Jink Hairのロックな日々

Jink Hairのロックな日々

こちらは香川県坂出市にある理容室「Jink Hair(ジンクヘアー)」のブログです。店主が好きな「80年代、HR、HM、プログレッシブロック」のお話や、日々の出来事などを気ままに書いております。

かつて日本には「AからZまでのブランドのカメラメーカーがあった」と言われるほど数多くのカメラメーカーが存在した。

カメラ先進国といえばドイツ、アメリカだったが、戦後日本人はその手先の器用さを生かし、それを真似ながら独自の技術を磨いていったのだろう。

当時の二眼レフなどのカメラは今のカメラよりずっと単純な造りであったから案外取り組みやすかったのかもしれない。

「AからZまで」とはさすがに大げさだと思うが、それでも僕がカメラに興味を持ち始めた40年くらい前にはまだまだ沢山のカメラメーカーが残っていて、今よりも沢山の機種が存在した。

 そういったカメラメーカーは多分僕より年代の上の方の方が詳しいと思うのでそういう特集をするつもりはないのだが、前回思い出のカメラとして「Minolta XD」を取り上げた際、ミノルタのその後について説明しきれなかったのでここで紹介する。

 

それまで一部のコンパクトカメラなどには実現していたオートフォーカスの波が一眼レフにもやってくることになる。

当初各社が開発していたのはレンズにオートフォーカス機能を持たせ従来のボディに装着して使用する、というものだったが、レンズに駆動モーターを内蔵していたため大きく、重く、合焦スピードも遅く、とても実用に耐えられるものではなく「試作品」の域を出ないものであった。

本格的なオートフォーカス一眼レフを完成するにはボディ、レンズとも新しい設計での開発が不可欠だったのだ。

ここで各社を悩ませたのが、「システムの互換性」である。

一眼レフカメラはカメラボディだけ新しくできたらいいというものではなく、レンズやアクセサリーなどの互換性が保たれてこそ「一眼レフシステム」と言える。

もし、全く新しい設計のカメラ、レンズを発売するとなったら、それまでそのメーカーのシステムのユーザーを切り捨てることになってしまいかねないのである。

最もメーカーを悩ませたのがボディとレンズを接続する「マウント」と呼ばれる部分だ。

この銀色の部分が「レンズマウント」以前は絞り値、などを機械的に伝達するのみだったが今では電気接点を介して多くの情報をやり取りしている。

 

昔はただ取り付けられたらいいくらいの機構であったが、新しい技術が開発されてゆくに従ってマウントはカメラとレンズ双方に多くの情報を交換させる重要な役割を負うことになり、オートフォーカス以前は色々な工夫で何とかしのいでいたのだが、オートフォーカスの新システムを構築するにあたってどうしてもそのままでは難しくなってきたのであった。

いち早くそれに取り組んだのがミノルタであった。

ミノルタはそれまでのマニュアルフォーカスの「Xシリーズ、MDレンズシステム」を本格的なオートフォーカスシステムを搭載する「α(アルファ)システム」に一新させたのである。

そしてオートフォーカスカメラ第一弾として1985年に発売されたのがこの「α-7000」なのである。

             MINOLTA α-7000

実は僕はこの「α-7000」は所有していないのだが、ミノルタの歴史を語る上で決して外すことのできない機種なのであえて紹介する。

 

「α-7000」はボディ内にオートフォーカスに必要な機構を内蔵させ、レンズもマニュアルレンズと大きさ、重量そして価格も同程度で発売され、更に合焦スピードも当時としては速く、また操作系を従来のダイヤル方式を近未来を彷彿させるような液晶パネルにボタン式にするなど画期的なデザイン、性能がカメラ業界を驚嘆させ、世界的な大ヒットとなり、それまでNikon、Canonに後れを取った下位メーカーだったMINOLTAは一気にシェアNo1のトップメーカーに躍り出たのである。

 

しかし、そこに大きな落とし穴が待っていた。

α-7000に用いたオートフォーカス技術が特許を侵害しているとアメリカの「ハネウェル社」に訴えられ、結果ミノルタは100億円以上の賠償金を支払う羽目になってしまうのだ。

その巨額の損失はNikon、Canonの追随を許し、その後のデジタルカメラの開発にも後れを取ることとなり、結果的にその後大きな影を落とすこととなる。

 

2003年にミノルタはコニカと合併しKONICAMINOLTA(コニカミノルタ)となり、同ブランドでカメラの開発も行っていたが、業績は振るわず、そのわずか3年後の2006年、コニカミノルタはカメラ、レンズ、フィルムなどのすべての写真事業からの撤退を決め、α(アルファ)ブランドはSONYに譲渡された。

 

コニカミノルタは会社自体は存続し、現在はオフィス、医療機器などの

開発、製造などを行っている。

日本で一番目と二番目の歴史を持つカメラメーカーが合併したものの現在は写真事業から撤退しているとは皮肉なものだ。

 

ミノルタユーザーにとっては寂しい限りだが、ミノルタの誇る「αシリーズ」はSONYにしっかり受け継がれ多くの名機も誕生している。

新シリーズ「中古カメラ道」堂々スタート!(笑)

 

というわけで、これからしばらく僕が所有する中古カメラなどを当時の思い出などと一緒に紹介しようという新企画である。

最初に断っておくが、僕はものすごい知識を持ったカメラマニアでもないし、ものすごい高価なカメラを所有しているわけでもなく、ものすごく沢山持っているわけでもない、中途半端なカメラ好きに過ぎないので、もしかしたら間違いや、知識不足を露呈させてしまうかもしれないが、その点はご容赦願いたいと思う。

 

まず僕がカメラ好きになったのは祖父の影響が大きい。

祖父はたいそうなカメラ、写真好きで自宅の2階に暗室をこしらえて自分でモノクロ(白黒)写真の現像や焼き付けなどもしていた。

その暗室には何度か入らせてもらった覚えがあり、お酢のような酢酸の臭いが立ち込める中、白い印画紙に「ボーッ」と画像が浮き上がって来る様は子供心に強い印象を与えるのに十分だったはずだ。

 

ただ、当時カメラは非常に高価なモノであって、子供が気安く触れるものではなかったので、初めて一眼レフを扱ったのは中学の時で叔父さんから借りたCANONの一眼レフだったと記憶している。

 

 

そして念願の自分のカメラは高校入学時に「入学祝」として祖父に買ってもらったこの「ミノルタXD」(1977年発売)なのである。

Minolta XD 50周年記念モデル

(ミノルタはカメラメーカーとしては100周年を迎えることはできなかった…)

 

このミノルタXDは発売当初「世界初の両優先AE搭載機」として話題を呼んだ。

「両優先AE」とは何かということをカメラに詳しくない人に説明するのは少々骨が折れるのだが、せっかくの機会だから…

「説明しよう!(笑)」

 

写真はある一定の光量がフィルム(デジカメなら受光体)に当たって撮影できる。

それを調整しているのが「絞り」と「シャッター」だ。

絞りはレンズ内にあって何枚かの絞り羽根がレンズの絞り環を回すことによって動いて、入ってくる光の量を調節することができる。

「シャッター」はカメラ側にあって、薄い膜が高速で動くことによってフィルムに当たる光の時間を調整することができる。

だから同じ撮影環境であれば、絞りを絞ればシャッタースピードは遅くなり(シャッターが開いている時間が長くなり)絞りを開ければシャッタースピードは速くなる(開いている時間は短くなる)。

もう一つ前の世代のカメラは露出計を見ながらシャッタースピードも絞りの設定も手動でやっていた。

しかしこの頃のカメラでは「AE」といって「絞り値」、もしくは「シャッタースピード」のどちらかを撮影者が設定すればカメラが光量に合わせて「シャッタースピード」もしくは「絞り値」を自動で決めてくれるような機能が定着しつつあった。

それでは、その「シャッタースピード」を優先するのかそれとも「絞り値」を優先するのか。当時はカメラメーカーによって分かれていて、Nikon、PENTAX、OLYMPUS、などは「絞り優先派」。それに対してCanon、Konica、などは「シャッタースピード優先派」だったように思う。

 

「そんなのどっちでも関係ないじゃない!」

と思うだろうが、関係大有りなのだ。

それは何故かというと、シャッタースピードの違いによる写真、絞りを絞って撮る写真と開いて(開放)撮る写真。は写り方にそれぞれ違いがあるからなのだ。

シャッタースピードが遅い場合、当然手ブレや被写体ブレが起こる危険性もあるが、流し撮りやわざとブレさせて動きを出すという技法も使えるし、逆にシャッタースピードを速くして動きのある被写体を静止させて捉えるなど、スポーツ写真などには「シャッタースピード優先AE」が適しているといわれている。

絞りは絞った時と開いた時ではどう映り方が違うかというと「被写界深度」が違ってくる。

「被写界深度」とはピントの合う範囲のことで、絞ればピントの合う範囲は広くなり、開けば範囲は狭くなる。

風景写真などでは絞ればピントの合う範囲が広くなり、ポートレート写真などでは絞りを開放して人物のみピントを合わせて背景をぼかすことで人物が浮かび上がって映る。

このように被写体や撮影シーンによってどちらを優先するかで使い勝手が変わってくる。

そして、それなら両方できた方がいいだろう。という考えでできたのがこの両優先機「ミノルタXD」である。

このミノルタXDはシャッターボタンの周りにあるレバーを切り替えるだけでA(絞り優先AE)、S(シャッタースピード優先AE)、M(マニュアル)を選択でき、また更にSに設定すれば撮影条件が変わって設定のシャッタースピードの範囲を超えると、設定したシャッタースピードも自動で調節し適正露出を得るという、マルチプログラム的な使い方もできる実に優れたカメラなのだ。

しかし、その多機能さとは裏腹にそのたたずまいは実に地味なものであった。

その辺が翌年に発売された両優先のライバル機Canon(キヤノン)A-1にイメージ的に後れを取ることになったのかもしれない。

  (カメラロボット) CANON A-1

A-1はとにかくカッコよかった、XDが秒間2コマのワインダーしか用意されていなかったのに対してA-1は秒間5コマのモータードライブが用意されていたのも大きかった。

 

このXDで高校入学時から大阪に出てから30代でオートフォーカスカメラを買うまで実に色々な写真を撮った。

 

妻と結婚前に旅行に出かけ、色々撮ったつもりがフィルムが正しく装填されていなくて一枚も映ってなかったというド素人並みのの大失態をやらかしたのも懐かしい思い出だ。(XDはそういうことがないようにフィルムが正しく装填されていればここに赤い指標が出るのだが、それも未確認だった)

ミノルタは日本でもKonica(コニカ)に次いで2番目に古い歴史を持ったカメラメーカーである。

この頃はフラッグシップ機の「X-1」を筆頭にこのXD、視度調整機能付きのXD-s、その下位機種として「XG-E」「XG-S」などのXシリーズを展開。

Minolta

      Minolta X-1          Minolta XG-E

更に入門機として1980年に発売された「X-7」は当時熊本大学の女子大生だった宮崎美子を起用し「今の君はピカピカに光って~♬」のBGMとともに大胆にジーンズを脱ぎ捨てるというCMが話題になり大ヒットした。

           Minolta X-7

今はクイズ女王として各クイズ番組で活躍し、auのCMでは「高杉君」のおばあちゃん役もこなす宮崎美子だが、このデビュー当時は本当にかわいい。

僕はこのX-7は所有してないのだが、そのうち安くていい個体があれば購入してもいいかなと思っている。

でも実はカメラ以外に貴重なお宝を持っているのだ!

当時色んなカメラのカタログを集めていましてこのX-7のカタログもあったのだ!

それがこれ!(笑)

これはかなりの珍品ですぞ~!(笑)

どのくらいの値が付くか、ヤフオクにでも出してみようか(笑)

 

 

ミノルタがこの後、どういった運命をたどるのか、それはまた別に機会に譲ることにする。

 

「網膜動脈閉塞症」という聞きなれないが、恐ろしい目の病気を発症して、突然左目の約三分の一の視力を失って数週間。

失った部分の回復は絶望的だが怖いのは再発と脳梗塞や心筋梗塞などに発展しないかなどである。

そのために今回の閉塞症の原因を探るべく様々な検査を受けた。

エコー検査、MRI検査、血液検査等。

脳外科の先生にも診ていただいて、首の血管に血栓の原因となる部分があるかもしれないが特に何らかの処置をするまでもない事。また血栓ができるのは動脈硬化や俗に悪玉コレステロールと言われるLDLの数値が大きく関わってくると言われているが、これらの数値は特に異常は認められなかった。

なのでしばらく飲んでいた血管を広げる薬も止め、俗に言われる「血をサラサラにする薬」を処方するまでもないとのことだった。

 

ところでこの一連の出来事をこのブログに書いている理由。

一つは自分の人生の中でも大きなピンチとなる出来事が起こったとき自分はどう考え、どう乗り越えようとしたのか。

それを後に振り返ったとき思い出せるように書いている。

それと当店のお客様に不安を与えかねないのに何故公開したか。

それはこの「網膜動脈閉塞症」という一般にあまり知られていないが一瞬にして視力を失うという怖い病気について少しでも多くの人に知ってもらって、もし自分にこの病気が起こったとき、正しい処置をしていただいて少しでもその目、視力を守ってもらいたいからである。

 

もし、何も痛みや脳などの異常がないのに突然目の前が真っ暗になったり、視野が欠けたりしたときはこの「網膜動脈閉塞症」を起こしている可能性がある。

そうなると先に説明したように治療は時間との戦いになる。

その時まず自分でやっておほしいのが

「眼球マッサージ」である、これはまぶたの上から指で眼球を、あまり強すぎない力で圧迫する動作を繰り返す。これにより、眼圧が低下したり、動脈内の栓子がずれて血流が改善する場合もある。

同時に救急車を呼び「網膜動脈閉塞症」の可能性を伝え、少しでも早く適正な処置をしてもらうことである。

その処置とは、心筋梗塞の発作時に使われるニトログリセリンなどの亜硝酸〈あしょうさん〉薬や血栓溶解薬、網膜循環改善薬(カリジノゲナーゼ)などを使用する、更に眼圧を下げるため、房水〈ぼうすい〉を抜く手術をしたり、低酸素状態を改善するため、高圧酸素療法を行うこともあるという。

 

発症してから時間が経過し、視神経が壊死してしまえばもうその後は何をしても戻らないのでそこのところを肝に命じてもらいたいのだ。

 

何でも失ってからその大切さに気付くものだ。

近眼や老眼はあっても目を開ければ普通に「目が見える」ということのありがたさ、素晴らしさ。

それはこれまで見えることが全く当たり前のことだったから、特別感じたこともなかった。

うちのお店にも全盲のお客様がいらっしゃるが、その方に比べると僕なんか屁のようなモノかもしれないが。

目の障害に限らず、耳の障害、手足の障害、いろいろな障害、病気があるが、障害のない人は普段目が見え、耳が聞こえ、自分の足で歩け、モノを手に持てるということに特段感激もしないし感謝もすることもない。

しかしそれはそれで素晴らしい、感謝すべきことなのだ。

 

そんなことを考えているうち、昔、25年以上前に読んだ雑誌のある記事のことを思い出したのだ。

 

その記事のタイトルははっきりとは思い出せないが…

「突然の悪夢にもへこたれないスーパーポジティブ障害者」

なんかだったと思う。

その男性は一般の方なのだが、20代の頃スポーツ事故で大けがをして下半身不随の障害を負い、車いすの生活になってしまう。

 

これがもし、自分の場合だったらと考えて欲しいのだ。

「なんで俺が…」と人生を悲観して自殺をも考えるかもしれない。

そこまでじゃなくとも、ふさぎ込んで人にも会いたくないし、外にも出たくないだろう。これからどう生きるかなどと考える余裕もなく、その非情な現実を受け入れるのにかなりの時間を要するのは容易に想像できる。

普通はそうであろう。

しかし、彼は自分が一生車椅子生活になったと知ったときどう思ったか?

 

彼はこう思った…

「これはこれでおもろいで!」

 

なんと、すごい言葉なんだろう!

「これはこれでおもろいで!」

彼自身これまで健常者だったから車椅子とは当然無縁だった、だからその車椅子生活が新鮮に思えてそう思ったというのだ。

そしてこれまでの仕事もスッパリ捨てて障害があってもできる仕事を確立させた。

そして車椅子で街に出た彼は車椅子に乗ったまま街を歩く女性に声をかけまくったのだという!

いわゆる「ナンパ」である。

ナンパ自体を素晴らしいというわけではないが、考えても見て欲しい。

街で女性に声をかけるなどという行為は普通でも勇気のいることである。ましてや自分は車椅子に乗った障害者。引け目を感じても仕方のないところなのに彼は意に介さず、

「彼女らは今まで車椅子の人に声をかけられた事がないんで面白がってか、結構相手をしてくれた」

そうである。

そしてのちに彼はこうして知り合った健常者の女性の一人と結婚したのである。

人生左右する重大なアクシデントを経験し重い障害を負いながらこの底抜けの明るさとポジティブさはどうだ!。

記事の内容をそこのところ以外よく覚えてないし、その後もう25年以上たって彼が今どうしているか知る由もないが、彼ならその後の人生もパワフルにポジティブに生きているはずである。

 

彼のような人もいれば、五体満足に生まれながら人や世間を恨み、引きこもったり犯罪を犯す者もいる。

 

しかしそれは持って生まれた性格や精神の病気だけの問題ではない。

障害を負い、ふさぎ込み、一生その運命を恨んで生きるのも、障害をものともせず彼のように生きるか。それは選択ではないかと思う。

 

結果どちらが幸せな人生になるか考えたとき、当然ポジティブに生きた方が幸せな人生になるのだったら迷わずそれを選ぶべきなのだ。

彼の行動は特異に思えるかもしれないが、実は最も理にかなった正しい選択をした結果なのである。

 

人生の逆境は色々あるだろう。

重い病気になったとき

仕事で大きな失敗をした時

失業した時

会社が倒産しそうな時

 

そんな時

「これはこれでおもろいで!」

この名言を思い出そう。

 

こう思える時、我が身に襲い掛かるどんな試練にも打ち勝つことができるのだ。

正直僕の場合、まだその心境には達しているとは言えないが、

こうなった後のメリットについて、ここでは明かせないが実はいくつかある(笑)

病気や障害はなければそれに越したことはないだろうが、なったらなったで、それはそれなりにその人の人生において何か意味があるのではないだろうか。

 

これからもとりあえず仕事はできる!

なんとありがたいことか!

目に若干の障害はあれど、まだまだ僕の技術でお客様に喜んでいただける仕事ができるのだ!

 

「これはこれでおもろいで!」

 

 

 

 

        ※この画像は本文とは直接関係ありません

 

明くる6月8日の朝目覚めて恐る恐る左目を確認してみる。

あ~、やはり昨日のままだ。

何も変わってない代わりに悪くもなってない。

今日は土曜日、朝から朝から沢山のお客様が来られるだろう。

昨日何とかなったとはいえ、まだまだ不安が残る。

 

ところで時間は前後するが、ようやくこの症状と向き合おうとネットで色々調べてみる。

この突然起こった症状は何なのか、そして治療法はあるのか。

まず

「目の血管詰まる」

で検索してみると

「網膜動脈閉塞症」

「網膜静脈閉塞症」

の2つの病名が出てきた。

医師は目の動脈と言っていたから

「網膜動脈閉塞症」の方だろう。

そこを見てみるとこの病気について色々わかってきた。

 

「網膜動脈閉塞症」とは体の血管のどこかにできた血栓(血の塊のようなもの)が目の奥の網膜の血管に詰まる現象だ。

網膜には視神経が張り巡らされており、ここに水晶体を通した光や画像が映し出されることで人間はモノを「見る」ことができる。

その大切な視神経に血管が詰まることで血液が運ばれなくなり機能しなくなってしまうのだ。

これは原理でいえば、脳梗塞や心筋梗塞と同じである。

ただ、目の場合は全く痛みなどの自覚症状がなく突然視野が欠損してしまう。

対処としたら、とにかく一刻でも早く血流を再開させるしかないのだが、

それは時間との勝負になる。

血液の供給が絶たれた視神経はなんと1時間、長く見積もっても2時間以内に血流が再開されないと壊死してしまい、二度と元に戻らなくなってしまうのだ。

 

僕の場合、運の悪いことに眠っているときに発症した。

だから発症の正確な時間はわからない。

異常に気付いたのが午前7時ごろ、その後支度して最初の眼科で受診したのが午前9時ごろだから、もうその時には手遅れになっていたと思われる。

更に紹介で総合病院のK病院の眼科での診察は更に一時間以上経過した後だからもうその時点では医師も何も手の施しようがなかったのだと思う。

もし発症して2時間以内であったなら血栓を取り除く処置が可能だった。

K病院について「すぐに緊急手術をします!」と言ってくれた方がどれだけ頼もしくて安心しただろう。

これほどの重大な障害が起きながら何も具体的な処置をしてもらえないもどかしさと不安。

医師ははっきりと「あなたの左目はもう二度と元通りにはなりません」とは言わなかった。

でも医師や周りの雰囲気から本能的に「もうこれはダメなのかな?」と悟るしかなかった。

 

でも、やはり信じたくない。

ほんの少しずつでもいいから視神経が再生されて少しづつ見えるようにならないのだろうか?

しかし、調べるほどに絶望的な情報が立ちはだかる。

 

こんな目の病気があるなんて誰が知っていただろうか?
脳梗塞や心筋梗塞は誰でも知っている、それはそれで命にかかわる恐ろしい病気なのだが、この「網膜動脈閉塞症」も一瞬にして目が見えなくなるという恐ろしい病気なのだ。

ちなみにこの網膜動脈閉塞症でも「中心閉塞症」と「分枝閉塞症」とがあり、僕の場合は動脈の枝分かれした部分の詰まりだったから部分的な壊死で済んだが動脈の中心が詰まれば左目全体が見えなくなっていた可能性もあった。これが医師が言っていた「まだ運がよかった」ということなのだろう。

この写真の上の白っぽく見える部分が視神経が壊死した部分。


もし左目が全く見えなくなるか、見えない部分がもっと広かったら…

もう今までのように仕事はできなくなっていただろう。

高校時代にこの道に進むことを決め、以来35年以上この道一本でやってきた。

苦労して技術を磨き、それなりにこの仕事での地位を築き、家族を養い、家も建て、独立し店を出し、従業員も雇い、車も買った…。

いろんなモノを仕事をすることで叶えてきた。

それらすべての根幹である「仕事」が出来なくなる。

考えてみれば、僕は「技術」という絶対的な自信によって支えられてきた。

よくスタッフに「俺はもし明日から『北海道に行け!』って言われてもこの技術でやっていけるんや!」と豪語していた。

しかしその35年かけて磨いた「技術」も目が見えなくては全くの水疱と化す。

 

目の奥の小さな詰まりが僕の仕事や生活、自信、誇りや家族の幸福、人生までも奪いかねない悪夢を起こしたのだ。

 

目を開けている時間、つまり目が覚めている時間は常にあの忌々しい雨雲が左目の上にあって視野を遮る、この存在がもう嫌で嫌でしょうがない。

しかし、寝ている時以外は一生この「雨雲」に付き合わなくてはならないのだ。

 

まだ娘も小さく、これからも、もっと元気で仕事を続けていくつもりだった。それなのにこんな一生治らない目の障害を負うなんて、本当に残念で残念でたまらない。

 

しかし、原因はどうにしろ、もう起こってしまったことをいつまでもクヨクヨしていても始まらない。

とにかく一番大事な仕事はなんとかできるのだ!

ならば、これを受け入れて前に向いて生きるしかないのではないか?

今はこんなことを書いているが、こう思えるようになるまでかなりの葛藤また時間を要したことは否めない。

 

実はこうなって思い出したことがあった。

それは約25年以上前に読んだある雑誌の記事だった。

 

                                 後編に続く

それは突然やってきた。


忘れもしない、2019年6月7日の朝7時ごろ、いつものように目覚めた。


前夜眠るまで特に何も変わったことがあったわけではない。

特に疲労していたわけでも、深酒したわけではない。


いつものように目覚めただけなのだ。

 

目覚めたとき左目に何か違和感を覚えた。

そう、まぶたが腫れて上の方が見にくいようなそんな感覚・・・。

「昨夜そんなに飲んだかな?」

それとも寝ている間ひどく目を擦ったのかも知れない。

 

いや、これはなんか違う・・・

階下に降りて鏡に目を写してみる。

見た目には少々充血しているだけで特段変わったことはない。

しかしこれは今まで経験したようのない違和感だ。


寝ぼけながらも少しずつ状況が明らかになってきた。

左目の上部約三分の一くらいの視野が欠けるように見えなくなっている!

それはぼんやりかすむような感覚ではなく、ギザギザの境界線を隔てて見える部分と見えない部分がハッキリと別れているという見え方。

この見えない部分は目をつぶってもはっきりとその形が分かるのだ。

これが左目の障害のイメージ、背景には目の検査の際使われる絵を使用してみた。このように焦点のすぐ上の部分まで灰色の雨雲のような影に覆われ、その部分は全く見えない。

 

 

「これは尋常ではない」

そう思った僕だが、家族には動揺を与えないようにさりげなく朝の支度をしながら「目の調子がおかしいから朝一番で眼医者に行って来る」とだけ伝えて家を出た。


「一体これは何の症状なのだろう?」

白内障だとか緑内障だとかは聞いたことがある。

しかしそれは徐々に悪くなるものであって、こんなに、一夜にして見えなくなるなどというものではないはずである。

ではこれは一体何なのだ、何より見えるようになるのだろうか?


実は以前から右目に「虹彩炎」という症状を時たま起こしていて、何度か受診している眼科があったのでそこに朝一番に予約を取った。

そのO眼科に着き、色々検査を受け、程なく診察を受ける。

 

「目の血管に異常がある可能性があります、紹介状を書くのですぐに総合病院の眼科に行ってください。その間にも眼球を手で押さえる『眼球マッサージ』を行ってください」とのこと。

 

医師の口調は淡々として落ち着いているが、何か重大なことを言いよどんでいるような歯切れの悪さを感じる。

ザワザワと胸騒ぎがする。

 

紹介された近くの総合病院K病院の眼科に向かう。

言われた通り眼球マッサージを必死でやるも、痛いばかりで見え方に何も変化は起こらない。

 

K病院の眼科でも同じような検査をし、診察を受ける。

最初の医師の時感じた歯切れの悪さは変わらない。

年配のベテラン医師はいくつか質問をし、造影剤を注入した上での眼底撮影が必要だという。

点滴で造影剤を入れながら検査台にあごを乗せ、目を開いたまま何枚もフラッシュ撮影を行う。

その中の数枚の写真を指して医師が言ったことを要約すると。

「ここを見るとわかるようにこの網膜の中の血管に小さな何かが詰まっている。これのせいで血流が堰止まり、その先の視神経に血液が流れなくなったために視神経が麻痺し、その部分が見えなくなっている可能性が高い。」

 

「じゃあ、その詰まった何かを取り除くことはできるのか?」

「そして、血流が戻ったら元通り見えるようになるのか?」

 

と、当然聞きたくなる。

しかし、それが聞けない。

それを否定されるのが怖くてそれが聞けないのだ。

 

どす黒いモヤモヤとした不安が胸の奥底でくすぶり、時間を追うごとにその体積を増してくる。

 

医師が

「しかし、まだ運がよかった方かもしれないよ、これが詰まる場所によったら全部見えなくなっていた可能性もある、またこの血栓が脳に行っていたら脳梗塞を起こしていたかも知れない。」

 

確かにそうかもしれないが、今は何の気休めにもならない。

僕にとっては・・・。

 

眼圧を下げる目薬と再発しないようにと血管を広げる飲み薬を処方され店に帰った。

 

まだ、なんか信じられない、フワフワとした状態。

これが悪夢であったなら。

それにこのような見え方で今までのような仕事ができるのだろうか?

前に右目に炎症を起こしたときあまりの痛さに眼帯をして仕事をしようとしたことがあったが、遠近感が分からず、とてもじゃないが怖くてカットができなかったことがある。

その時は右目を閉じたり開けたりして何とかしのいだが・・。

 

今回は左目が全く見えないわけではないが結構な面積の視野が欠けている。

店に帰ると結構忙しそうにしていて、お客様も何人か待たれている。

もうどうこう言っている場合ではない、やらなければならない。

 

ということで、その日何人かのお客様のカットをさせていただいた。

やはり仕事はしずらい。

僕らの仕事は目で頭髪のシルエット、面、毛流を常に観察し、髪の毛一本も見逃すまいと注意を払いながら行っている。

その何より大切な目に障害を負ったのだ。

さすがにこれまでと同じような仕事はできないかも知れぬと覚悟した。

 

しかし、一日何とか乗り切って、結果、まぁ何とかなった。

というのが正直なところである。

 

見えにくくても僕には35年の積み重ねがある。

こう切ったらこうなるという身体や五感に覚えこませた技術の積み重ねである。

 

仕事は何とかなると分かった。

問題は今後この目は良くなるのであろうか?

それとも、これがもっと悪化して見えない範囲が広がったりはしないだろうか?

また、再発して今度は全部見えなくなるとか、片方の右目まで障害を起こしたりはしないだろうか?

 

そんな不安にさいなまれながら眠りについた。

朝起きたら元通りになっているという奇跡を信じて・・・。

 

                                   中編に続く