遠く、凄く流行っていて患者は多いものの先生も親切で看護師もテキパキしていて回転が早く、大勢患者が待っていても待ち時間が少なく、点滴を打ってもらえばすぐに良くなることが多くて喉の具合が悪くなりだすと仕事前に良く通っていた。
看護師も多くいて、先生の奥さんらしき女性が受付にいて何度か応対してもらったこともある。
音楽科へのアプローチに難航していたある日、積極的に協力ししてくれている8組役員のT畑さんからこんな情報が寄せられた。
「丸亀の川西のT内耳鼻科の先生の奥さんて、音楽科の同級生のK薙さんなんだよ」
「ええっ!T内耳鼻科の奥さんなら医院で何度も会ったことがある!でも元々音楽科の人とは交流や面識がない上から全く気が付かなかった!」
そうなら一縷の望みを託して彼女に同窓会への協力を頼んでみよう!
そして私はT内耳鼻科に向かった。
いつもいるわけではないが、幸い奥さんは受付にいた。
そして恐る恐る声をかけてみた。
「あのう…つかぬことをお伺いします…僕は坂出高校の卒業生の小比賀と申しまして、こちらの奥様も同級生だとお聞きしたのですが…」
「えぇ、えぇ、その通りです、私はもう何年も前から小比賀さんのことはわかってましたよ!」
「えぇっ?そうなんですか!」
「はい、最初に来られた時からわかってました。小比賀さんは結構目立ってましたからね(笑)でも、小比賀さんは私のこと多分ご存じないと思ったんで声はかけなかったんですよ」
そうだったのか!まさか最初からバレてたなんて(笑)
でもそれなら話は早い、同窓会の事、音楽科の参加者がなかなか集まらない現状の事などを話すと、彼女は連絡先の分かる同級生に声をかけてみると協力を約束してくれた。
そして結果的に音楽科から大勢参加者してくれることになったのだ。
私の傾奇者(かぶきもの)振りも少しは役立ったって事なのか?(笑)
同窓会の実現に向けて(雲を掴むような)と表現したが、実は同窓会に向けて力強いツールが存在したのだ。
それは坂出高校全卒業生の住所録である「松濤会名簿」
実はこれを書いている時点で第二回同窓会は2026年1月3日に大成功のうちに終わっているのだが、このまま続けることにする。
つづく
2年になって私に起こった大きな変化とは…
嘘のような話だが、私は突如として勉強が出来る(分かる)ようになったのだ!お
こんなことを書くと「そんな馬鹿な!」って思われるだろうが、ホントの事なのだ。
一体何が、きっかけだったのかどうしても思い出せない、自分の事なのに…。
何かに刺激を受けたとか、悔しい思いをしたとか何かあればお話になるんだけどね(笑)
とにかく何かのきっかけで勉強をし出したら分かりだしたって言うことなんだろうな、きっと。
事実私は2年の初めの中間テストでいきなり50番という驚異的なステップアップを果たしたのだ!
1年の期末テストが100番台の下の方だったから、一気に100人以上ブチ抜いたことになる。
各教科の点数は数学以外すべて90点以上、最高で96、7点くらいだったか。
しかし苦手の数学だけ50点台で、もし数学も他の教科と同じくらい点数が取れていたらトップ20どころかトップ10入りも狙える点数であった。
これには親も先生も驚いた!
親は「あんたはやればできると思っていた!」と喜んだ。
勉強というのは、わからなければ、できなければ面白くないからやらない、そしてますますわからなくなるが、反対に分かれば面白くなりもっとやる、すると更に分かるようになって面白くなる、という悪循環、好循環が作用する。
「成功体験」というヤツかな?
溜まっていた「学研のマイコーチ」もすべて片付けた。
苦手の数学も頑張ってどうにか少しづつ点数を取れるようになってきた。
そして、その年の模試で私は初めてベスト20に入ったのだ。
それは坂出高校どころか、中、西讃地区内で最もレベルの高いとされる公立の進学校「香川県立丸亀高校」をも射程距離に収められるほどの成績であった。
私は当時、自分自身が何を考えていたかよく覚えてないのだが、坂出高校(以下、坂高)に行きたいからとか、丸亀高校(以下、丸高)に行きたいから勉強していたんじゃなく、それがその時は楽しかったから、やりがいがあったからやってただけだったと思う。
それからの私の人生も結局はその時、その時の感情や欲求、欲望のまま突き進んできたのかも知れないと、今日この頃になって思う。
そんな多感な中学2年生を過ごしたわけだが、おしゃれには全く無頓着だった。
頭なんか一週間に一度程度しか洗わないから掻いたらフケがボロボロ落ちて同級生の女の子に思い切り引かれた(笑)
散髪も近所の散髪屋に親に「もうだいぶ伸びて来たから行っといで!」言われていく程度。
注文など何もない。
待ってる間に「プレイボーイ」などのちょっとエロイ雑誌を見るのが楽しみだった(笑)
1年の時に卓球部に入ったが、そのうち行かなくなった。
そして運命の3年に進級する!
進級した3年5組で私はN村君という同級生と出会う。
彼は言わば、典型的な硬派のツッパリ。
矢沢永吉の大ファンで髪型はリーゼント、バレー部所属で身体も大きくイケメンで女子からもモテた。
そして彼は異様なくらい髪型にこだわりを持っていて、学校に来て少しでもセットが崩れると無断で家に帰ってセットし直してくるという程の徹底ぶりだった。
そんな彼と勉強は出来るが全くオシャレに興味のないチビで不細工な私が何故仲良くなったのかわからない。
彼にとっては私は「子分」みたいな存在だったのかも知れないが。
私はそんなカッコいい彼に思いっきり影響を受けた。
それまで全く興味のなかった自分の髪にこっそり買ってきたコイズミのドライヤーで1時間でも2時間でも飽きずにセットを試みるも、私の髪質ではNちゃんの様なカッコいいリーゼントにはならなかった。
その頃だろうか?
「なんか髪をいじる仕事っておもしろそうだな」と思い始めたのは。
そうやって3年生を過ごした私にいよいよ高校受験の時期がやって来た。
その3年の時に初めて「塾」というものに通った。
その年に発足した「〇ーゼクライス」という東大卒の先生が始めた塾だが、「東大卒」というブランドに母が惹かれて申し込んだと思う。
塾はまだまだ小さくて民家の一室を少し改造して教室にしたような規模で塾での同級生は4、5人くらいだったか?
同じ坂中の同級生はいなくて附属から一人、白峰から一人、飯山から一人くらいだったかな?
今ではこんなに大きな校舎を構えるほどになり、丸亀高もある。
先生の方針で受験に特化した教育方針ではなく、総合的な教養、人間力の育成に力を入れているそうだが、最近ではM本塾やG藤塾の追撃に遭って苦しいか?
特にここに通って凄い成果が出たとは思わないが、髪の毛にうつつを抜かしつつそれ程成績は落ちずに50番くらいを行き来していたのではないだろうか?
周囲は「丸高に挑戦してみたら?」との声もあったが、私にはそんな「欲」は全くなかった。
私の家は坂中と坂高のちょうど真ん中に位置しており、坂高なら1キロもなく徒歩でも10分で通える距離にある。
つまりギリギリまで寝ていられる(笑)
丸高は自転車で通学しても6、7キロはあるし、電車で行くにしても一旦駅まで行かなくてはならない。
そしてもし落ちたら滑り止めのF井高校に行かなければならなくなる。
そんなリスクを負ってまで丸高に挑戦する気はさらさらなかった。
私は全く迷うことなく坂高を受験した。
合格発表の日、私は一人で坂高に見に行った。
今はみんな親と一緒に見に行く生徒が多いみたいだが、当時我が家ではそんな感覚はなかったな。
「ちょっと見てくるわ~」くらいの感覚だった。
事実落ちているなど、欠片も心配していなかった。
今の合格発表は受験番号のみ張り出されたり、インターネットで見れたりと随分様変わりしたが、当時は校舎の壁に氏名が書かれた紙が直接張り出されるというものだった。
当時は新聞にも合格者氏名が掲載され、私の母などはそれを熱心に見ては「あそこの息子、丸高受かっとる!」なんてチェックに余念がなかったものだ(笑)
私は中庭から合格者が張り出されている校舎の壁を見上げた。
するとすぐ「小比賀」の文字を見つけて「あぁ、あった」と安堵した直後、下の名前を見て凍り付いた。
なんと下の名前は私の「一知」ではなく「Y美」という女子の名前になっているではないか!
私の苗字は高松地域などには多い苗字ではあるが、一般的に珍しい苗字なので、これまで学年はおろか、妹以外に同じ苗字の者が学校内に存在したことはなかったので「小比賀=自分」という認識でいたから、自分以外に同じ苗字の生徒がいるということにかなり動揺した。
その時私は初めて「落ちたのかも知れない!」と慌てた。
もし、合格者氏名がすべて50音順に並べられているのだとしたら、彼女と私はすぐ隣同士に書かれていなければならないはず。
慌てて他を探して別の場所に無事自分の名前を見つけた時は正直ホッとした。
後から聞いたが、合格者をすべて50音順に並べて掲示していたのではなく、各出身中学別に掲示していたのだという。
彼女は白峰中学から受験していた。
そんな同姓の彼女であるが、卒業まで同じクラスになることもなく、なんの関わりになることもなかったので一度も話すこともなく卒業した。
もし、話す機会があればあの合格発表の日の出来事を話したかったな(笑)
こうやって無事坂高に入学した私であったが、ここから私の学生生活は大きく狂い始める。
坂出高校は中西讃地域では丸高に次ぐ公立進学校と言われていたから、皆そのつもりで来ている。
勉強も一段と難しくなる。
しかし私の一番の関心事は、新しい環境の中でいかに目立つか!だった。
髪型はもちろん、変形の学生服を得意げに着ては学校に通っていた。
当時私が履いて学校に通っていた「ボンタン」と呼ばれる太ももの部分が異様に膨らんだズボン。
その他、ベルトの上に10センチくらいの腹巻のような布がある「ハイウエスト」
上の学生服は極端に長い「長ラン」、反対に極端に短い「短ラン」などの変形学生服があり、その中間の「中ラン」を私は愛用していた。
それらの変形学生服を家から着ていくと親に咎められるので、家からは普通の学生服を着て出て、物置でそれらに着替える、と言う涙ぐましいことをやっていた。
まぁ、しかしなんでそこまでしてツッパリファッションがしたかったのか(笑)
当時、なんかおしゃれというか、他と違う恰好をしようと思えば必然的にそんなファッションになってしまうという時代背景もあったが。
しかし、そんな恰好をしていると「類は友を呼ぶ」と言おうか、同輩が出来るようになる。
ある日、何部だったか忘れたが、ある部室に誘われた私は悪友に「タバコ」を勧められた。
「おい!お前も一本吸えや」
いや、俺はいい、と断れず一本口にして火を点け吸い込んだ。
次の瞬間頭がクラクラ~として気分が悪くなった。
「これがタバコか!」
決してうまいとは思わなかったが、一つ大人になったような、一つ悪ぶれるようになったというか、そんな気分がして悪い気分ではなかった。
それからタバコを吸うようになった。
結局その15歳から45歳まで30年間吸い続けたけれど、15年前にキッパリ止めて今は一本も吸ってない。
当時はタバコも安かった、銘柄にもよるが200円しなかったもんな。
自動販売機で普通に買えたし。
今の不良少年は大変だ、バカ高いし、なかなか売ってくれないし(笑)
1年の終わりごろ私自身が所属していたバドミントン部の部室で悪友二人でタバコを吸っていたのを先生に見つかって2週間の停学を食らった。
校長室に呼ばれ、親と一緒に謝らなければならなかった時の情けなさ、みじめさと言ったら…。
バドミントン部の部室もしばらく使用禁止になってしまって先輩らに迷惑をかけてしまった。
バドミントン部も3年までは在籍したが、最後の総体の前後輩より弱い自分が嫌になって行かなくなった。
だから卒業アルバムには私の姿はない。
あの時最後まで頑張れば良かった…。
2年になっても私の悪行は止まらない。
坂出商業の横に昔、小さな薬局があってそこで200円くらいだったかな?消毒用のオキシドールを勝って自宅で髪になすりつけてはドライヤーをかけて脱色したり、無免許で原付バイクを乗り回したり。
その頃からなんとなく卒業したら理容師か美容師になろうかな?と考えていた私は「それなら勉強する必要ないやん」とばかり決めつけ?いや、もしかして逃げていたのかも知れないが、勉強というものは一切しなかった。
そんな状態だから成績は最悪!
数学で人生初めての0点を取った。
こんなの漫画でしか見ないと思ってたから笑えた。
当然、追試、追追試が行われるわけだが、わからないのだから何度追試しても一緒。
しまいには不憫に思ったのか友達が教えてくれて何とかなった。
「英語」もわからなくなったし、中学時代は好きだった「理科」も「科学」や「物理」になり数学みたいになって全然わからなくなった。
「mol」って何?今だにわからない(笑)
2年から担任になったY地先生、当時40歳くらいの女性の先生で古文が専門の厳しい先生だったが、私はこの先生に反抗に反抗を重ねた。
修学旅行に先の尖ったエナメルの靴を履いて行って「これでは連れていけん!」と言われT田先生が代わりに買ってきた先の丸い白いスニーカーがダサい上に高かったんでブチ切れた(T田先生、ごめんなさい)。
Y地先生には「ここはみんな大学受験を目指して来てるんや、あんたみたいに散髪屋になる言うて勉強もせんと、変な恰好ばっかりするんやったら学校に来る意味ないがな、今すぐ辞めて見習いに行け!」
と言われた。
いや、もっともである(笑)
しかし、こうも言ってくれた。
「小比賀君が店したら、一番に行ってあげるきんな!」と
そして、一番ではなかったけど、今も私の店にカットに来てくれている。
つづく
物語は今から約50年前、私の小学生時代のお話。
私は地元、今は無き「坂出市立坂出西部小学校」に通っていた。
今は無きというのは、今から15年ほど前、少子化の波を受けて「坂出中央小学校」と「坂出西部小学校」が合併し「坂出小学校」となったからだ。
2010年3月24日、坂出西部小学校閉校式の日、雨の中体育館に急ぐ児童たち
閉校式、校旗返納の儀式。
「西部小学校」の跡地に合併した「坂出小学校」が入ることになり「中央小学校」の跡地は私が今入院している「坂出市立病院」となった。
卒業以来入った校舎は想像以上に老朽化しており、取り壊しもやむなしと感じた。
西部小学校の跡地は残って坂出小学校となったが、校舎やプール、その後体育館や他の施設もすべて一新され、私が在学していた当時の面影を残すものは殆どなくなった。
昭和50年代初頭、私がどんな小学生だったか。
先生の話もロクに聞かず、忘れものばかりする生徒だった。
小学生の男子って勉強が出来なくても足が速ければ一目置かれたものだが、私は足も遅かった。
ある時意地悪な男子が「お前と女子のK岡、どっちが早いか勝負してみろや!」とはやし立てた。
彼女は学年の中でもひときわ可愛くて言わばマドンナのような存在だった。
当時、男子がかけっこで女子に負けるなんて屈辱以外のモノではなかったのだが、見事私は彼女に負けた。
普通に喜ぶ彼女に無性に腹が立って私は彼女を叩いて泣かしてしまった…。
なんと最悪な小学生男子だったんだろう。
「あの時は彼女に凄く悪いことをした…」
そんな思いをずっと引きずっていたのだが、そんな折、約30年ぶりに小学校の同窓会が開かれた。
2010年8月14日に行われた小学校の同窓会。
果たして彼女は来ていた!
満を持して私は「あの時の事を覚えてるかな?あの時は悪いことをした、ずっと謝らなくちゃと思ってたんや~」と切り出したのだが「そんなん、もう覚えてないわ~(笑)」と一蹴されズッコケたのはまた別の話。
宿題はあったのだろうが、ちゃんとやった記憶がない。
夏休みの宿題も計画性もなんのその、結局毎年9月1日に間に合わず、先生に「早く持ってこい!」と催促されるも、そのうち言われなくなるのをじっと待つという作戦で切り抜けてきた(笑)
友達は皆同じ校区だから近所にいて、休みになると、約束もせず誰ともなく集まって友達の家に行き「〇〇君、遊ぼ~っ!」って声をかけて近所の友達の家を周って、人数が増えたら「八幡神社」や、当時行ってはいけないと言われていた駄菓子屋兼ゲームセンターの「みつばち」でピンボールをしたり、茶臼山の広場で野球をしたり、その坂道でローラースケートをしたりして遊んでいた。
ある日、いつものように友達数人とN川君の家にいつものように遊びに誘いに行った。
「N川君、遊ぼ~っ!」
すると、お母さんが出てきて…
「M徳(下の名前)はな、今勉強しとるんよ~、ごめんなぁ~」
というではないか!
「勉強?」
私はその意味が分からなかった。
「宿題」というならまだ理解できたかもしれない。
しかし、その当時の私には「勉強をする」という概念がなかった。
私たちは狐につままれたような気持ちでN川君宅を後にした。
今なら小学校から塾に通わせることも珍しくない時代。
事実私の息子も娘も保育所の頃から受験対策の塾に通わせていた。
おかげで保育所から受験して「K川大学F属坂出小学校」に入る事が出来たが、F属小学校は校区がなく遠方から通学している児童も多いため、私の小学校時代のような行き当たりばったり、アポなしの遊び方は出来ず、親が事前にセッティングして送り迎えしてやらねばならなかった。
やがて私たちは西部小学校を卒業し、殆どの同級生と共に「坂出市立坂出中学校」に入学した。
そのうち数人は受験して「F属中学校」に行ったとずっと後に知ったが、私とは全く別世界の話のように思えた。
「坂出中学校」は私が入学する数年前までは西部小学校の東、今の「大橋図書館」の場所にあって、当時男子は校則で全員丸刈りを強制されていた。
なので近所の中学生のお兄さんなどに「お前も中学に入ったら坊主やからな~!」と脅されていて、暗澹たる気持ちになったものだ。
その後丸刈り強制の校則は廃止、多くの男子児童がホッと胸をなでおろしたという(笑)
そして学校自体も鎌田池の北側の小山町に新築移転され、きれいな校舎になった。
卒、入学の時期は鎌田池の周りは見事な桜で彩られる。
中学の授業、勉強が始まっても私はまだ「勉強」という概念を理解できなかった。
なので特別な勉強もせず「素」の状態で1学期、初めての「中間テスト」を迎えたのだ。
中間テストは「国語」「英語」「理科」「数学」「社会」の5教科。
それぞれ100点満点で、合計点でクラス別ではなく学年全体での順位が知らされる。
果たして私の初めての試験の結果の順位は学年300人中、103番だった。
まずまずだと思った。
少なくとも半分より上なのだから。
その時、同じ1年7組になっていたあのN川君が結果を受けて叫んだのだ!
「やった~!3番じゃぁ~!」と…。
その時私は初めて悟ったのだ「あぁ、N川君はこのために『勉強』していたんだな!」と。
そうなのだ、中学になれば、こうやって順番がつく。
そして中3になれば、その成績でどこの高校へ行けるかが実質振り分けられる。
N川君のお母さんは教育熱心な方と聞いていた、多分小学校の頃からこういったことを見越して指導されていたのだろう。
もちろん私の親も同じような事を言っていたのだろうが、なんせ何を言われても右から左の子供だったから全くそういうことを考えていなかった。
しかし、だからと言ってこの一件以降私が奮起して勉強に精を出したということは全く無くて、最初の中間テストがベストスコアで、その後テストを重ねるたびに順位は低迷し、1年の終わりごろは100番台の後半をウロウロ。
もうすぐ200番台に落ちようかという低迷ぶりであった。
それに父親がキレた!
父親が言うには「何故、俺の息子なのにこんなに勉強ができないのか!」というもの。
実は私の父親は「C央大学法学部卒」という当時としては輝かしい学歴を有しており、本人が言うには当時は「T大」より上だったとか。
卒業後、東京で司法試験の合格を目指して頑張っていたそうだが、色々あって挫折して地元に帰り、坂出市役所に勤めていた。
本人は「入ってやったんや!」とうそぶいていたが(笑)
国語や社会は何とかなるものの数学が全く分からなかった。
数学はだいたい20点台ではなかったろうか?
「なんでわからないの?」
「なんでできないの?」
そう聞かれても
「わからないからわからない」
「できないからできない」
そう答えるしかない、勉強ができないというのはそういうことなのだ。
母親が少しでも勉強をさせようと「学研のマイコーチ」という教科別の問題集を毎月知り合いから取ってはいたが、ほとんど解くこともなく手つかずの問題集が積み上がった。
1年の最後の3者懇談。
担任のH原先生と私と母親。
先生が「もうすぐ2年ですが、高校はどちらをお考えで?」
と母親に尋ねた。
母親は言いにくそうに「主人も私も坂出高校出身でして…だからというわけではないんですが、坂出高校に行けたらいいなと思っております…」
しかしそれを聞いた先生は苦渋の表情を浮かべながら…
「申し上げにくいのですが、今のこの成績ではそれはちょっと難しいかと…」
私はそれを聞いても別に何も思わなかった。
まだ1年だし、高校って言っても…。
まだまだ先の話のようなそんな呑気な考えでいた。
私は別に坂出高校に行きたいと思ったこともなかった。
またどこに行きたいとかいう希望もなかった。
しかし、そう言えば小学校の卒業式の後、母親と一緒に祖父、祖母の家に寄った私は卒業のお祝いをしてもらってやや浮かれた気分になっていた。
その時、玄関から叔父が「今、坂高の前を通ったんやけどな、落ちた生徒がようけ泣っきょったわ!」と言いながら入って来た。
その日は小学校の卒業式の日でもあったけど高校の合格発表の日でもあったのだ。
それを聞いて自分もまさに3年後、そういう「受かるか落ちるかの受験」の世界に否が応でも入って行かざるを得ないんだな、とやや暗い気分になったものだ。
そうして1年生が終わり2年生になった私。
クラス替えもあり、確か2年4組だったかな?
担任はS木先生という当時40代くらいの女性のユニークな先生だった。
40センチくらいの竹か木でできた「ムチ」みたいな棒を常に持ってて、何かやらかした生徒のお尻をペシペシ叩くのだ(笑)
もちろん痛かったけど、体罰というより生徒の方「痛て~!」とかなんか言っておもしろがってたな(笑)
今の時代ではご法度かも知れないけど、皆に好かれていて一度10人くらいで先生の家まで遊びに行ったこともあったっけな。
別にその先生に変わったからとかそういうわけではない。
その時、私自身に何が起こったのか、何故そんなことになったのか?
今ではそのきっかけがどうしても思い出せないのだが、2年の中間テストまで、周囲もまた私自身も驚く大きな変化があったのだ!
PS:当時の写真も貼りたいのだが、いかんせん入院中なので写真が手元にない。帰って時間があれば張っていきたいと思いますので、良かったら見返してくださいね。
つづく
月曜日に再再入院して水曜日には凄く調子が良かったのに日に日に具合が悪くなってゆく。
激減していた白血病の数値もまた上がって来て、何より足腰が痛くて歩くのもままならない。
なんでここまで痛いのか?
血液検査もしょっちゅうやってる。
尿検査も前立腺の検査もやった。
CTも撮った。
足のMRIも撮った。
骨髄検査もやった。
レントゲンもやった。
心臓エコーもやった。
心電図も取った。
髄液検査もやった。
頭のMRIもやった。
抗生物質の点滴も毎日何本も打ってる。
もちろん薬も飲んでる。
しかし、治らない。
原因すらわからない。
医師も困惑して、その糸口を掴もうとして色々な可能性を潰している状況らしい。
しかし、私には時間がない。
もうトータル一ヶ月以上入院している。
店は開けてはいるが、売り上げは惨憺たるものだ。
これから最も忙しい年末を迎えるというのに、このまま退院できずにいたとしたらその損害は甚大なモノになってしまう。
今日、Y本医師がやって来て、結局様々な検査を実施したが、原因は特定できないと言うことだった。
そして下した決断は「大学病院などの大きな病院に転院してもっと徹底的に調べてもらう方が良い」というものだった。
そうなるだろうな…
と予感はしていた。
しかし、これから転院して、となると年を越してしまう。
それだけはどうしても避けてもらいたい。
転院するにしても一旦退院し、年末はだましだましでも仕事をさせて欲しい。そして年明けから改めて転院の話を進めてもらいたいと希望は伝えた。
しかし、そう言ってこれまで2度退院しては2度も再入院しているのだから医師としてもその希望を受け入れるのは難しいだろう。
話は変わるが、こんな入院中の状態ながら実は結構忙しい毎日を送っているのだ。
それは「同窓会の幹事」
そんな状態で?
と思われるだろうが、今はパソコンさえあれば大体の事が出来る時代。
病室に持ち込んだパソコンで毎日資料を作ったり、ホテル側や他の同級生役員とやり取りして段取りなどの相談をしている。
同窓会開催の来月1月3日に向けてライングループを通じてお知らせ、お願いなどの情報発信も行っている。
同窓会とは私が卒業した「香川県立坂出高等学校」の学年同窓会の事。
実は同窓会を行うのは今回で2回目、前回は卒業30周年と言うことで13年前に行った。
私はその高校時代、生徒会に属したわけでもなく、学級委員も務めた事はない。
それどころか、カッコだけのツッパリというかヤンキー生徒。
チビでスポーツも勉強もできず、度胸もない癖に校則は破り、先生には反抗するわで、本当に何をしに学校に来ているのかわからない、まともな学生からは顰蹙をかうような、そんな今から思えば何の取り得もない、本当につまらない生徒だった。
そんな高校時代を送った私が何故400人の卒業生を代表して同窓会の幹事をすることになったのか。
それを書こうと思ったら、高校時代の事はもちろん、小学校時代の事から書かないと十分ではないなと思い立って、これからはそのお話をしばらくしていこうと思う。
よろしければしばらくお付き合いいただけたら幸いである。
病気の事はもう書き飽きたし、皆さんも読んでも気が重いに違いない。
もっとも、私の小学生から高校時代の話なんて何の興味もないかも知れないが、これもある種私の備忘録。
記憶のあるうちに書き記したいという気持ちと、もし私が亡くなった後、私の息子や娘がこれを読んで「お父さんはこんな風な学生時代を送ってたんだなぁ~」と感じてもらえればそれもまたいいだろうと思って書くことにした。
私の父は63歳の時、突然の心臓発作によって亡くなったから自分の人生、または家族に対して何を思っていたのか、どんな考えでいたのか一切聞く事も出来なかったから…。
それに、今、暇だしね(笑)
つづく
さて、具合の良かった水曜日の昼過ぎ、Y本医師が今日の血液検査の結果を持ってやって来た。
見てみると…
今日は待ちに待った退院日、しかし…
夜中からまた熱が出る…
そして朝からまた全身が痛い、特に腰から下、股関節、膝、足首、そして太ももやふくらはぎの筋肉、全部痛い。
痛すぎて寝返りも打てんし、とても立ち上がって歩けそうもない。
もう一回鎮痛剤を打ってもらう。
効かん!
朝食もなかなか食べる気になれず。
退院に向けて部屋の片づけをせにゃいかんのに全然身体が動かんし、やる気になれない。
点滴繋いでないのに点滴台を杖代わりにして歩く。
重症や。
退院前に眼科の診察を頼んでいたので向かう。
予約なのですぐに呼ばれて視力検査が始まるが、正直「C」がどっち向いてるなんかどうでもよくなって適当に答えてしまう。
次の検査台まで動けず免除してもらう。
その後の医師の診察の内容もボーッとして良く覚えてない。
何か気分が悪い。
看護師が「こりゃイカン!」と呼ばれ、車椅子で病室に戻され、ベッドに寝かされる。
ワラワラと看護師が集まって来る。
「何かこないだと似てるな…」
やはり血圧がだいぶ下がっているらしい、こないだほどではないが80台くらい。
「小比賀さ~ん!眼を開けて下さ~い!」
はいはい、大丈夫ですよ(笑)
退院に向けて抜かれていた点滴の針がまた入れられる。
あぁ、また点滴生活に逆戻りか…。
なんだか寒くてガタガタ、ブルブル震える、今回良く起きる現象だがこれを専門用語で「シバリング」というらしい、看護師が言ってた。
今度から使おうか「シバリングが起きそうだ!」なんてね(笑)
どちらにせよ、もう今日の退院はどう考えたって無理だ。
医師が来て更に股間2か所から採血され、入院の延長を改めて告げられた。
しかし退院してからこんなことになったら大変だったところだが…。
それにしても当初はウィルスか細菌感染で高熱が出て身体の節々が痛いということで受診し入院した。
それからもうひと月、1日何本もの抗生剤の点滴を打ち、薬も飲んでるのに一向に良くならない。
一体全体、突然オレの身体はどうなってしまったんだ?
難病「家族性地中海熱」以外に何か重大な病に冒されてしまったのだろうか?
退院に向けて昼食以降止めていたので、妻にうどん屋からうどん玉と出汁を持ち帰りしてもらう。
家から持って来てもらったどんぶりに出汁とうどんを入れネギとショウガもトッピング。
さぁ!2週間ぶりのうどんだ!
麺は?
う~ん…まぁ、持ち帰りだからな、仕方ない。
打ち立て、湯がきたてを食べたかったら元気になって直接うどん屋に行かないと。
「辛っ!」
出汁が辛い!
このうどん屋の出汁はどちらかというと「薄い」と思っていたけど、今日のはえらく辛くて飲めたもんじゃない。
薄味の病院食に舌が慣れてしまったのか?
元々高血圧なのにいつも結構出汁を飲んでしまっていた私にはいいのかも知れないが、普通のうどん屋の出汁も辛く感じるのは困るなぁ~。
でもまぁすぐ戻るか(笑)
一日3食の病院食、そのままではやはり物足らない。
なので、色々工夫している。
例えば朝食は基本3パターンのパン、薄くスライスした食パン、ロールパン3個、名前は分からないが同じようなパン3個、これが日替わりで出る。
それにスープのようなものと、ジャムかマーマレード、マーガリンのどれかが付くが、これだけではパンは食べきれない。
ジャムやマーマレードはあまり好きじゃないし。
そこで活躍するのが、バター3分の1とマヨネーズ。
それにハサミで切れ目を入れ、具を入れてホットドッグのようにして食べる。
あと、昼食や夕食は隣のレディ薬局で買ったちょっとした総菜とか、納豆とか卵とかフリカケとか「ご飯ですよ」で何とか飽きないように努めている。
あと副菜の酢の物とか和え物が口に合わないので、キャベツの千切りにマヨネーズをかけて食べたり。
そんな工夫をしながら思ったより長くなった入院生活を何とか凌いでる。
今朝は熱は出なかった。
身体の痛みは続いている。
昨日の今日だが久しぶりに体調がいい!
しかし、金曜日に予定されている「髄液検査」の結果を待つしか今は出来る事が無い。
今回は割と突然の入院になってしまったが、これまでの経験があったから割と必要なモノは最初からそろえることが出来たが、それでも細かいものを忘れがちだったので、これからの事も考えてリスト化してみた。
入院したことのある方は必要ないかもしれませんが、これからの方は是非参考にしてみてくださいね。
入院時必要物
●身の回り
着替えの下着、タオル、バスタオル、パジャマ、クロックス、スリッパ(部屋の中では便利)、上着
●雑貨
ビニール袋中(洗濯もの、買い出し等)小(ゴミ捨て用、小物)
ジップロック(食品用)、ラップ小(点滴部分を保護してシャワーを浴びる際便利、ティッシュ、ウエットティッシュ、カゴ大(一切合切を運ぶ時便利)、カゴ小(小物の整理に)、孫の手、セロテープ、輪ゴム、ボールペン、ハサミ(あると便利)、イヤフォン
●衛生
マスク、ボディソープ、洗い布、シャンプー、歯ブラシ、歯磨き粉、洗顔フォーム、洗濯洗剤、剃刀、爪切り、綿棒、毛抜き
●食品調味料等
箸、スプーン、コップ、飲み物、醤油、マヨネーズ、塩、胡椒、フリカケ等
●通信
パソコン、充電コード、マウス、スマホ、充電コード、延長コード
●その他
財布、小銭入れ、常備薬、目薬、サプリ、鍵、眼鏡
女性の場合は必要物は当然変わってくるだろうし、その人によって必要なモノは変わってくると思うので、よく「災害時に備えを」というように「入院時に忘れずに」と必要なモノをあらかじめピックアップしているとあとで困らないと思う。
ハァ~、明日はどうなるかな?
つづく
なんでかな~?
朝に熱が出て、点滴で下げたらそのまま一日行けるんやけど、また翌朝熱が出る。
日曜日の朝。
一体どうしたんだろう?俺の身体は…。
そう思っていたら担当のY本医師が来て。
「前に髄液検査っていうのをやったと思うんですけど、色んな可能性を否定するためにもう一度その検査をする必要があります、入院中は色々事情があってできないので、一旦退院したのち外来で検査しようとおもっております、よろしいですか?」と言ってきた。
やはり、そうか…。
そっちの線が怪しいか…。
髄液検査かぁ~。
あれメッチャ痛いんよね、だって骨盤に穴を開けてそこから髄液を抜き取るんだもの、傷も深いしなかなか治らなかった。
それどころか後にそこに血種のようなしこりが出来て、仰向けに寝たらそこがゴロゴロ当たって痛いんでまたちょっとした手術で取ってもらったんだよね。
あ~やっぱり、やんなきゃいけないか…。
それより、明後日火曜日退院予定だけど、こんなに熱が出ててホンマに退院できるんか?
家でもロキソニン飲んで同じように熱下げられるんならそれでもいけるけど…。
せめて明日の月曜日、熱が出ないことを祈りたい。
あ、そうそう!
保護してうちに置いていた子猫なんだけど、大阪にいる息子が数日帰って来ていたのだが(私は入院中)、その息子が酷い猫アレルギー持ちなので帰ってくるまでに子猫を何とかしないと、と言うことで娘の友達のお家に預かって貰っていたらしい。
そのお家には先輩猫が2匹いて、当初はビビッていたらしいが、そのうち慣れて仲良くしているらしい、
首輪もつけてもらって先輩猫とじゃれる子猫。
その後、更にその方の知り合いで里親になろうかという方もおられたのだが、この先飼ってゆくのに不安を覚えられたのか辞退されたそう。
そして結局、その娘のお友達の猫ちゃん一家に加えていただけることになったそうだ。
あの子はホント可愛いし、人懐っこいし、オスの子猫のやんちゃなところはもちろんあるけど、基本穏やかで優しい子だからこれからも一杯可愛がってもらえると思う。
放っておいても何か見つけて一人で遊んでる手のかからない子だった。
相手をしていてたまに興奮すると噛んでくることがあったけど痛くない程度に「甘噛み?」してくれる、子猫なのにそんな気遣いが出来る子だった。
本気で噛まれたら鋭い牙が食い込んで、ただでは済まなかっただろう。
私の家では飼うと決まった訳ではないからあえて名前は付けていなかったが、私は勝手に「ミューミューちゃん」と呼んでいた。
最初に見つけた時、ずっと「ミューミュー!」と鳴いていたから(笑)
お店の裏の倉庫の下でおびえる子猫。
しかし、どこから来てどうやってうちの店の裏にたどり着いたんだろう?
おかげで過酷な外界にさらされず、今は温かいお家の中で暮らすことが出来た。
ああ見えて強運の持ち主かも知れない。
今は子猫がいなくなって正直寂しいが仕方ない。
娘の友達なのでなかなか猫に会いに行くこともできないが、度々動画を送ってくれるらしいので、それで子猫の成長を見守ろうと思う。
ミューミューちゃん、俺の事を忘れないでおくれ。
最初にお前にご飯食べさせたのは俺なんだからな(笑)





















































