【思い出味紀行】大阪市中央区千日前(通称)「おかわり屋」(正式名称不明)閉店 | Jinkhairのバイカーへの道

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こちらは香川県坂出市にある理容室「Jinkhair(ジンクヘアー)」のブログです。店主が好きな「80年代HR&HMのアルバム紹介、ライブレポ」や「カメラ」「バイク」のことなど、日々の出来事などを気ままに書いております。

昭和58年の春、高校を卒業後大阪の「理容いとう」という理容店に見習いとして住み込みで働くことになった僕。

当初は理容専門学校だけに通う筈が、学校の方針である「委託生制度」のため、お店に就職し働きながら学校に通うことになったのである。

僕の入学した「高津理容美容専門学校」は大変校則の厳しい学校であったから、地方から出てきた生徒のアパート等での一人暮らしを生活が乱れる等の理由で認めていなかった、。

女子寮はあったが男子寮はなく、地方からの男子はお店に入り、そこから通いなさいというわけである。

お店の方も学校からの紹介で人材が確保でき、生徒のほうもフルタイムでの勤務ではないがそれ相当のお給料が貰え、学費も賄えるという点で魅力であった。

 

そういう理由で何となく決まった大阪での就職。

これが思ったよりきつかった!

僕の入った「理容いとう」は中央卸売市場の近く、福島区野田にあり、戦前から残る長屋造りの古い建物で昭和初期から続く徒弟制度の色濃く残る古ぼけた理容店であった。

店の2階が寮になっていて、数人の若者が共同生活をしていた。

大部屋でまるで修学旅行のように布団を引き寝泊まりしていてプライバシーはゼロ!

先輩の洗濯物も後輩がしないといけない。

 

公務員の家庭に生まれ、クーラー付きの一人部屋を与えられて何不自由なく暮らしてきた僕が、突然古い理容店の大部屋に放り込まれ、そのあまりの環境の違いに恐れおののいたのは言うまでもありません。

 

仕事といえば、最初は当然何もできないし、何をしていいかわからない。バイトもしたことがなかった僕は店に立っていることさえ怖くて仕方がなかったのです。

とにかくお客さんが怖くて、お店の片隅に隠れるように立っていると先輩に「そんなところにいたらあかん!」と叱られた。

 

最初の一か月は本当に嫌だったし帰りたかった・・・。

夜、枕を涙で濡らすこともありました。

しかし、親の反対を押し切って出てきた以上、そう簡単にケツを割っておめおめと帰られようか!

何とかここで辛抱して生きてゆかなくてはならない。

 

そうこうしているうちに理容学校が始まることになった。

僕が入学した「高津理容美容専門学校」(以下「高津」)はとにかく校則、戒律、規則等の厳しい、細かい(うるさい?)学校で、そのおかげで大阪の理美容専門学校の中では格式の高い学校とのイメージを誇っていました。

とにかく厳しかったのが「タバコ」に関してで、成人であっても、校外であってもタバコを吸えば「退学」という異常なくらいの厳しさを示すくらいで、その他、掃除、あいさつなどにもうるさい学校でした。

毎朝朝礼があり、居眠りでもしていたら「警策棒」というので背中をたたかれます。

 

朝起きて支度をし、野田駅の前の「ママクック」でのり弁を買い地下鉄玉川駅を目指します。

ピンクの千日前線に乗り、阿波座、西長堀、桜川、難波を経て日本橋駅で降ります。

日本橋駅から南に行くと「黒門市場」という商店街があってそこを抜けたところに「高津理容美容専門学校」はありました。

 

昭和58年度、入学した生徒、クラスは・・・・

 

まず

美容部Aクラス

ドン!

 

美容部Bクラス 

ドドン!!

 

美容部Cクラス

ドドドン!

 

美容部Dクラス

ドドドドン!

 

そして我らが

理容部!

なお、この写真を撮った日、ぼくは遅刻したか休んだため写ってない、それにしても理美容合わせてこれだけの学生がいて、34年後の今、いったいどれだけの卒業生が理美容の仕事を続けているんだろうか?

しかし、こんだけ女の子がいたのに全然仲良くなれなかったなぁ~(笑)残念!

 

 

これらは卒業アルバムの写真であるから、入学時はもっと生徒はいたはず(卒業まで何%かは辞めてると思う)だが、これを見ても学校は美容部が圧倒的大多数で理容部は肩身の狭い思いをしたことがうかがえる。

 

それでもこの頃は理容部も美容に比べて少ないとはいえ、80名近い生徒がいた。「少子高齢化」「美容師ブーム」「理容離れ」の影響か今はこの半分もいないと聞いたが・・・。

 

理容部の生徒は大半が僕と同じ、高卒の生徒だったが、他に中卒の生徒、または社会人を経て入学した者、また結婚したご主人が理容師でお店を手伝うため資格を取りに来た主婦まで、様々であった。

それら80人が同じ教室で授業を受けるのだから、結構大変ではあった。

これは当時僕が授業で取っていたノート。

結構几帳面にとっていたことがわかる。

今こんな丁寧に書けない・・・。

 

色んな事に苦悩しながら、将来の夢を目指して懸命に毎日を送ってたんだなぁ~。

なんだか当時の自分がいとおしくなりました。

その将来の姿が今の俺か・・・

当時の俺が見たらがっかりしないだろうか?

 

僕ら委託生は学校に行くだけではなく、お店の仕事と学校を両立させなければならなかった。

月曜日から金曜日、そして土曜の昼までは学校。

学校が終わると寄り道もせず、お店に帰り夜まで仕事。

日曜日は学校は休みだがお店は一日忙しい。

月曜日はお店は休みだが、学校はお昼まであった。

つまり、僕ら「委託生」は自由な時間は月曜日の午後からだけ、ということになる。

 

その月曜の午後がどれだけ楽しみだったか!

学校帰りにそのころオープンしたばかりの「プランタンなんば」などに友達数人とよく繰り出していた。

 

それら友人何人かで月曜のお昼、よく食べに行ってたお店がある。

場所は千日前、地下街「虹の町」(現なんばウォーク)と千日前筋の連絡通路の階段の奥のほうにあったと記憶している。

現在の千日前の様子

 

現在のその場所は「ROUND1」の大きな建物に建て替わっていて当時の面影は全くない。

当時は真ん中あたりに地下街に降りる階段があって、左端のほうには当時「キャバレーSUN」があったと記憶している。もちろん当時は縁がなかったが・・・。

どっかから拾ってきた昔の写真

 

残念ながらそのお店の名前は全く思い出せないが、炉端風の和風のお店であった。夜は居酒屋として営業していたのだろう。

そんなお店が昼は昼定食を提供していた。

僕らはいつも4、5人で訪れ、四角いテーブルを囲むように座った。

 

なぜそのお店によく通ったのか?

一つは値段が安かったから。

いくらだったかはハッキリ覚えていないが、ほかのお店と比べて安かったんだろうと思う。

そしてもう一つの理由は「ご飯がおかわり自由」だったから。

そう、僕ら貧乏学生にとってはご飯がいくらでも食えるというのはすごく魅力的だったのだ。

そんなに豪華ではなく魚などが中心の和風のおかずだったと思うが、それを半分残し、おかわりに備えた。

そんなことから僕らはそのお店を正式名称ではなく、いつしか「おかわり屋」と呼ぶようになったのである。

 

そのお店の従業員はみな「おばちゃん」であった。

そしていつも僕らに親切だった。

「お茶入れようか?」とか

「おかわり持ってこようか?」

とか、笑顔で気遣ってくれていたと記憶している。

 

お店の接客教育がしっかり行き届いていたのであろうか?

それとも、18歳くらいの僕らを自らの息子達と重ね合わせていたのだろうか?

 

僕の母親は僕を大阪に送り出した後、この曲を毎日聴いては涙していたそうだ。

それを僕はずっと後に聞いた。

 

     

      「案山子」

              さだまさし

 

元気でいるか 街には慣れたか
友達できたか
寂しかないか お金はあるか
今度いつ帰る

城跡から見下ろせば 蒼く細い河
橋のたもとに 造り酒屋のレンガ煙突
この街を綿菓子に 染め抜いた雪が
消えればお前が ここから出て
初めての春

手紙が無理なら 電話でもいい
金頼むの 一言でもいい
お前の笑顔を 待ちわびる
お袋に聴かせてやってくれ

元気でいるか 街には慣れたか
友達できたか
寂しかないか お金はあるか
今度いつ帰る

山の麓煙はいて 列車が走る
木枯しが雑木林を 転げ落ちてくる
銀色の毛布つけた 田圃にぽつり
置き去られて 雪をかぶった
案山子がひとり

お前も都会の 雪景色の中で
ちょうどあの案山子の様に
寂しい思い してはいないか
体をこわしてはいないか

手紙が無理なら 電話でもいい
金頼むの 一言でもいい
お前の笑顔を 待ちわびる
お袋に聴かせてやってくれ

元気でいるか 街には慣れたか
友達できたか
寂しかないか お金はあるか
今度いつ帰る
寂しかないか お金はあるか
今度いつ帰る・・・

 

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あの頃よくつるんだ友達は34年後、どうなったのか?

H瀬君M越君はネットで25年ぶり以上に再会して、現在Facebookでも繋がりがあり、それぞれ自分のお店を頑張っている。

S野君とは何年か前大阪の岡本商会の近くで偶然会って、奈良の実家のお店を継いで頑張っていると聞いた。

O田君はH瀬君らによると、もうこの仕事はしてないそうだ。

 

N田君はどうしてるだろうか?

九州に帰ってからとんと音沙汰がないが、元気にしているのだろうか?と思ってFacebookで検索してみたら、いた!

約2年前に撮ったと思われるプロフィール写真のみで他には何も情報はないが、相変わらず細身でおしゃれだ。

「薄い」と気にしていた髪の毛もなんとか維持できているようだし(笑)

今、どこにいて何をしてるんだろう?

また、そのうちメッセージでもしてみようか・・・・。

 

そうだ!次の【思い出味紀行】は彼との思い出を34年前の大阪ミナミで探してみよう・・・。