【思い出味紀行】大阪市福島区野田「珈琲館一本木」閉店[一本木ランチ] | Jinkhairのバイカーへの道

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こちらは香川県坂出市にある理容室「Jinkhair(ジンクヘアー)」のブログです。店主が好きな「80年代HR&HMのアルバム紹介、ライブレポ」や「カメラ」「バイク」のことなど、日々の出来事などを気ままに書いております。

先日僕のお店JinkhairのFacebookページに「いいね!」をくれてネット上ではあるが約28年ぶりの再会となったH君

「思い出味紀行 大富士ハンバーグ定食」の回で紹介した僕が高校卒業後7年間勤めた「理美容いとう」の後輩である。

彼は中学時代から店によく遊びに来ていて、皆からよく可愛がられていて、中学校卒業後、高卒の3名の同期と共に入社して来たのだ。

僕より5世代下で年齢は8つ若い彼だが、なかなかセンスがあり、技術の習得も早かったように記憶している。

それから程なく僕は店を辞めたのでその後はよく知らないが、よく頑張っていると人づてに聞いたように思う。

その彼だが、聞くともう45歳になり、17年前に独立し自分のお店で頑張っているという。

17年前というと28歳ごろ、もう独立していたということだ。

僕など40過ぎてだから本当にすごい!

あのかわいらしかったH君が本当に立派になったなぁと感慨深い。

 

前にも書いたが、僕らはあの野田本店の上の男子寮、隣の女子寮で大勢で集団生活を送っていた。

多分今では考えられない劣悪な環境だったと思える。

それでもあの頃はそれが当たり前だったからそれに対しての不満はなかった。

それでも最も多感な時期、仕事や人間関係、それらが濃密に折り重なるなか、将来への希望と不安に揺れ、苦悩していた。

彼は「小比賀さんの厳しさと優しさの指導のおかげです。」と言ってくれたが、あの頃は(今もだけど)未熟でいろいろな人に迷惑をかけてしまった・・・。

 

しかし、あの当時の事は色んな感情とともに大切に心の奥にしまってある。

やはりあそこが僕の原点であり、多感な時期を過ごした青春の象徴でもあるのだ。

 

そんなことを思ううち、色々な事が思い出されてきた。

「思い出味紀行」再開である。

 

 

あれは僕が北千里の支店から野田本店に帰って来た後のことだから

22、23歳、昭和62、3年のころである。

「野田本店」はJR野田駅から中央市場へ向かう路地を入ってしばらくのところにあった。

この辺は戦時中、米軍に空襲を逃れたせいで戦前からの長屋造りの家が立ち並ぶ古い町並みであった。

その通りを突き当たったところに新しい喫茶店がオープンしたのであった。

その喫茶店の名前は「珈琲館一本木」といい、レンガの壁に赤い丸いテントが可愛らしくておしゃれだった。

当時は「六本木に五本足らない」などと揶揄していたが、名前の由来は最後まで聞くことはなかった。

 

マスターは毎日、駅から僕の店の前の道を通って通われていた。

その縁もあっていつしかうちの店にカットに来てくれるようになったのだ。

細身で物静かで、穏やかで優しいマスターだった。

カットの時はあまり余計なお話をすることはなく、いつも目を閉じられていたと記憶している。

ただ、髭が濃くて剃るのには苦労したなぁ(笑)

 

やがてその「珈琲館一本木」にかわいいアルバイトさんが来るようになった。

当時の僕と同年代のショートカットの似合う可愛らしい女の子で、マスターより少し遅い時間に同じように僕の店の前を通って通っていた。

聞けばマスターの親戚の子で、姪っ子だという。

たまにカットのお客さんがコーヒーをごちそうしてやると言って出前を頼むことがあって、そんな時は彼女がお盆にコーヒーを乗せて持ってきてくれた時はなんかとても照れ恥ずかしくて「ごめんね!ごめんね!」って、何も悪いことしてないのに謝ったりして(笑)

 

それから僕の月曜日のお昼の楽しみが出来た。

基本僕ら寮に入ってる者は朝、昼、晩と三食付きなのだが定休日の月曜日はこの限りではない。

 

月曜日のお昼、少しゆっくり目に起きて朝ごはんと昼ごはんを兼ねて一本木に出かけた。

いつもお店の一番奥まった席に座って、決まって注文したのが

「一本木ランチ」1000円也

喫茶店のランチに1000円とは少々贅沢な気もするが、毎日寮の食事を食べていたか僕らからすると一週間に一度の贅沢という気持ちもあった。

「一本木ランチ」とはいわばスペシャルランチのようなもので、唐揚げやハンバーグ、エビフライなど、盛り沢山のおかずが白い大きなお皿の上に乗っかっていて、別にスープ、サラダもあったかな?

喫茶店らしく白い皿にライスが盛られていて、ライスもおかわりしたかもしれない。

時間をかけてゆっくりこれらを平らげるのは至福のひと時であった。

 

彼女とどんな話をしたかは覚えていない。

先輩たちは「アタックせんか~」などとはやし立てたが情けないことにそんな勇気は全くなかった。

 

その彼女とは当然何も発展することはなく、その後僕は店を変わったせいでもう一本木に通うことはなくなった。

その後大阪で何軒か店を変わりながら10年ほどいて、2002年に郷里香川に帰り、更に5年ほど高松で勤めた後2006年の6月、Jinkhairの開業となる。

 

それまで、本当に色んな意味で余裕なく、昔の事を思い出すことも少なかったが、店を開業し数年たったころ、ようやく落ち着き、過去を振り返る気になってきたのだ。

 

時は2010年のお正月、僕は妻の実家の佐賀に帰省せず、家族とは別に一人で大阪にやってきた。

そして20数年ぶりに「珈琲館一本木」を訪れたのである。

ここから先は当時mixi日記に書いたので、そのまま引用する。

 

今回のテーマは「自分のルーツを巡る旅」

27年前高校を卒業後、大阪で働いたお店や、社長、先輩、友人達を訪れる旅です。もう10年、20年ぶりに会う人ばかりです。
日ごろなかなかそういう時間はないのでこの際貪欲に廻って見ようというわけです。

手始めは高校卒業後、何もわからないまま最初に就職して働いた店、ここには7年お世話になって、最後は店長も務めましたが、ここがもうとっくに閉店したということは聞いてましたし、事前にグーグルストリートビューで付近の様子はわかっていたんですが、約20年ぶりに界隈を歩いてみました。

2軒隣の横野さんの息子さん、当時幼稚園~小学生でよくかわいがっていましたが、家の前でばったり会うと見違えるほど立派な成人になっておられましたが、さすがに目元に面影がありました。

かつて僕が飾り付けたりした店の入り口はシャッターが閉ざされ、テントも取り外され、すっかり空き家になってしまっていました。

ここの二階と隣が寮になっていて最盛期には15人くらいの若者がここに所狭しとジグソーパズルのように布団を敷いて暮らしていました。
僕も後にワンルーム借りるまで、ここに5年住みました。

プライバシー、ゼロ。 毎日が修学旅行のようで、そんな家族のような仲間と夜遅くまで練習したり、騒いだり、けんかしたり、よく隣の山田さんに叱られました。

21、2歳頃、理容競技大会(ウイッグメンズ部門)で特選一位を受賞した時の写真。

 

18歳から25歳まで、最も多感な時期、将来への夢、希望とともに不安、苦しみ、悩み。懐かしい楽しい思い出もあれば、思い出したくもない苦々しい思い出も沢山ありますがそれらがすべてここに詰まっているような気がして感慨深くしばらく眺めたり、写真を撮ったりしていると
そんな空き家を眺め回している僕を不審に思ったのか、通りがかりの女性にジロジロ見られてしまいました。
しかし、僕の理容人生はまさにこの長屋造りの古ぼけた空き家からスタートしました。
もし中に入ることができたとしたら、まさしく「ニューシネマパラダイス」の成人した「トト」が取り壊し前のかつて自分が働いた映画館を訪れたシーンそのものになっていたことでしょう。

24、5歳頃、本店店長として「店を改革してやる!」と張り切っていた頃。店の物を色々自作したりディスプレイしたりして頑張ってました。


いつまでもそこで眺めていても仕方ないので通りの奥まで歩いていくと、当時よく行っていた喫茶店がまだ営業しているのを見つけ、入ってみました。

2010年再訪時に撮影、「賀正」のポスターが見える。


残念ながら当時のマスターはもうおらず、マスターのお姉さんがママさんになっておられましたが。
コーヒーを飲んでおられた常連客らしき5,6人のおじさんのお顔をみるとどうも見覚えがある!
なんと当時僕がカットさせていただいてたお客様ではありませんか!。

そこで昔話に花が咲き、その後の様子なども色々お聞きすることができました。50年近い歴史があった老舗の終焉は誠に寂しいものであったと、隣の山田さんのおばあちゃんも施設を転々とした上昨年なくなったことも聞きました。

当時その店が本店で最盛期、支店が7店舗、スタッフ総勢40名を超える大所帯でしたが、大型店舗の出店に失敗し多額の負債を抱え、次々と店舗を売却、閉鎖していき、とうとう現在は社長夫婦で小さな店を借りて細々と営業するだけとなってしまったそうです。

自分の出身の店がそういう状態になってしまったことは寂しいかぎりです。
現在の社長夫婦の様子を考えると忍びない気持ちはありますが、僕はあえてその社長のやっている店をたずねようと決心しました。

 

 

これが、僕が「珈琲館一本木」に約20年数年ぶりに訪れた時の様子である。

本文にあるように当時の細身の穏やかなマスターはおらず、マスターのお姉さんがママさんになっていた。

「あの子は今はここには居なくて別の事しよるんよ」と確かおっしゃっていた。

この時は常連のお客さんとお話ししながらコーヒーを飲んだだけで「一本木ランチ」は食べなかったが・・。

 

それから更に8年に年月が過ぎた今、「珈琲館一本木」はどうなったのだろう?

お馴染み「食べログ」で調べてみるが思うような情報が出て来ない。

 

それなら、今度は得意のグーグルストリートヴューだ!

JR野田駅から南西に下り、中央市場に向かう路地を入る、僕の勤めた「理容いとう」の真向かいにあった「誠工舎」という時計屋さんの看板が右に見えるがもう多分ずいぶん前に閉店してしまったのだろう。ここで買ったSEIKOのダイバーズウォッチはまだ動いている。

この4件並んだ、左から2件目の家が「理容いとう」のあった場所。

もう少し進んで振り返ったところ。赤いテントは当時、福井のおばあちゃんがやっていた書店。当時はここで店に置く雑誌類を買っていた。

また再び、奥のほうへ進むと突き当りの右に赤いテントが見える。

真ん中の赤いテントのお店が「珈琲館一本木」、左は和菓子屋さん、右は「本田盛文堂」という文房具屋さん(ここのご主人と息子さんもお客さんだった)

見ると「珈琲館一本木」は前と変わらない様子に見える。

しかしお店の玄関あたりがなんだか荒れているような様子が気にかかる。

今度はネットで更に検索すると、意外なところに手がかりが見つかった。

今回も引用し、以前よく日記を書いていたmixiである。

このmixiの中のコミュニティに「珈琲館一本木」の名前を見つけたのである。

 

 

書き込みは2009年の11月28日に「TOMOKO」という名前で以下のように書かれている。

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こんにちは。
野田二丁目で、母親と弟が、喫茶店を経営しています。
中央市場にも、出前しています。
店番号がわかれば、メニューを持って行きますね。
食事も豊富で、これからの冬は、ドリアや、鍋焼きうどんとかあります。
他に、洋食関係では、ハンバーグ、焼肉、トンカツ、一口カツ、唐揚げなどなど、
詳しくは、下記まで、ご連絡くださればと思います。

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これは野田の中央卸売市場が近かったので、そこまでの出前を賜りますよ。という宣伝である。

2009年の11月ということは僕が再訪する少し前の事だ。

しかし、その下にはこれに対する唯一の書き込みが残されていた。

 

2016年2月28日、「トム」さんというハンドルネームで

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こんにちは、長崎からです 昔お世話になりました
2月の出張の際店を覗いたら、閉店の張り紙が もう1度寄りたかったのですが
残念です

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残念ながらやはり「珈琲館一本木」はすでに2016年2月までに閉店していた。

理由はもちろんわからない。

店を切り盛りしていた「TOMOKOさんの母親」というの僕が再訪した時にお会いしたママさんの事だろう。あれから8年の月日が流れて、体調でも悪くされたのだろうか?

TOMOKOさんの弟さんと言えばママさんの息子さんだろうけど、僕が再訪した時は見かけなかったが・・・・。

 

ここで僕はハタと気づいたのである!。

30年前、あの優しいマスターの時代、アルバイトに来ていたあの彼女はマスターの姪っ子だと聞いた。

そして再訪した時、ママさんとして店を切り盛りしているのはそのマスターのお姉さんだと。

それではこのTOMOKOさんはあのマスターの姪っ子、つまり僕が密かに思いを寄せていた、あのショートカットの似合ってたアルバイトの女の子ということになりはしないか!?

 

この書き込みをしたTOMOKOさんの個人のページを見てみるとTOMOKOさん本名らしき名前がフルネームで記されている。

しかし、僕は彼女の名前を知らないか、もしくは覚えてない。

それにご結婚されていれば姓も変わっているだろう。

年齢は54歳とある。

僕と同年代であることは間違いない。

大阪府大阪市在住とあるが、mixiにはこれ以上の手掛かりは見つけられなかった。

それではこのTOMOKOさんにダイレクトメッセージを送ってみようか?

一瞬そう考えたが、やめた・・・。

見るとかなり長い間ログインしてないみたいだし。

そもそも、なんとメッセージするというのだ。

「僕は以前、一本木さんの近くの理容店で勤めてまして度々利用させていただいて・・・実は・・・」って?

店が営業していたころならともかく、30年もたって今更連絡したところでどうなるものでもあるまい。

覚えてくれてないかもしれないし、第一人違いかもしれない。

 

「いい思い出はそっとしておくのが一番!」

 

どこかから、そういう声がした。

改めてグーグルストリートヴューで見てみると、もうあのかわいらしい赤いテントもなくなり、ガレージにでもなっているのだろうか、代わりに大きなシャッターが下りていた。

 

時の流れは残酷である。

つい最近西城秀樹の訃報が報じられた。

若く元気で、美しかった人が、老い、そして亡くなってゆく。

多くの人で賑わい、繁盛していた店が寂れ、消えてゆく。

しかしその時の流れに誰も抗うことはできない。

 

このお店もこの地で30年近くは営業していたのだろう。

僕はその初期の3、4年ほどしか知らないが、きっと近くの商店主や地域の人に愛され、憩いや集いの空間になっていたはずである。

そして惜しまれつつ閉店したのだろうと思う。

 

かつてのお店の面影は失われても、その店の味、匂い、人の笑顔、それらが醸し出す雰囲気、一時代を築いた輝き。

それはそこを利用した人々の記憶にしっかりとしまわれている。

当時お店を懸命にされていた人々のためにも「思い出味紀行」を続けようと思う。